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深度三,三三糎の心の海から湧き出ずる毒ぼやきの数々。
 
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めずらしい女性ネタ そしてめずらしいTVネタ
朝ドラ「マッサン」のエリーのアップヘアどうなってるか観察してみました
 
三つ編みを頭に巻き付ける髪型はたまに見かけますが
エリーの髪型は単なる巻き付けでも編み込みでもないのでちょっと不思議に思いまして。

たぶん短かくて一本や2本では頭全体に回せなかったんだと思います。
自分でやるとしたら、ピンは必須で
三つ編みを上げる方向を意識してねじったり持ち上げながら編むとか
整髪料つけながら出来るだけ毛先の方まで編んであとで隠しやすくするとかかなあ。
もちろんドラマの現場ではヘアメイクさんが綺麗に整えてらっしゃるのでしょうけど。
マッサン公式の方でメイキングやってくださるようなNHK方面のtweetもお見掛けしたので
たのしみです。観察結果まちがってたらすんません。

あとエリーに似ている、この人を連想すると名前が挙がってた、
ウクライナの政治家ユーリヤ・ティモシェンコ(髪型変えたらしいですが)、
ナウシカのクシャナ、
Fateのセイバー(敬称略)
です


ティモシェンコさんちょっと若すぎたかも知れませんが、この並びなのでそうしたんだと御理解下さい
お三方ともエリーとはちょっと違いますね。
結構色んなところで見かける気はするのですが、清楚でいいですよね…。

三つ編みを頭に巻き付ける、巻き付けるように編み込んでいく髪型は
 
Crown Braid、Braid(ed) crown、Heidi braidなどと呼ばれるようです。

画像検索だと、ブレイドクラウンの方が編み込みが多いように見えますがどうなんでしょ。
HowtoもたくさんUPされてますので探してみては。

描き足りなかったので画像検索結果からチョイスしてスケッチ。


wikiだと Crown braid あるいは Crown plait、 『ウクライナの伝統的な髪型』と説明してあるようですが…
 http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_hairstyles

ちなみに三つ編みでシニヨンを作る髪型は Bun だそうです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Bun_(hairstyle)


また、日本での洋髪としてのこの髪型の名称は、
『イギリス結び』『マーガレット』など、混乱があるようです。

参考:【「英吉利むすび」とはどんな髪形か... | レファ協同DB】 

レファ協でも参考に上げられている洋髪本だと、
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/902392/7
画像荒くて見づらいですが、イギリス巻きは髷に三つ編みを巻き付けたもの(上図のセイバーさんのような)、
マーガレットは三つ編みを下げて末を持ち上げて輪にしたものと説明されているようです。

 混乱のもとは三つ編みのアレンジというざっくりしたまとめ方なのかも知れませんが。
明治時代まで日本には三つ編みを髪型に利用する(少なくとも見えるところには)ことってなかったように思いますし、
そういう大雑把な括りで間に合ってたんだろうか…。あ、縄文頃ならあったかもしれませんが。
今だと三つ編みカチューシャとか編み込みアップとかなのかなあ。


それから
三つ編みを巻く髪型なら、こちらもですね。朝鮮王朝時代の女性の結髪。(チャングムとハン尚宮さまで)
参考:【『李朝鮮王朝』時代の女性の髪型 ~「가체カッチェ」が廃止されるまで~】  

