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深度三,三三糎の心の海から湧き出ずる毒ぼやきの数々。
 
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■[正倉院展]菩提僊那の直筆署名 文書初出展(読売新聞)

というニュースを朝、目にしまして。
え……。こんなすごいニュースを会期末目前にして知るなんて…。
まあ、芸術的な工芸品でもないこういう『文書』の扱いがささやかなものになってしまうのは仕方ないと思いますが、これがネットでも初出らしいので、やっぱりちょっと、ああ、まあ、内容も別に面白い訳じゃないし、でも、うおおお…。
こりゃすごい すごいです。
出家したい人の推薦状にあった署名らしいのですが。
筆蹟から、実直な人柄が窺えるって…Vv
こんなものが見つかるなんて、嬉しいですね~。

血が騒いだので、以前書いたものを引っ張り出してきてみました。
仏哲や林邑楽をメインに据えて書いたものからの抜粋なので、色々ばっさりやっちゃってますが。
菩提僊那の人物像がちょっとでも見えたらいいな~と思います。



■婆羅門僧正(菩提僊那)について
 
○その出生と呼称
 婆羅門僧正菩提僊那(ぼだいせんな、ボーディセーナ/仙那とも)は南天竺の人と伝えられる。生年についての記述はないが、『南天竺婆羅門僧正碑』には、
 
『以天平寳字四年歳次庚子二月二十五日夜半。合掌向西。辞色不亂。如入禮樂。奄爾遷化。即以同年三月二日。闍維於登美山右僕射林。春秋五十七。』
 
 と、没年と享年が記されているので、天平宝字四(760)年から逆算してみると、生年は703年(唐では中宗の嗣聖二〇年、又は則天武后の長安三年、日本では文武天皇の大宝三年)となる。
 その名が示す如くバラモン階級の出身であり、天平勝宝二(750)年に僧正位に叙されているので、婆羅門僧正と呼ぶ。これは勿論日本での尊称である。菩提僊那は僧号であるが、梵音に漢字を振ったものと思われる。俗姓は婆羅遲(バーラドヴァージャ)といった。
 『扶桑略記』と『大安時菩提伝来記』には迦毘羅衛城(カピラヴァストゥ)の出身とも云い、迦毘羅衛は北天竺であるから南天竺出身という記述とは矛盾が生じる。(『扶桑略記』には注をしてこの事を疑っている。)天竺の地理に明るい筈もない日本人が誤って南天竺と記したものなのか、釈迦の生誕地である迦毘羅衛を菩提僊那のそれに当てたものか、判然としない。
 
○主な現存資料
 菩提僊那に関する史料は、おおよその成立年代順に、
 
  1. 『南天竺婆羅門僧正碑并序』(770年頃)
  2. 『続日本紀』各記事、(~797年頃)
  3. 『日本往生極楽記』(~1002年頃)
  4. 『扶桑略記』(平安時代後期)
  5. 『東大寺要録』(1106年)所収の『開眼師伝来事』に引かれる
  6. 『大安寺菩提伝来記』と
  7. 『元興寺小塔院相承記』、
  8. また『日本高僧伝要文抄』(1249~51年)
  9. 『元亨釈書』(1322年)
…が挙げられる。 一部テキストを、「続き(史料)」に載せる。
 中でも最も詳細な記述があるのは『南天竺婆羅門僧正碑』である。
これによれば、菩提僊那は若くして天竺諸地方にその高徳を知られていたが、唐は五台山(現在の山西省北東部)に現れた文殊菩薩の徳を慕って入唐を決意したという。
 仏哲を伴った菩提僊那の入唐後の様子については、詳しい記述は見られないが、『東大寺要録』第四巻《大和尚伝》*一に、鑑真が来朝し、一時東大寺へ留まった時の記事として次のように見える。
 
「後有婆羅門僧正菩提亦来参問云。某甲在唐崇福寺住経三日。闍梨在彼講律。闍梨識否。和上云憶得也。」
 
 晩年の菩提僊那が東大寺の鑑真の元を訪れて、「某甲(わたくし)が唐の崇福寺に滞在して三日目に、阿闍梨(ここでは高僧の敬称)があちらで律を講じて下さいました。御記憶でしょうか」と聞き、鑑真は「憶えていますよ」と答えた、という。
 どうやら菩提僊那は、長安の崇福寺に止宿していた事があるようである。ただしその期間などはやはり詳らかでない。
 入唐の時期についての記述もないが、ただ、『僧正碑』には、
 
「于時聖朝通好發使唐國。使人丹治比眞人廣成。學問僧理鏡。仰其芳譽。要請東歸。僧正感其懇志。無所辞請。以大唐開元十八年十二月十三日。與同伴林邑僧佛徹唐國僧道璿隨船泛海。及于中路。忽遭暴風。波濤注日。陰曀迷天。計命忽若贅旒、去死尚其一分。擧船惶遽不知所為。乃端仰一身入禪観佛。少選之間風定波息。衆咸嘆其奇異。以天平八年五月十八日。得到筑紫太宰府。(中略)同年八月八日到於攝津國治下。」
 
 という記述があって、これを見ると、《大唐開元十八年(730)年十二月十三日》に遣唐使等の招きに応じて遣唐廻船に乗った、かのようであるが、丹治比真人広成を正使とする第九次遣唐使団が日本の難波津を出発したのは天平五年(733)年、唐歴でいうと開元二十一年で、明らかに齟齬がある。これでは、菩提等が遣唐使との遭遇を待たず、自力で海へ漕ぎ出したという事になってしまうのだ。
 しかし、それならばこの《十二月十三日》という具体的な日付は何処から来たのであろう。
 思うに、《大唐開元十八年十二月十三日》とは、菩提達が入唐したか、五台山あるいは長安に着いた日付と見るのが妥当なのではあるまいか。そう考えると、菩提達は六年ほど唐に滞在し、その間に遣唐使丹治比広成や理鏡と邂逅したことになる。天竺から遠路はるばる唐へやって来て、すぐに日本へ渡るというのも慌ただしい話である。当時菩提僊那は未だ二十後半~三十代前半であった。学ぶべき事も意欲も、尽きることはなかっただろう。日本行きが決まってから、遣唐使達から日本語を学ぶ機会などもあったかも知れない。
 
 さて、上記のような理由から、私は菩提僊那の入唐・来朝年について次のように比定するのが妥当と考える。
  • 菩提僊那等入唐、或いは五台山または長安への到着…大唐開元十八年(天平二(730)年)十二月十三日、菩提僊那二十七歳。
  • 第十次遣唐使(正使丹治比真人広成、副使中臣名代)発遣。…天平五(733)年。菩提僊那三十歳、唐にて広成、遣唐留学僧理鏡から日本へ招かれる。
  • 遣唐廻船に乗船し、太宰府を経て難波津へ到着…天平八(736)年、菩提僊那三十三歳。
 