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調べものをしていて拾いものをするのはままあることですが

今日はこういうネタをみつけました。


角刈りのルーツについての記述です。

「男女美容編 : 実用問答」という明治終わり頃の本からです。

これによると明治二十二年ある床屋さんを訪れた青年紳士が、フランスの髪型『ポンペドー』をその床屋の主に教えたのが始まりとか。


以下、抄出原文ママ。


『問:當時勞働社會に流行して居る角刈は、元は紳士達が盛んに刈ったものと聞いて居升がほんとうですか、

答:其れには篠床主人から聞いた話を其の儘答と致さう、左樣です。あれは確か明治二十二年の春でしたらう私しへ一人の青年紳士が飄然として遣つて來た、私は何心なく出てゝ其客を迎へた、其紳士は私に向つて此頃佛蘭西に行はれてゐるポンペドーといふ刈方を知つて居るかとのことですが、恥しいことではあるが私はポンペドーのポの字も知らないから、其の旨有のまゝに答へたら、青年紳士は左樣か、それではまだ日本へ行はれて居らぬと見へる、どふだ一つ流行らして見てはと、一々その格好や、鬢を逆さに立てゝ刈る具合を教へて呉れたから、其言葉通り遣って見ると、大層格好がよく出来たので、紳士も教へ甲斐あると云ふて喜んで歸へつたが、それが段々今日の流行を來たした基です。

一體此の角刈は、元は佛蘭西の軍人が始めたもので、彼方では軍人を貴む處からして殊に若い人たちは我も\/と眞似した一時は非常な流行であつたさうです、併し佛蘭西人の毛は、我々日本人に比ぶると、毛が柔らかいので帽子を冠(か)ふると毛が皆寐(ね)て、折角の角刈も臺なしになつて仕舞うから小さなブラシをポケツトに入れ置き人の處へ行くと玄關でブラシを頭にかけて倒(さかさ)まになで上げたとのことです、それが前に申した樣の次第で、日本に流行つて來たが、日本人の毛は御承知の通り硬いから、佛蘭西人の樣な手數もなし、それに新を好は人情の常おまけに上手に刈るとなか\/粋な頭髪でしたから、青年紳士は争ふて間似ねましたが、何時の時にか勞働社會の専有物となつて、上流には余り見受けない樣になつた、流行と云ふものは妙なもので、今日では角刈にして居ないと、労働者が若い者仲間に幅が利かないと云ふ樣な勢になつたのです、尤も以前上流社會に流行つたのは、眞角でなく少々角は丸めたものでした。』

「男女美容編 : 実用問答」衛生新報社編輯局 編/丸山舎書籍部 明治四十年 

原文: http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/848954/126



『ポンペドー』って、『ポンパドゥール』のことですよね多分。ポンパドゥール婦人の肖像画をご想像いただくとわかりやすいと思いますが、近年日本でも(主に女性が)前髪を立てる髪型のことをそう呼ぶようです。個人的にはあん…まり好きではないけど…。角刈りのルーツなんだ。



角刈り - Google 検索


Pompadour hairstyle - Google 検索


Pompadour (hairstyle) - Wikipedia, the free encyclopedia
おお、ポンパドゥールは、日本ではリーゼントと呼ばれ、娯楽作品ではしばしばヤクザや暴走族やヤンキーに典型的な髪型として描かれる、と紹介されている。


『In modern Japanese popular culture, the pompadour is a stereotypical hairstyle often worn by gang members, thugs, members of the yakuza and its junior counterpart bōsōzoku, and other similar groups such as the yankii(high-school hoodlums). In Japan the style is known as the "Regent" hairstyle, and is oftencaricatured in various forms of entertainment media such as anime, manga, television, and music videos.』


リーゼント - Wikipedia 

(リーゼントの特徴は)日本ではしばしば前髪を高くしたポンパドールを指すものと誤解されている。これは米国では略してポンプ (POMP)とも呼ばれ、英国ではクイッフ(英:quiff)と呼ばれる。』

ポンパドール=リーゼント(和製英語)かあ。

たぶん、明治の角刈りはソフトなリーゼントみたいな感じだったんだろうけど、そこから角刈りの形になってった経緯は、髪質の違い?だったのかな?