 『僧正碑』では、この航海の様子を
 
「船泛海。及于中路。忽遭暴風。波濤注日。陰曀迷天。計命忽若贅旒、去死尚其一分。擧船惶遽不知所為。乃端仰一身入禪観佛。少選之間風定波息。衆咸嘆其奇異。」
 
 ──と述べており、彼等が嵐に遭った事は確かだったようである。
 ちなみに、この時の遣唐廻船は第四船まであったが、海難に遭って第三・四船は流され、判官平群真成らを乗せた第三船は漂流の末、崑崙国に流れ着いたと『続日本紀』は記す。
 崑崙とは、唐宋時代に於いてマレー半島・インドシナ半島などの地域の総称として使用されていた地名である。一行は在地民の襲撃に遭い、また病に冒されるなどして次々に斃れ、捕らえられて王の前に引き出された時、生存していた者は平群真成と水夫数名に過ぎなかったという。数年収監されたあと、商人の手引きによって脱出、唐との国境まで逃げて唐に救援を求めた。当時、中央には阿倍仲麻呂(朝衡)がおり、彼等の帰国の為に様々な差配をしたため、平群真成らは帰国を許されて、渤海使に同船して日本への帰国を果たした。この時平群真成が捕らわれた国は林邑であったとする説が有力だが、林邑の人である仏哲が日本へ辿り着き、平群真成が林邑へ漂着したとは、奇縁なことである。
 さて、第一・二船に乗っていたと思われる菩提僊那と仏哲は、九死に一生を得て太宰府へと辿り着き、難波津では太宰府からの報せを受けた行基から歓迎を受けた。
 
○行基との交誼と日本での処遇

 太宰府を経て摂津国難波津へ到着した菩提僊那を、天平随一の高僧行基が迎える場面が、殆どの資料に描かれており、特に『扶桑略記』以降『元興寺小塔院相承記』『菩提伝来記』『日本往生記』の資料においては、初対面の行基と菩提僊那は、最初は梵語で会話をし、次には和歌を詠み合っている。
 書き記されている歌は、次の二首である。(※[]内は筆者注)
 
「(前略)唱二倭歌一曰。
靈山能。尺迦乃彌摩部二。知岐利天子。眞如久知世須。阿比美都留賀奈。
[靈山の。釈迦のみ前に。ちぎりてし。眞如くちせず。逢ひ見つるかな。]
異國聖者即答和曰。
迦毘羅恵邇。等毛邇知岐里之。加比阿利天。文殊美賀保。阿比美都留賀奈。
[※迦毘羅恵に。ともにちぎりし。甲斐ありて。文殊みかほ。逢ひ見つるかな。]」
 
 資料によって表記の異同はあるが、大体この様である(引用は『日本往生極楽記』から)。
 実はこの贈答歌のエピソードは『太平記』『今昔物語』『源平盛衰記』『沙石集』などにも引かれ、謡曲『巻絹』にも出てくる。歌意は、前生に於いて釈迦の元に共に修行をし、来世での邂逅を言い交わした、その契りが今果たされた、というほどのものであろう。
 もし仮に、これを史実として見た場合の話ではあるが、外国語の学習においては、日常会話よりも詩作の方が遙かに難易度は高い筈である。和歌の贈答となるとなかなか、日本語初心者には難しいだろう。となると、唐で既に相当の語学力を培ったということだろうか…。
 もっとも、これがありきたりの漢詩の贈答でないところが、宿世の縁というもののあらわれとしては相応しいわけである。
 また、本当にこの時和歌を詠み交わしたかどうかはともかく、東大寺開眼会に際して菩提が詠んだ歌は確かに残っている。(『乃利乃裳度。波那佐岐邇多利。計布與利波。保度介乃美乃利。佐加江多萬波舞。/法のもと。華開きにたり。けふよりは。仏の御法。栄たまはむ。』東大寺要録所収)
 
 行基(666~749年)という人は、八世紀頃から畿内を中心に遊行し、仏法を説くと共に、多くの寺院開基に携わり、池溝や橋梁の建設、布施屋(租税の運搬者や旅行者の為の無料宿泊所)設置などの社会事業に力を尽くして、民から大変敬われた高僧である。その影響力の強さから養老元年、僧尼令によって弾圧されたが、のち東大寺及び大仏の建設においては、その人望を活かして勧進を推し進めることとなった。
 菩提達の来朝時、行基は六八歳という高齢であったが、自ら菩提僊那を迎えに出て、初対面でまるで旧知の間柄のように打ち解けあったという。
 
「…主客相謁。如舊相知。白首如新。傾蓋如舊。於是見矣。…」(『僧正碑』)
 
 日本への道すがら、菩提等が同道の理鏡等から行基の業績を聞き知っていた事は容易に想像できる。その高徳の僧に温かく迎え入れられて、菩提もはるばるやって来た甲斐があったと感じたのではなかろうか。
 また、老境にあって大事業を担う行基にも、波濤を越え来たった若き天竺僧の志が、さぞや尊く有難く思われたことだろう。
 
 都に入る頃には、この目出度い話を聞き付けた大衆が婆羅門見物に訪れ、道を埋め尽くしたという。
 聖武天皇も感激し、勅して菩提僊那等を奈良大安寺に住まわしめた。
 
 現在は盛時の面影はないけれども、大安寺は奈良の昔には南都七大寺の一つに数えられ、東大寺に並んで南大寺とまで称された名刹であった。寺伝では、聖徳太子が建立した熊凝精舎を、舒明天皇十一年(六三九年)に、太子の遺言によって百済大寺として移築したのがこの寺の始まりであるとしている。のち、高市大寺、大官大寺、大安寺と移築の度に名を変えた。
 菩提僊那の大安寺への居住については、『扶桑略記』には「大安寺東僧坊南端小子坊留住」とあり、『元亨釈書』には「教舘大安寺東坊」とある。
 当時の伽藍配置は、『南都七大寺の歴史と年表』に詳しい。大安寺伽藍には他の南都寺院とも違う特色があった。それは、通常は講堂を囲んで三方に配置される僧坊(僧侶達の生活空間)が、更に金堂を囲む回廊の外側にまで伸びており、しかも一列でなく、複数列に重なっていることである。
 つまりこれは、大安寺に居住した僧侶の数が大変多かったことを示している。菩提僊那や仏哲が居住した当時は880人を越える学僧が居たという。
菩提もこの大所帯の内に一室を構えたのである。恐らく同行の仏哲も彼の弟子として、東坊の南端に住まいしたものと思われる。

 来朝してからさして間もなく、天平八(736)年から大安寺に居住した。以来菩提僊那入滅の天平宝字四(760)年まで、二十四年ほどを我が国で過ごしたことになる。

 当時の大安寺は、単なる寺院に留まらず、渡来の賓客の受け入れ先として、外務省や迎賓館的な機能を持ち、さらに、渡来僧が教鞭を執る外語大学という一面を具えていた。
 菩提僊那も、この学びの苑の師のひとりであった。彼は華厳経を肝要として常に諷誦し、密呪も善く伝えたという。
 
 「僧正諷踊華嚴經以為心要。尤善呪術。弟子承習。至今傳之。」(『僧正碑』)

 また、菩提と仏哲は悉曇(サンスクリット)も伝えた。これ以前の日本では、悉曇は経典や断片的な文章、仏教美術の一部として伝わってはいたが、本場の高度な悉曇学をネイティブである天竺人に教わることが出来たというのは、当時の学僧にしてみれば法悦ものの歓びであったに違いない。云うまでもなく、漢字で書かれた経典は中国で翻訳されたものであり、日本人にもとても有り難いものではあるが、原典で釈尊のことばを直に読むことが出来たとしたら──。
 いやはや、これもまさに、盛時の奈良が絢爛たる国際都市であったことの象徴ではなかろうか。
 
 ──今回発見され、正倉院展に出品されている文書は、このような大安寺における菩提僊那の活動を偲ばせる、貴重な物である。

 「本朝高僧傳」には仏哲がもたらした密部経典の中に『悉曇章一巻』を挙げている。これは安然の『悉曇藏』、玄昭『悉曇略記』(共に平安前期~中期)に引かれて、江戸時代までは写本が残っていたようである。
 また、日本人が悉曇を学習するときに、梵字の字音配列に倣って対応する音の配置表をつくり、それが「あいうえお」の五十音配列になった、ということがよく言われる。
 高楠順次郎は「この配列法は梵語を実際に学習した人の案であるという点は確かである。そこでこの五十音図はインドの知識を表白せる奈良朝の産物の第一に置くべきものである」と云っている。(高楠順次郎全集9・教育新潮社S53)
 この説が正しければ、インドに於いて高度に発展していた悉曇学が、正しく日本に将来されたことで、現在の私達にも馴染み深いものが生まれたということである。
 勿論直接的に菩提僊那や仏哲が造ったという訳ではないかも知れないが、彼らの存在が、確かに日本人の血肉になっているのだと思うと、深い感慨が胸を満たすのである。


さて、菩提僊那といえば、やはり大仏開眼導師の役を担ったことで知られる。
最後に、そのあたりの事情と、開眼会の様子を少し見ておこう。
 
○開眼導師の大任
 聖武天皇の大仏建立の悲願は、行基等の尽力の甲斐もあっていよいよ実を結ぼうとしていた。大仏開眼会において盧遮那仏に点睛を施す開眼導師は、本来は天皇が自ら勤める筈であったのだが、病を得てそれも叶わなくなり、大仏鋳造の功労者である行基も己の死期を悟っていた。
 そこで行基は、自らの最も信頼する僧にその任を委ねた。
 それが菩提僊那である。
 実際、行基は開眼会を見ることなく天平勝宝元(749)年に薨じ、同年、聖武天皇も孝謙天皇に譲位して太上皇となっている。太上皇の病状を慮って開眼会の日取りも早められた。
 天平勝宝三(751)年四月二十二日、詔が下って菩提僊那は僧正となった。
 次に挙げるのは、上皇から菩提僊那へ宛てた、開眼導師を依頼する文章である。
 
「皇帝敬請
菩提僧正
以四月八日。設斎東大寺。供養盧舎那仏。敬欲開无辺眼。朕身疲弱。不便起居。其可代朕執筆者。和上一人 而巳。 仍請開眼師。乞勿辞摂受敬白。」
(『東大寺要録』巻二 供養章三)
 
 或いは鑑真の渡海がすんなりと成功していたならば、菩提僊那が開眼の筆を執ることはなかった、とも考えられる。(勿論法会の講師あたりには名を連ねていたに違いはないが。)鑑真が苦難の末に来朝を果たしたのは、開眼会の翌年、天平勝宝五(753)年のことだったのである。しかし、行基の指名、天竺婆羅門種という出自、大安寺での教授実績などから鑑みて、この時開眼の師に相応しい人物は、やはり菩提僊那以外にあり得なかったのだろう。
 また、菩提僊那が重んじた華厳経の教主こそ、かの盧遮那仏であった。
 
 いずれにせよ、菩提僊那が開眼会に相当の意気込みで臨んだことは想像に難くない。
 当日の開眼供養会の模様は、『東大寺要録』に詳しい。長くなるので適宜略して訳す。
 
「天平勝宝四年九日、太上天皇、太后、天皇は、東大堂の布板殿に座した。
 大堂宇の内側は種々の造花や美しい刺繍の幡で飾られ、堂の上からは種々の花びらが振り散らされた。
東西には刺繍の布、八方には五色の布が懸け渡されていた。
僧侶達が南門から参入してきた。
(略)
次に開眼師僧正菩提法師が、輿に乗り白蓋を捧げられて東門から入場し、迎えられた。
(略)
開眼師が進み出て前を払い、筆を取って開眼した。亦、筆には繩が着けられ、参集した人等にも開眼せしめた。すぐに講師と読師が共に高座へ登り、華厳経が講じられた。衆僧や沙祢達を、南門から左右に頒かれて参入させた。
(略)
大安寺薬師寺元興寺興福寺の四寺が、種々の珍しい宝を献じた。
亦、種々の楽が賑やかに参入してきた。
(略)
左大臣など十六人が鼓を打った。
妓女六十人が鼓を打った。
度羅楽を行う四つの寺の者達が道を二往復した。
堂の前に左右に頒かれて立ち、左大臣以下鼓を打っていた者達は着席した。
次の者達に順々に奏楽をさせた。
大歌女、大御舞三十人。久米舞、大伴氏二十人・佐伯氏二十人。跳子百人。唐古楽一舞、唐散楽一舞、林邑楽三舞、高麗楽一舞、唐中楽一舞、唐女舞一舞。施袴二十人、高麗楽三舞、高麗女楽。
法会の行道(行列)に動員された人々は、次のようなものがいた。
梵音を唱える係の僧侶二百人、維那(首座)一人、
錫杖を打ち鳴らす係二百人。
唄の係十人、散華(花弁を撒く係)十人、
定者(香炉を持つ役の童子)二十人
衲(僧侶)三百三十人 甲(武官)三百四十人
開眼師、供養師、読師、咒願師、都講師、維那師の六人。
或る本には、衆僧沙弥九千人。巳上都合一万二十六人という。」
(『東大寺要録』巻二 供養章三)
 
 夥しい数の善男善女が、大仏の膝元に参集した訳である。
 この国家事業は、多くの民衆の苦痛を伴ってもいた。それだけに、是が非でも成功させなければならないものだった。一万人の注視の中で、大役を果たした菩提僊那の握った筆は、或いは、些か震えていたかも知れないなどと想像を逞しくする。
 菩提は無事この偉業を成し終え、「東大寺四開基」に名を連ねた。
 これより八年後の天平宝字四年に婆羅門僧正菩提僊那は入寂。
 菩提の墓が今も残る大和国霊山寺は、故郷天竺の霊鷲山に地形が似ていると菩提が言ったことから、彼の地に因んで名付けられたという。

かれは仏となって西方浄土へ還っていったのだろうか。


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参考文献
▲高楠順次郎『奈良朝の音楽殊に「林邑八楽」について』「高楠順次郎全集 第九巻」所収。(教育新潮社、1978年刊)
▲田中於菟彌『林邑僧仏哲について』「酔花集 インド学論文・訳詩集」(春秋社1991年刊)所収。
▲富田春生『雅楽の中の仏哲』「南方文化」第十一輯(天理南方文化研究会1984年11月刊)所収。
▲太田博太郎『南都七大寺の歴史と年表』(岩波書店1979年)

引用史料については「続き」に。


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■南天竺婆羅門僧正碑併序
  ──「群書類従 第五輯 系譜部・傳部・官職部」(塙保己一/続群書類従完成会)より