なお、プレスリーの髪型は『Pompadour & Ducktail』ともいうみたい。前髪を立てるのがポンパドゥール、後頭部がダックテール

Pompadour Ducktail - Google 検索 https://www.google.co.jp/search?espv=210&es_sm=122&tbm=isch&source=univ&sa=X&ei=Lig5U-u_IISukgXZvICQAg&ved=0CDAQsAQ&biw=1746&bih=903&q=Pompadour+Ducktail


今度から角刈りの人を見たら心のなかで『ポンペドーさんだ…』と思うことにしよう。


蛇足
うーん、『リーゼント』の名称がリージェンシー・ストリートからって、偶々なんだろだけど、あの放蕩者の摂政王太子(Prince regent 英国では大体ジョージ4世を指す)の髪型、みたいなことになっちゃってて面白い。
 海外ものヒストリカルロマンスでは、英国摂政時代を舞台とした『リージェンシー』が一ジャンルを確立しています。そもそも、日本の時代劇が江戸ばっかりだなって思う程度には中~近世英国ものが多いのですが、その中でも人気のある時代のようで。
 個人的には、サブリナ・ジェフリーズ作で摂政王太子ご本人もご出演になる『背徳の貴公子』三部作(MIRA文庫)、登場人物が共通してる『修養学校シリーズ』(扶桑社ロマンス)がおすすめ。風俗描写もばっちりだし、政治社会情勢をストーリーに落とし込むのがすごく巧みな方です。修養学校シリーズは巻数も出ていたし、他の作家さんも参加したオムニバス短編集も出てて、海外でも人気があったんだろうな~。
本ブログに掲載している、調べ物や資料まとめの目次です。
メモ代わりの短めのテキストが主です。

 東大寺大仏開眼導師となった、インド生まれの僧・菩提僊那について。
 後白河院が落飾した際の儀式次第など
 大江正房『傀儡子記』読み下し+訳注

 日本書紀の小竹祝・天野祝の挿話 原文+訳
 日本古代~中世の米の種類・調理法についてのメモ
 七草粥や節供の由来について。
 北院御室(第六世仁和寺門跡・守覚法親王)の手記序文 読み下しのみ。
 日本の在来牛+乳製品+牛車の種類
 受領国司の任用について 功過定や巡任など
 御所言葉(公家詞)について
 紹介記事の転載なのであまり内容はないです

 国宝病草紙について。

養老令から、衣服令(表)
 養老令の衣服令部分を表にしています。

法衣・袈裟 構成比較 附、袈裟図解
 法体装束抄などから拾った構成表です

稚児観音縁起絵巻詞書 原文+訳注
 ※ブログ外の独立webページです
昔から、気になっていたことがありまして。

「貴族」

っていう言葉、古典テキストではあまり見覚えがない。

実は古語辞典を引いても出ていない。
(手元のは三省堂全訳読解古語辞典)

いつから使われていた言葉なんだろう?

ということで辞書などで調べてみました。

kizouitsu.jpg


◆「現代語から古語を引く辞典」(三省堂/2007)
で「貴人」を見ると、
貴人(きじん・きにん・あてびと・うまひと)
上(かみ)
上方(かみざま)
上つ方(うへつがた)
上人(うへひと・うへびと)
雲客(うんかく)
雲上人(うんじゃうびと・くものうへびと)
殿上人(てんじゃうびと)
上臈(じゃうらう)
上達部(かんだちめ・かんだちべ)
公達・君達(きんだち)
公卿(まうちぎみ・まえつきみ・くぎゃう)
公家(くげ)
卿(けい)
上卿(しゃうけい)
卿相(けいしゃう)
堂上(だうじゃう)

…などが載っているけれど「貴族」はない。

後は清華、貴戚、貴顕、貴種、とかが思い浮かぶし、
さらに、帝を指し、朝廷を指し、また朝臣を指すような言葉も含めるともうすこし出てくると思う。

◆広辞苑(第五版)には
【貴族】
(1)家柄や身分の貴い人、出生によって社会的特権を与えられた身分。
(2)(nobility)中世ヨーロッパの封建社会では、戦史身分として僧侶と共に領主層を構成し、土地と農民を支配した階級。
(3)比喩的に、特権を持ち高い地位にある人。

ううーん。日本の話は出てこないの?