夫佛日西流遺風東扇。十地開士住[二]菩提[一]而播[レ]形。八輩應眞逼機縁[一]而演[レ]化。是以眞如奥旨殊[二]五天[一]而共融。實相圓音同八部[一]而倶顕。若乃深達[二]法相[一]。洞[二|]了宗極[一]。研[二|]尋七覚[一]。空有兩亡。遊戯六通。眞假雙照者僧也。僧正諱菩提僊那。姓婆羅遲。婆羅門種也。一十六國景[二|]慕其高義[一]。九十五種鑚[二|]仰其英徽[一]。但以區域遙隔[一]史伝闕然。本郷風範雖[レ][二]縷言[一]。僧正神情湛寂。風宇明敏。靈臺可[レ]仰而不[レ][レ]窺。智海可注而不可挹。於是追支讖之英範。遂世高之逸軌。跨雪峯而進影。雲海而飛儀。冒險經遠遂到大唐。唐國道俗仰其徽猷。崇敬甚厚。于時聖朝通好發使唐國。使人丹治比眞人廣成。學問僧理鏡。抑其芳譽。要請東歸。僧正感其懇志。無所辞請。以大唐開元十八年十二月十三日。與同伴林邑僧佛徹唐國僧道珮隨船泛海。及于中路。忽遭暴風。波濤注日。陰曀迷天。計命忽若贅旒、去死尚其一分。擧船惶遽不知所為。乃端仰一身入禪観佛。少選之間風定波息。衆咸嘆其奇異。以天平八年五月十八日。得到筑紫太宰府。昔騰蘭聿來澄利什往停跡振日之邦。未躡日域之境。計遠論勞彼有愧徳。自非位超修成行積永劫。其孰契於茲乎。同年八月八日到於攝津國治下。前大僧正大徳行基。智煥心燈。定凝意水。扇英風於忍土。演妙化於季運。聞僧正來儀嘆未曾有。軼燕王擁箒於郭隗。侔伯喈倒屣於王粲。主客相謁。如舊相知。白首如新。傾蓋如舊。於是見矣。乃囑同法蘚侶云。法本不然。今亦不滅。故雖赴化之質。翳跡於雙林。而法身之體。布於沙界。經云。應以婆羅門身得度者即現婆羅門而為説法是也。原夫開闢以來。雖時經百王世更萬載。未有葱右梵英印度聖種梯山航海弘化聖朝。而今聖徳作而異人至。昌運起而大化隆。非但諸佛悲願感。抑亦聖朝崇法之應也。我等既逢斯運復覩此人。盍各盡至欵共致迎接於是道俗輻輳。闐城溢郭。聯成幕之袂。濯為兩之汗。肩隨踵接。送入京華。皇上大喜、仍勅住大安寺。供給隆厚。公王英彦莫不宗敬。行基又率京畿緇索兩衆五十餘種前後合三度。僧正諷踊華嚴經以為心要。尤善呪術。弟子承習。至今傳之。僧正居敬行簡。喜慍不形於色。含章隱曜莫能測其淺深。高秩厚禮不能廻其慮嚴威峻法未足懼其心。光雖和世而弗汗其體。塵雖同其心而不測其眞。以天平勝寳二年有勅崇為僧正。大法申斯紹隆。群生以之回向。雖道迹未彰。而時英咸謂。已階聖果。但夜壑貿遷。閻浮業謝。以天平勝寳四年歳次庚子二月二十五日夜半。合掌向西。辞色不亂。如入禮樂。奄爾遷化。即以同年三月二日。闍維於登美山右僕射林。春秋五十七。臨終告諸弟子云。吾常観清性勅嚴自性身。而猶尊重彌陀景仰観音。汝曹宜抽吾帑藏衣物奉造阿彌陀淨土。又云。吾生在之日普為四恩奉造如意輪菩薩像。而情願更造八大菩薩像列坐其像。而無常行迫。其事不諧。汝曹不忘疇音。宜共相助畢功。弟子等奉遵遺旨。備飾八像。而感梁木之既摧。慟徳音之永閟。所以炳發神功、崇茂範。莫若在妙像於當今傳遺影於後葉。乃造成形像。雖英智茂範共其人既往。而美質風器與嚴像而如在。爰命諛才為像賛其辞曰。
至象無色。大道無名。湛然常在。非滅非生。隨機汲引。應物兮形。發揮正教。如谷傳聲。其一。道不自弘。弘之在哲。猗與聖王。海内有截。接武異人。聯肩英傑。慈訓惟闡。慧燈斯徹。其二。爰有應眞。寔曰僧正。愛道崇法。忘躯委命。茂徳彌新。玄化尤盛。四輩袪惑。一乘得徑。其三。徳必有類。道非獨顯。綽々行基。幽賛妙典。起予聖賓。揄揚羣善。竭誠致敬。超羣惟腆。其四。是生滅法。諸行無常。哲人薪盡。火移光亡。一朝歸寂。萬古増傷。傳法道侶。奄絶舟航。其五。藏山易速。喋水難息。仰徳酬恩。昊天無極。幽誠曷寄。寫像追福。遍及無邊。廣覃有職。其六。

神護景雲四年四月二十一日
故婆羅門僧正入室弟子傳燈住位僧修榮
右婆羅門僧正碑文以八代弘賢本校合了

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■中村元の訳による『南天竺婆羅門僧正碑並序』
    ──「日本の名著(2)聖徳太子」(中村元/中央公論社)より

一 仏教の伝来
 太陽に譬えられる仏(釈尊)は西に沈んだが、遺された教えは東にひろがった。大乗の修行者はさとりに住んでいながら、形をあらわすのである。尊敬さるべき人(仏)は、人びとをその機縁にしたがって導く。それゆえに、奥深い真理はインドの五つの地方(*一)で種々異なって伝えられているが、その趣旨に差別はないのである。実相を説く完全な教えは、天・竜など八部衆にさえも同じように顕れるのである。もしも深くあらゆる事象の本質に到達したならば、あきらかに究極の境地をさとり、さとりに達する七つの手だて(*二)を研究し尋ねもとめると、空と有との対立が滅び、六神通に遊戯し、真と仮と両者を照らすものは、仏教のつどい(サンガ)である。

二 僧正の渡来
 この僧正は、諱はボーディセーナ(菩提僊那)姓はバーラドヴァージャで、バラモンの階級の出身である。インドの十六の国々(*三)は彼の高徳を景慕し、九十五種の異教徒の学派は彼の秀でた姿を鑚仰した。ただインドという国土の区域がはるかに隔たっていて、史伝が欠けているので、本国インドにおける僧正の風格は、くわしく述べることは困難である。僧正は、心の動きが静かであり、生まれつき明敏であって、その霊的境地は仰ぐことはできるが、窺うことはできない。かれの広大な智慧の海は注ぐことはできるが、はかることはできない。そこで彼は、月支の支讖(ローカクシェーマ)の秀でた模範を追い、パルチアの仏僧世高の優れた行動にしたがって、雪峰(ヒマーラヤ)を越えて身をすすめ、雲海(南海)に舟をうかべて飛び行き、険難を冒して遠い路を経過し、ついに大唐に至った。唐国の僧侶と俗人達はそのうつくしい行いのあとを仰いで、彼を崇敬することがはなはだ厚かった。

三 日本への来朝
 時に聖朝(聖武天皇)は好を通じようとして、使を唐国に発せられた。使者であった丹治比真人広成と学問僧理鏡とは、菩提僊那の芳しき誉れを仰いで、共に東のかた(日本)に来られることを要請した。僧正はその懇ろな志に感じて、その要請を辞退しなかった。大唐の開元十八年(七三〇)十二月十三日に、同伴のベトナム〈林邑〉の僧仏徹と唐国の僧道珮と共に舟に乗って中途に及んで、たちまち暴風に遭い、波濤は太陽に注ぎ、暗い風は天体をさえも迷わせた。なんとか命の生きながらえることを計っても、たちまちにして破れをつくろった旗のように危うくなった。死から隔たっていること、わずかに一分であった。舟をあげておどろきあわてて、なすところを知らなかった。そこでその身を端して仏を仰ぎ、一心になって、禅定(瞑想)に入り、仏を観じた。すると、しばらくたって風が静まり、波が息んだ。衆はみなその奇異なことを感嘆した。そして天平八年(七三六)五月十八日に、筑紫の太宰府に到着することができた。
 昔、迦葉摩騰(カーシャパ・マータンガ)と竺法蘭(ダルマラトナ)(*四)とは、ついにシナに来て、仏図澄(*五)と鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)とは西域からシナに往って人々を利し、導きの跡をシナ〈振旦〉にのこしたけれども、まだ日本〈日域〉の土地を踏んでいなかった。旅の里程の遠いことを考え、その苦労を論じたならば、かれらといえども、徳に愧じるであろう。位は菩薩の修行の階梯としての十地の修行完成をさえも超え、行ないは永劫に積んでいるのでなければ、誰がこの試練に適しうるであろうか。

四 行基の出迎え
 前僧正であって大徳・行基は、智慧によって心の燈を明らかにして、禅定によって意の水を凝結させ、秀でた徳風をこの世界にひろげ、妙なる導きを季の世に展開していた。バラモン僧正(菩提僊那)が来たという事実を聞いて、「まことに珍しいことだ」といって感嘆し、その態度は、燕の昭王が箒をとって郭隗(*六)を擁したのに過ぎ、伯喈(*七)が履を王粲に倒したのにひとしかった。
 主客(バラモン僧正と行基)とが相謁すると、あたかも互いに旧知のごとくであった。白髪頭が新たになったかのごとく、また孔子が程子に途中で会ったときに終日、車の蓋を傾けて話したという故事(*八)のごとくであった。ここにおいて二人の聖者が相見えたのである。そこでかれは同じく仏法を信じ行う僧徒達に付嘱していった。
「法はもともと変わらない。いままた滅びない。ゆえに人びとを導くに至った応身(釈尊)は、そのすがたをクシナガラの沙羅双樹のもとにかくしたが、不滅なる法身の体はすがたをガンジス河の砂の数にたとうべき多くの世界にあまねく示している。『観音経』にいわく、『まさにバラモンの身をもってすくいうるものには、ただちにバラモンの身を現じて、かれのために法を説く』と。このことなのである」
 もと、天地開闢以来、時は百王を経て、世は万年を過ぎたけれども、まだパミール高原〈葱嶺〉の西の方で、インドの聖種であるバラモンの身で、山をわたり海を航して聖朝(日本)に教化をひろめた人はいなかった。しかるにいまや聖王の徳があらわれて、神異の人(婆羅門僧正)が来たのである。昌運が起こって大化が興隆している。ただに諸仏の悲願が感ぜられたのみならず、そもそもまた聖朝が仏法を崇われるに応ぜられたのである。われらはすでにこの運に逢うためである。またこの人(バラモン僧正)を見るに当たって、各人が至極の歓待をつくして共に迎え、礼をもって接することをした。
 そこで僧侶も俗人も群をなして集まってきて、都市に満ち、村落に溢れ、人びとが袂を連ねて幕をなすほどであり、また雨をなすほどの汗を濯い、人びとの肩は従い、踵は接するほどであった。かれを送って宮城に入ると、天皇は大いに喜ばれた。よって勅してかれを大安寺に住まわしめ、手厚くもてなした。太政大臣・左大臣・右大臣・諸王・貴族で彼を崇敬しないものはいなかった。行基はまた京畿の僧俗五十四組を率いて、かれに前後三回面会した。

五 僧正の徳を讃嘆する
 バラモン僧正は『華厳経』を諷誦し、それを心要としていた。もっとも彼は呪術を善くし、かれの弟子はそれを承け習って、今日に至るまで伝えている。僧正の平素の挙動はつつしみがあり、簡素であった。喜びも怒りもおもてにあらわさなかった。あやを含んでいて、才智の輝きを隠していた。だからそれが浅いか深いかを測れる人はいなかった。高い待遇や厚い礼をもってしても、かれの虞りを転廻させることはできなかった。厳しい威圧、峻しい法も、かれの心を懼れさせることが出来なかった。かれの光は世に和していたけれども、かれの真実の体を汚すことはなかった。塵のような凡人はかれの心に同じたけれども、かれの真の本質を測ることはできなかった。天平勝宝二年(七五〇)に、勅によって僧正に任命された。仏の偉大なる法はこれによって紹がれ、隆盛となった。群生はこれによって邪を転回して正道に向かった。さとりの迹はまだ彰かではなかったけれども、時の秀でた人びとは皆聖果にのぼったとおもった。

六 入滅遺嘱
 ただ夜のうちに谷さえも変わり遷り(*九)、人間の住むこの大陸のはたらきも過ぎ去る。天平宝字四年(七六〇)、庚子の年の二月二十五日夜半に、合掌して西に向かい、言葉も顔色も乱れず、禅定の楽しみに入るかのごとくににわかに遷化した。すぐに同年三月二日に登美山右僕射林で火葬に付した。五十七才であった。
 臨終に諸々の弟子に告げて曰く、──「われはつねに清浄なる本性を観て、ただちに本来の自身(自性身)をかざった。しかもなお弥陀を尊重し、観音を景仰した。汝らはわたしが蔵していた衣や物を取って阿弥陀の浄土を送りたてまつるべし」と。またいわく、──「わたしが生きていた間にあまねく父母の恩、衆生の恩、国王の恩、三宝の恩という四恩(*十)のために如意輪菩薩の像を造りたてまつった。さらに八大菩薩(*十一)の像を造ってその像に列坐させようと心に願ったけれども、無常なることどもが迫ってきて、そのことは成就しなかった。汝らは昔のことを忘れないで、共に相助けて、像を造るという功を完成してもらいたい」と。弟子たちは師の遺言の趣旨を遵奉して、八大菩薩の像を造って、備えて飾った。