◆新版日本史辞典(角川書店)1996初版 には
【貴族】
 本来的には一般人民から隔絶されて身分的・政治的・経済的・文化的特権及びそれに付随する栄誉や標識を与えられている世襲的の支配階級を指す語。
 日本古代においては三位以上の官人を「貴」四位・五位以上の官人を「通貴」と称し、その一族をおおむね貴族と称した。
 政治・経済・刑法において特権を有したのは、国家や王権との関係によって得たものである。なお近代では“華族”がこれにあたる。

この「貴」「通貴」は大宝令に拠るもののようなのですが、大宝令は散逸しているため、原文がなかなか出てこない。

◆取りあえず「古事類苑」
『[律疏 名例]…五位以上者、是爲通貴』(官位部八十)
は確認できましたが、律令の中で『貴族』が規定されていたような感じではなさそう…。(※「古事類苑」には『貴族』の項はなし)

というわけで伝家の宝刀(市立図書館蔵ですが)、
◆國史大辭典(吉川弘文館)を引いてみますと。
【貴族】
 日本では明治十七年(1884)と同四〇年の二つの華族令によって、公・侯・伯・子男の爵位を有する者、及びその家族が華族とされ、華族の一部分が大日本帝国憲法と貴族院法令によって貴族院議員となる権利を持ったところから、これらの支配階級を貴族と呼んだ。
 同時にこの貴族という呼称を、他の諸国民の歴史にも適用し、血統、その他しばしば必ずしも明確でない理由から他の国民大衆より隔絶され、身分的・政治的特権並びにそれに相応しい栄誉や権威を与えられている世襲的支配階級を指して貴族(貴族階級と一般的に呼んだ。
 従って、日本語で「貴族」と称されている階級の実体は、歴史的に様々である。例えば日本史の上では古代国家の支配階級の情操の者を貴族と呼ぶことが多いが、古代ギリシャの場合、ホメーロスに反映する社会では、王と同様に神々から生まれたとされる者が貴族の地位を占め、土地や家畜の所有において他より優れた都市に住むものとされ、彼らは又騎兵であった。
 前六世紀初めのソロンの改革に至る以前には、アルコン職経験者を終身会員とする貴族の会議「アレイオスパゴス会議」が作られた。これらの支配階級は、みずからのことをペリストイ(最良者)エウゲネス(よき先祖をもつ者)クレーストイ(有徳者)などと呼び、一般的市民をポネーロイ(悪人)ペネーテス(貧民)デーモティコイ(大衆)と呼んで、自己の地位を正当化した。
 一方、古代ローマでは、共和制時代にプレブス(平民)と対立したパトリキウス(貴族)があった。パトリキウスの起源については、比較的早期にローマに移り住んできた有力貴族であるとする説が有力で、共和制期前半には身分的・政治的に特権的な地位を独占し、しばしばプレブスの抵抗を受けた。
 パトリキウスと並んで共和制中期からノビレスと呼ばれる支配階級が現れた。ノビレスはパトリキウスがプレブスの上層を抱き込み両者が手を組んで政権を掌握したもので、過去にコンスル(執政官)を出したことのある家柄から成ったから、結党的な官職貴族ということが出来る。
 ローマ帝政期になると、ノビレスは皇帝の高官としての勤務による貴族へと変質してゆき、パトリキウスの血統も一世紀末には殆ど絶えた。これらローマにおける貴族も大土地所有者であった。 [弓削達]

 ……後半のギリシャ・ローマの記述って必要だったのでしょうか…。まあそれはおいといて。

 この記述によると、『貴族』とは、
明治時代の『華族』が
『貴族院議員』となったため、
貴族との俗称が生まれ、
それが他の国の世襲的支配階級にも
適用された。


ということで、

 …明治からか…。



ああそんなことじゃないかと思ってた(若干被害妄想気味に)
もっとも「貴族院」の名がどこから来たのかは「貴族院」の項には書いていなかった。

恐らく明治期に一般化した名称を、史学のほうで使い出した、ということなんだろう。
(本当はその辺の経緯をもう少し知りたいけど…)


おまけ。
同じく国史大辞典から
【公家】
 朝廷の官人の総称。武士が政権を握って武家と呼ばれたのに対し、天皇を取り巻く朝廷の官人、特に上層の廷臣の総称となり、公卿とほぼ同じ意味に用いられた。公家は、律令官人社会の上層部に系譜を引き、平安時代以降漸次藤原摂関家を中心として形成され公家文化あるいは公家風と呼ばれる風俗習慣を生んだ。
 江戸時代廷臣の家格が固定してからは、昇殿を許された家柄、即ち堂上家の廷臣を指し、少数の源氏・平氏・菅原氏などの諸家を除き、殆ど藤原氏諸家によって占められ、明治十七年(1884)の華族令では、原則として子爵以上の爵位を授けられた。
 なお公家は「こうけ」あるいは「おほやけ」と読み、天皇の指称としても長く用いられた。本来君主の家、又は朝廷を意味したが、転じて天皇を指す語となり、特に上皇の存在が常態化してからは、「院」に対する称ともなった。内裏・うち・みかど・天朝なども、天皇に対する同類の用語である。 [橋本義彦]

ふむふむ、「公家・おほやけ」がなどが天皇を指すことは知っていたけど、「院」に対応する指称だったのかあ。

さすが国史大辞典。ありがとう。

なお他に見た日本史用語大辞典(柏書房)、日本歴史大辞典(河出書房新社)には「貴族」の項はなし。

◆ちなみに「大言海」には太平記から引いた「貴族」の使用例がひとつ載っていたので、太平記から。
「承久より以来、儲王摂家の間に、理世安民の器に相当り給へる貴族を一人、鎌倉へ申下奉て、征夷将軍と仰で、武臣皆拝趨の礼を事とす。」
(太平記/巻第一/後醍醐天皇御治世事 付 武家繁昌事)

さらにおまけ。

◆『華族』は(清華の別名として)「官職要解」に載ってましたので引用。
「清華 また華族(かしょく)ともいった。大臣大将を兼ねて、太政大臣に進む家柄をいう。『源平盛衰記』に「徳大寺左大将実定は(略)華族の家に伝わり給へり。」と見える。久我・三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門などの家である。
 清華の文字は、『北史』李彪伝に「才、等を抜くを以て清華を望む」と見える。華族は『文選』巻四十六任彦昇の王文慧集序に「公、華宗より生る」とある李善の注に「魏志に、曹植、上疏して曰く、華宗貴族、必ずこの挙に応ず」とかいてあるのによったのである。」
「新訂 官職要解」(和田英松著・所功校訂/講談社学術文庫)
 
 ※なお「摂家」(摂政関白になる家柄)の方が「清華」より上。

■[正倉院展]菩提僊那の直筆署名 文書初出展(読売新聞)

というニュースを朝、目にしまして。
え……。こんなすごいニュースを会期末目前にして知るなんて…。
まあ、芸術的な工芸品でもないこういう『文書』の扱いがささやかなものになってしまうのは仕方ないと思いますが、これがネットでも初出らしいので、やっぱりちょっと、ああ、まあ、内容も別に面白い訳じゃないし、でも、うおおお…。
こりゃすごい すごいです。
出家したい人の推薦状にあった署名らしいのですが。
筆蹟から、実直な人柄が窺えるって…Vv
こんなものが見つかるなんて、嬉しいですね~。

血が騒いだので、以前書いたものを引っ張り出してきてみました。
仏哲や林邑楽をメインに据えて書いたものからの抜粋なので、色々ばっさりやっちゃってますが。
菩提僊那の人物像がちょっとでも見えたらいいな~と思います。