七 賛を撰する趣意
 梁がもう砕けてしまったのを感じ、徳風うの音が永くしずまってしまったのを嘆くのは、かの人の神異なる功業を明らかにし、立派な模範を崇敬する所以である。妙なる姿は今日なお残っている。遺影を後世に伝えるほど良いことはないであろう。そこでかれの形像を造り完成した。叡智も模範もその人と共にすでに過ぎ去ったけれども、その美質と風格とは、厳然たるかれの形像とともに今なお残っているかのごとくである。ここでぼんくらに命じて、像の賛をつくらせた。その辞にいわく、
一,至上の姿〈法身〉には色がなく、大道には名がない。湛然常住であって、滅するのでもなく、生ずるのでもない。衆生の機根にしたがって苦しみの海から救い出し、人びとに応じてあらわれ、正しい教えを発揮した。谷に声を伝えるがごとくである。
二,道はおのずから弘まるわけではない。それを弘めるのは、すぐれた人によらねばならぬ。ああ、聖王が国内をおさめていらっしゃる。聖武天皇を神異の人(バラモン僧正)に接せしめ、肩を英傑に連ねた。慈悲の訓えはここにひらき、智慧の燈はここに徹り輝く。
三,ここに聖僧あり、これをバラモン僧正という。道を愛し法を崇め、わが身を忘れて命を捨てた。さかんな徳はいよいよ新たであり、玄妙なる導きは、もっともさかんである。四輩(出家・在家の男女)は惑いをはらい、一乗によって仏となる道を得た。
四,徳は必ずそれを共にする類がある。道はひとりであらわれるものではない。大らかな行基は妙なる経典を幽かにたたえ、われをして聖なる賓客(バラモン僧正)を起こさせた。群れなす善をほめたたえ、誠をかかげて尊敬をいたした。群を超えること、まことにすばらしいものがあった。
五,世の中のものは生滅する。つくられたものは無常である。哲人は薪尽きて、火移り、光が滅びる。一朝にして寂滅に帰し、万古に悲しみの傷を増す。法を伝えるもろもろの弟子はたちまちにして舟航を絶たれたのである。
六、山を沢に蔵するほど堅固なことでも、すみやかに移りやすく、過ぎ行く水も、流れをとどめることは困難である。徳を仰いで恩に報いたい。天空は極まりがない。幽い誠の心をそもそも何にことよせたらよいのだろう。僧正の姿を写して、冥福を追修し、あまねく無辺の衆生に及ぼしたい。

神護景雲四年(七七三)四月二十一日
故バラモン僧正のお近くに侍った弟子である
伝燈住位の僧、修栄がこれを記した。


【注】
(*一)インドの五つの地方──五天竺。東・西・南・北・中の五天竺をいう。
(*二)七つの手だて──択法・精進・軽安・念・行・定・喜。
(*三)インドの十六の国々──釈尊の当時インドにあったと伝えられる十六の大国。
(*四)迦葉摩騰(カーシャパ・マータンガ)と竺法蘭(ダルマラトナ)──この二人は後漢の明帝の時代に初めてインドからシナに仏教を伝えたといわれている。
(*五)仏図澄──西域の僧。西晋の懐帝の永嘉四年(三一〇)に洛陽に来て、種々の奇跡を現じた。永和四年(三四八)一一七才で亡くなった。
(*六)郭隗──昭王の臣の名である。昭王は位に即くと身を卑しくし、弊を厚くして、もって賢を招いた。
(*七)伯喈──後漢の西遊の字である。彼は屣を倒して王粲を迎えた。
(*八)また孔子が程子に途中で…──『孔子家訓』に出ている。
(*九)ただ夜のうちに谷さえも変わり遷り…──『荘子』に説かれている。
(*十)四恩──『心地観経』に説かれている。
(*十一)八大菩薩──『如意輪陀羅尼経』壇法品に説かれている(『大正蔵』二十巻、一九三ページ参照)。

【凡例】
一,底本には「大日本仏教全書」所収の『南天竺婆羅門僧正碑並序』を用い、『寧楽遺文』下巻収録の『南天竺婆羅門僧正碑並序』を参照した。
二,原文には小見出しは付いていないが、訳者の判断で便宜上設けた。


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■『開眼師傳來事』『大安寺菩提傳來記』
  ──東大寺要録より

■開眼師傳來事

●元興寺小塔院資相承記

婆羅門僧正者。南天竺國聖人也。爲[レ][二|]訊文殊行基菩薩[一]。以[二]天平十九年[一][二|]來此日本國[一]。攝津國難波津頭而解[レ]續。爰津邊人々見[二]于舟異人数多乘[一]。小船五艘毎船十餘人。行向[向、或而歟]問。其詞更不[二]聞知[一]。仍告[二]郡司[一]。々々驚行問[レ]之。亦不[二]聞知[一]。郡司申[レ]國。々解進[レ]官奏聞。即遣[二]勅使[一][二]天文書[一]問。其人答云。從[二]南天竺國[一]來法師也。勅使上問船主誰哉。有[二]何心[一][二]蒼波[一]來。即云、彼國婆羅門巡[二|]禮日本國[一]來耳。云々 勅使以[二]彼申状[一]奏聞。天皇大臣一驚一悦。爰請[二]一百人名僧[一]。倶以差[レ]使遠遣[二]其迎[一]衲申[二]持香呂[一]調[二]伎樂五十人[一][二]其御前[一]。船頭從請[レ]出婆羅門引[二|]率十弟子[一][レ]船下。僧行烈左右行道進行。行基菩薩最後行給。婆羅門遙見[二]行進給菩薩[一]進而雙手取[レ]袖以詞云。我與[二]聖人[一]一時芳被而別離年久。戀慕□極仍來臨也云々。各悲悦之後。以[二]和歌[一]詠云。
  「迦毘羅薗昔別禮志日本乃文殊乃御貌合見都留加奈。」
 菩薩和歌云。
  「霊山乃尺迦乃御前爾相見天之眞如不朽須今日見都留加奈。」
 此歌天下人聞持諳誦。于[レ]今流傳不[レ]絶。又彼國土毛鍮石香呂五具。菩提子念珠十貫。多羅葉梵字百枚。佛舍利二千粒。種々雑物多以奉。悉給[レ]菩薩傳以獻上。天皇分給[二]諸寺[一]。多分奉[レ][二]元興寺小塔院[一]。爲[レ][二]婆羅門弟子眷屬等[一]。厚給[二]粮食[一]。天皇殊以尊重。已上