■婆羅門僧正(菩提僊那)について
 
○その出生と呼称
 婆羅門僧正菩提僊那(ぼだいせんな、ボーディセーナ/仙那とも)は南天竺の人と伝えられる。生年についての記述はないが、『南天竺婆羅門僧正碑』には、
 
『以天平寳字四年歳次庚子二月二十五日夜半。合掌向西。辞色不亂。如入禮樂。奄爾遷化。即以同年三月二日。闍維於登美山右僕射林。春秋五十七。』
 
 と、没年と享年が記されているので、天平宝字四(760)年から逆算してみると、生年は703年(唐では中宗の嗣聖二〇年、又は則天武后の長安三年、日本では文武天皇の大宝三年)となる。
 その名が示す如くバラモン階級の出身であり、天平勝宝二(750)年に僧正位に叙されているので、婆羅門僧正と呼ぶ。これは勿論日本での尊称である。菩提僊那は僧号であるが、梵音に漢字を振ったものと思われる。俗姓は婆羅遲(バーラドヴァージャ)といった。
 『扶桑略記』と『大安時菩提伝来記』には迦毘羅衛城(カピラヴァストゥ)の出身とも云い、迦毘羅衛は北天竺であるから南天竺出身という記述とは矛盾が生じる。(『扶桑略記』には注をしてこの事を疑っている。)天竺の地理に明るい筈もない日本人が誤って南天竺と記したものなのか、釈迦の生誕地である迦毘羅衛を菩提僊那のそれに当てたものか、判然としない。
 
○主な現存資料
 菩提僊那に関する史料は、おおよその成立年代順に、
 
  1. 『南天竺婆羅門僧正碑并序』(770年頃)
  2. 『続日本紀』各記事、(~797年頃)
  3. 『日本往生極楽記』(~1002年頃)
  4. 『扶桑略記』(平安時代後期)
  5. 『東大寺要録』(1106年)所収の『開眼師伝来事』に引かれる
  6. 『大安寺菩提伝来記』と
  7. 『元興寺小塔院相承記』、
  8. また『日本高僧伝要文抄』(1249~51年)
  9. 『元亨釈書』(1322年)
…が挙げられる。 一部テキストを、「続き(史料)」に載せる。
 中でも最も詳細な記述があるのは『南天竺婆羅門僧正碑』である。
これによれば、菩提僊那は若くして天竺諸地方にその高徳を知られていたが、唐は五台山(現在の山西省北東部)に現れた文殊菩薩の徳を慕って入唐を決意したという。
 仏哲を伴った菩提僊那の入唐後の様子については、詳しい記述は見られないが、『東大寺要録』第四巻《大和尚伝》*一に、鑑真が来朝し、一時東大寺へ留まった時の記事として次のように見える。
 
「後有婆羅門僧正菩提亦来参問云。某甲在唐崇福寺住経三日。闍梨在彼講律。闍梨識否。和上云憶得也。」
 
 晩年の菩提僊那が東大寺の鑑真の元を訪れて、「某甲(わたくし)が唐の崇福寺に滞在して三日目に、阿闍梨(ここでは高僧の敬称)があちらで律を講じて下さいました。御記憶でしょうか」と聞き、鑑真は「憶えていますよ」と答えた、という。
 どうやら菩提僊那は、長安の崇福寺に止宿していた事があるようである。ただしその期間などはやはり詳らかでない。
 入唐の時期についての記述もないが、ただ、『僧正碑』には、
 
「于時聖朝通好發使唐國。使人丹治比眞人廣成。學問僧理鏡。仰其芳譽。要請東歸。僧正感其懇志。無所辞請。以大唐開元十八年十二月十三日。與同伴林邑僧佛徹唐國僧道璿隨船泛海。及于中路。忽遭暴風。波濤注日。陰曀迷天。計命忽若贅旒、去死尚其一分。擧船惶遽不知所為。乃端仰一身入禪観佛。少選之間風定波息。衆咸嘆其奇異。以天平八年五月十八日。得到筑紫太宰府。(中略)同年八月八日到於攝津國治下。」
 