●大安寺菩提傳來記云。
去天平五年歳次癸酉四月三日。遣唐大使丹治比眞人廣成。副使大中臣朝臣名代等。并留學僧玄■[ボウ:日+方]。經[二|]歴唐國[一]三箇歳也。即同八年[歳次丙子]七月廿日。還[二|]歸聖崖[一]。忽乘[二]件船南天竺婆羅門僧菩提、大唐僧道珮、瞻婆國僧[此云林邑}北天竺國佛哲等也[一]。但菩提者。迦毘羅衛城人。遊化在[レ]慮。導[レ]物爲[レ]心。妙入[二]忽持[一]。志存[二]弘法[一]。此沙門於[二]天竺[一]。祈[三|][二|]値遇文殊[一]。忽然有[二]化人[一]。告白。此菩薩居[二|]住震旦之五臺山[一]。即欲[レ][二|]詣彼山[一]之比。北天竺佛哲。忽生到來也。此僧小學[二]佛教[一]。妙閑[二]咒術[一]神理標異領[二]悟方機[一]、為[レ][二]如意珠[一]。浮[二]船大海[一]。以咒[二]龍王[一]。々々降[二|]伏咒力[一]。持[二|]出件玉[一]告白。放[二]汝手印[一]。授[二|]與此玉[一]矣。即順[二]龍言[一]綛放[二]手印[一]。大風忽發。見[レ][二|]寄南天竺[一]矣。忽婆羅門以為[二]吾師[一]。共渉[二]流沙[一]遙踏[二]嶮路[一]。向[二]于大唐[一][二]五臺山[一]。至心慇(※啓の下が心)懃。祈[レ][二]聖王[一]。綛有[二]化人[一]。夢中教曰。今回在[二]那婆提[一]者日本舊名也。即聞[二]夢教[一]甚以歎息。扣[レ]頭徘徊之際。此國使者來二|到唐國[一]。爰菩提開[二]悦之眉[一]。使者隨[二]順其詞[一]。同[二|]乘此船[一]倶共到來。唐沙門道珮。善達[二]三藏[一]。偏精[二]律部[一]。内外博通。導[レ]人不[レ]倦。共有[二]遊化志[一]。來[二|]着聖崖[一]矣。即菩提等。観[二|]視此山河清潔[一]。甚以歎悦。爰行基菩薩。聞[三]新客廻忽着[二]攝津國[一]。造[二]香印四十口[一][レ]花以浮[二]難波海[一]。此香印圍[二|]遶彼船[一]自然迎來。是時荘[二|]嚴難波津[一]。引[二|]率百衆僧[一][レ]令迎[二]件客[一]矣。爰菩提忽自[レ]船下。尋[二|]覓行基菩薩[一]。於[二]下劣[一]顧起立。排[二|]覓衆中[一]。自然携[レ]手即歌云。
迦毘羅衛爾聞我來之日本乃文殊乃御顔今見鴨。
 菩薩答云。
霊山乃釈迦乃御前爾結天之眞如不朽相見鴨。
 種々語言。諸人不[レ]知。則入[レ]都之次。令[レ][二]菅原寺[一]。爾時有[二]老者[一]。名曰[二]大倭國看[一]。此婆羅門之徃昔童子也。先來生[二]此國[一]。齢及[二]七十[一][レ]語無。時人名曰[二]唖者[一]。此人[三]聞忽得[二]新客[一]。進向[二]菅原寺[一]。向[レ]菩薩云。遠客經營若有[二]何所[一レ]乏[乏、原作令、意改]耶。菩薩答曰。供物稍具。但無[レ][二]音聲[一]。國看申云。已翁同欲[二|]奉仕此人[一]。而翁天然清貧衣食乏(少。何以可[レ]仕哉。時菩薩弟子甚以戯嘲。當[二]于取[一レ]期畢。已來到。只引[二|]率妻子二人[一]。是則十歳以下。彼飯食已畢以[レ]箸[箸、原作著、拠縁起哉]扣[レ]机。歌[二]詠彼婆羅門所[レ]作之和歌[一]。爰小兒等起以儛戯也。則菩薩與[二]婆羅門菩提國看[一]。涕涙悲泣猶尚矣。但集會道俗。各生[二]微咲[一][レ]知事由。或含[レ]咲或穣[レ]涙、皆云聖與[レ]賢嘆[二]彼操行不可思議[一]。即經[二]一宿[一]。以[レ]令往[二]大安寺中院[一]。時皇帝特貴[二]操行擢拝 僧正[一]矣。天平十五年歳次癸未。初鑄[二|]造東大寺大佛像[一]。勝寳四年壬辰四月九日。開眼大會。講師隆尊律師。読師延福律師。以爲僧正為開眼師。即仰[二]諸大寺[一]。令[レ][二]漢樂[一]矣。爾時彼佛哲。為[二]雅樂之師[一]。於[二]彼瞻波國[一]。習得菩薩舞。并部侶。抜頭等舞。欲[レ][二]傳習[一]。菩薩舞九條并薩夕諦波部侶有三條善藉摩耶部侶。爰思[二|]惟其舞之戯[一][二|]失行道之笛[一]也。而此寺大長兌人。為[二]姓横笛[一]。計吹[二]出其曲[一]。件僧忽然悦預令[レ][二]件樂[一]矣。即於[二]東大寺[一][レ][二]開眼大會[一]。爾時聖帝并皇太后行[二|]幸會場[一]。爰來集貴賤共致[二]奇異[一][レ][二]歎息[一]。陛[原作階、意改]下致[二]希有之念[一]。發[二]隨喜之意[一]。便被[二]宣旨稱[一]。此音聲者。遠浮波遠崖既登是境響微天漢疑也。神工之所作。聖者之欣感歟。甚相[二|]應大願[一]。罕不[二]讃嘆[一]哉。但大安寺獨行。餘寺莫[レ]行。自[レ]爾以降。代々帝皇聞[レ][二]唐國[一]。殊給[二]渤海客[一]。斯樂由置如[レ]此歟。已上
(※『扶桑略記』天平十八年之條参照)

●日本往生記云。 
聖武天皇造[二]東大寺[一]了命[レ]菩薩曰。欲[下][二|]養此寺[一][レ]菩薩爲[中]講師[上]。奏曰行基不[レ][レ][二]講師[一]。從[二]異國[一]一聖者可[レ]來。及[二]于會期[一]奏曰。異國聖者今日(※一)可[レ][二|]迎之[一]。即有[レ]勅。并菩薩率[二]九十九僧及治部、玄蕃、雅樂三司等[一][二]難波津[一]。於[二]浜濱頭[一]調[二]音樂[一][二|]待之[一]。行基菩薩加[二]百僧未[一]。以[二]閼伽一具[一][レ]香盛[レ]花泛[二]於海上[一]。香花自然指[レ]西而去。俄頃遙望[二]西方[一]小舟來(※二)向。近而見[レ]之。舟前閼伽之具不[レ][二]次第[一]。小船着[レ]岸有[二]一梵僧[一][レ]浜。菩薩執[レ]手相見微咲。并唱[二]倭歌[一]曰。

霊山能。尺迦乃彌摩部二。知岐利天子。眞如久知世利須。阿比美都留賀奈。[天、往生記作尼、奈、往生記作毛]
(霊山の。釈迦のみまへに。ちきりてし。眞如くちせす。あひみつるかな。)

異國聖者即答和曰。

迦毘羅恵邇。等毛邇知岐里之。加比阿利天。文殊美賀保。阿比美都留賀奈。[利、原作爾、拠往生記改]
(迦毘羅恵に。ともにちきりし。かひありて。文殊みかほ。あひみつるかな。)
行基菩薩謂緇素云。異國聖者。是南天竺婆羅門名菩提也。集會又知行基菩薩文殊化身。云々

●東大寺大會時。元興寺獻歌二首。[二、按三歟]
比美加之乃。夜万比遠岐與美。邇井々[万歟]世流。盧佐那保度介邇。波那多天万都留。
(ひみかしの。やまひをきよみ。にゐませる。るさなほとけに。はなたてまつる。)

乃利乃裳度。波那佐岐邇多利。計布與利波。保度介乃美乃利。佐加江多萬波舞。
(のりのもと。はなさきにたり。けふよりは。ほとけのみのり。さかえたまはむ。)

美那毛度乃。々利乃於古利之。度布夜度利。阿須加乃天良乃。宇太々天萬都留。
(みなもとの。のりのおこりし。とふやとり。あすかのてらの。うたたてまつる。)

天平勝寳四年四月十日


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■『扶桑略記』より

 天竺婆羅門僧正菩提始來本朝。天皇建東大寺。爲開講供養。勅書曰。屈請行基大徳。右奉爲大佛供養講師。屈請如件。辞曰。沙門行基謹言。不堪奉仕大佛會講師事。右從南天竺國可來観自在菩薩。願相待被請用講師者。天皇感念。止事待來之間。南天竺迦毘羅衛國。[私云。迦毘羅衛國。是非南天竺。如何。]婆羅門僧菩提。爲謁文殊師利 菩薩。自天竺至大唐五臺山。時老翁逢路。告云。文殊爲利衆生赴日本國。爰菩提感念戀慕。爲遂本懷。進來此朝。其時行基菩薩奏曰。天竺上□已來。欲行迎者。奉勅。率治部玄蕃雅樂三司。向難波浜奏音樂。於是行基在百僧列。以閼伽一具燒香盛花。泛海上。香花自然指西而去。俄頃。遙望西方。小舟來向。近而見。舟前閼伽具等次第不亂。小舟着岸。」一云。先見海上。有千万率都波。人見爲奇。盛花燒香共率都波之前。有一梵僧上浜。與行基菩薩携手相見微咲。先以梵語敬禮。次菩提詠和歌云。
迦毘羅衛尓。昔シ契リシ甲斐有テ。文殊之御顔。会見鶴銫(アヒミツルカナ)。
行基菩薩云。
靈山。釋迦之御前契。眞如不朽。相見鶴鴨(アヒミツルカモ)。
又菅原伏見郷三年睡眠人。謂盲聾。由菩提唱起舞。謂之十天楽也。菩提入洛詣東大寺。天皇感。欲賜食封戸。勅巡礼諸寺。至大安寺東僧坊南端小子坊留住。後尋處。給官額。云菩提僧正院。已上。」
 或記云。北天竺林邑國僧佛哲和尚爲利生求如意寳珠。乘舟泛海。以佛験召出龍王。以咒力縛之。責如意珠。龍王咒縛難免。抜頭上珠欲授。佛哲和尚右手結劍印。舒左手受之。龍王云。昔沙竭羅龍王女以寳珠獻釋迦如來。佛合掌受之。悲哉後世佛弟子以片手受之。時佛哲承諾。乃解手印。合掌(欲)受。龍王脱縛騰空。佛哲和尚空手破舟。獨身存命。于時相(會)波羅門僧菩提從南天竺渡海。于談本懷。即相從共來日本國。已上。」

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■「日本高僧傳要文抄 巻一」より

婆羅門僧上傳
 婆羅門僧上傳云。僧正婆羅門僧菩提并仏哲師等所[二]持傳[一]也。以[二]是樂[一]先登[二]五臺山[一]。欲[レ]供養[二]文殊師利菩薩[一]。因[レ]之婆羅門來[二]是国[一]。相[二]逢行基[一]。其時。百歳老翁有[二]二人[一]。一人者自世[世、恐當據下文作在]眼眸不[レ]見。一者自在其腰不立。又乍[二]二人[一]言語不[レ]通。而二菩薩和尚傳[二]其樂[一]。眼開腰立。各舞悦。婆羅門問云。是二人不[レ]知誰人。行基答云。忉利天上人。靈山同聞衆。故今日向聖人覺知耳矣[矣、原作言、今意改]。即南大門菩提僧得[二]是樂[一]
 笙譜所[レ]注如[レ]此。

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■「元亨釈書 巻第十五」より

●南天竺菩提
 釋菩提。南天竺國婆羅門種[大臣家也]也。遙聞支那五臺山文殊師利靈應。發本國。駕小舟入唐。即登五臺。山中逢一老翁。問曰。法師何之(イツクニカユク)。提曰。山頂拝文殊。翁曰。文殊不在也。是託生日本國。語已翁不見。提乃赴本朝。天平八年七月。行基法師奏曰。當迎聖徳僧聖武帝詔禮部鴻臚雅樂三僚向難波津。基率一百沙門。共官僚於海浜音樂荘儀仗侍之。須臾西海波面ニ小舟泛泛ト 漸ク近ク。有二梵僧基迎笑。執提手共語。如舊識。始梵言。基能應、後和語。提亦和。甚欵密。教舘大安寺東坊。十月。賜時服天平勝寳元年。東大寺銅像成。詔提為開眼導師。三年四月。爲僧正。時號婆羅門僧正。天平寳字四年二月二十五日化。

●林邑僧佛哲
 釋佛哲。林邑國人也。有[二]大慈[一]。愍[二]衆生貧乏[一]。欲[下][レ]海索[二]如意珠[一][中]賑濟[上]。便乘[レ]舟泛[二]南海[一]。以[二]咒力[一][二]龍王[一]。龍王出[二]波上[一]。乃咒縛索[レ]珠。龍解[二]髻珠[一][レ][レ]哲。哲右手結[二]劍印[一]。舒[二]左手[一]受之。龍紿(アサムイテ)曰。昔沙竭女獻[二]寳珠ヲ釋迦世尊一。合掌受之。痛哉像末弟子。雙手ニ受クル之。哲聞已解[レ]印。合掌乃欲[レ][レ]珠。龍見[二]印解而縛脱[一]。即沒[レ]海。哲空[レ]手舟又破。時婆羅門僧菩提適赴[二]震旦[一]。海中[二|]逢之。哲語[二]此事[一]。伴[二]菩提[一]來。天平八年七月也。本朝樂部中有[二]菩薩抜頭(バツツ)等舞及林邑樂[一]者。哲之所[レ]傳也。

●伏見翁
 伏見翁者。不[レ][二]何許(トコロノ)人[一]。或[人ノ]曰。從[二]竺土[一]來。翁臥[二]和州平城京菅原寺 (※喜光寺)側 崗[一]。三年不[レ]起。又不[レ]言。人呼爲[二]唖者[一]。時時擧[レ]首見[二]東方[一]。天平八年。行基法師迎[二]婆羅門僧菩提[一]。歸 於[二]菅原寺[一][レ]供。二人甚歡。乃執[レ]箸爲[二]拍板[一]。二比丘互舞。于時翁俄起入[レ]寺。又作[レ]舞而歌曰。時哉(カナ)縁熟哉(スルカナ)。三人相共舞。如[二]故舊[一]。蓋頃年作[二]唖 態[一]者。爲 發[二] 此言[一] 也。時時擡[レ]頭望東者。見[二]東大寺營構[一]也。其臥所。自[二]從翁之居[一]。臥見(フシミノ)崗。因而名翁焉。
 賛曰。聖師之赴[レ]感也。其所[レ]赴異而所[二]以感[一]者同矣。吾謂。菩提之求[二]曼殊[一]也。未[三]必在[二]五臺[一]。佛哲之索[二]寳珠[一]也。未[三]必在[二]南海[一]。皆吾。
 聖武大帝睿明之感發也。不[レ] 然。伏翁何以三歳不[レ]起不[レ]言。一旦起舞唱[二]時哉之句[一]乎。好哉聖境一場之倡和。吾雖[二]後出[一][レ][レ][レ][レ]節矣。

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HN:逆名[サカナ]
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中古日本史、東洋史、仏教史(仏教東漸期の東アジア、平安密教、仏教芸能、美術、門跡寺院制度等)、有職故実、官職制度、風俗諸相、男色史。古典文学、絵巻物、拾遺・説話物。

好きな渡来僧:婆羅門僧正菩提僊那、林邑僧仏哲
好きな法皇:宇多法皇
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