 という記述があって、これを見ると、《大唐開元十八年(730)年十二月十三日》に遣唐使等の招きに応じて遣唐廻船に乗った、かのようであるが、丹治比真人広成を正使とする第九次遣唐使団が日本の難波津を出発したのは天平五年(733)年、唐歴でいうと開元二十一年で、明らかに齟齬がある。これでは、菩提等が遣唐使との遭遇を待たず、自力で海へ漕ぎ出したという事になってしまうのだ。
 しかし、それならばこの《十二月十三日》という具体的な日付は何処から来たのであろう。
 思うに、《大唐開元十八年十二月十三日》とは、菩提達が入唐したか、五台山あるいは長安に着いた日付と見るのが妥当なのではあるまいか。そう考えると、菩提達は六年ほど唐に滞在し、その間に遣唐使丹治比広成や理鏡と邂逅したことになる。天竺から遠路はるばる唐へやって来て、すぐに日本へ渡るというのも慌ただしい話である。当時菩提僊那は未だ二十後半~三十代前半であった。学ぶべき事も意欲も、尽きることはなかっただろう。日本行きが決まってから、遣唐使達から日本語を学ぶ機会などもあったかも知れない。
 
 さて、上記のような理由から、私は菩提僊那の入唐・来朝年について次のように比定するのが妥当と考える。
  • 菩提僊那等入唐、或いは五台山または長安への到着…大唐開元十八年(天平二(730)年)十二月十三日、菩提僊那二十七歳。
  • 第十次遣唐使(正使丹治比真人広成、副使中臣名代)発遣。…天平五(733)年。菩提僊那三十歳、唐にて広成、遣唐留学僧理鏡から日本へ招かれる。
  • 遣唐廻船に乗船し、太宰府を経て難波津へ到着…天平八(736)年、菩提僊那三十三歳。
 
 『僧正碑』では、この航海の様子を
 
「船泛海。及于中路。忽遭暴風。波濤注日。陰曀迷天。計命忽若贅旒、去死尚其一分。擧船惶遽不知所為。乃端仰一身入禪観佛。少選之間風定波息。衆咸嘆其奇異。」
 
 ──と述べており、彼等が嵐に遭った事は確かだったようである。
 ちなみに、この時の遣唐廻船は第四船まであったが、海難に遭って第三・四船は流され、判官平群真成らを乗せた第三船は漂流の末、崑崙国に流れ着いたと『続日本紀』は記す。
 崑崙とは、唐宋時代に於いてマレー半島・インドシナ半島などの地域の総称として使用されていた地名である。一行は在地民の襲撃に遭い、また病に冒されるなどして次々に斃れ、捕らえられて王の前に引き出された時、生存していた者は平群真成と水夫数名に過ぎなかったという。数年収監されたあと、商人の手引きによって脱出、唐との国境まで逃げて唐に救援を求めた。当時、中央には阿倍仲麻呂(朝衡)がおり、彼等の帰国の為に様々な差配をしたため、平群真成らは帰国を許されて、渤海使に同船して日本への帰国を果たした。この時平群真成が捕らわれた国は林邑であったとする説が有力だが、林邑の人である仏哲が日本へ辿り着き、平群真成が林邑へ漂着したとは、奇縁なことである。
 さて、第一・二船に乗っていたと思われる菩提僊那と仏哲は、九死に一生を得て太宰府へと辿り着き、難波津では太宰府からの報せを受けた行基から歓迎を受けた。
 
○行基との交誼と日本での処遇

 太宰府を経て摂津国難波津へ到着した菩提僊那を、天平随一の高僧行基が迎える場面が、殆どの資料に描かれており、特に『扶桑略記』以降『元興寺小塔院相承記』『菩提伝来記』『日本往生記』の資料においては、初対面の行基と菩提僊那は、最初は梵語で会話をし、次には和歌を詠み合っている。
 書き記されている歌は、次の二首である。(※[]内は筆者注)
 
「(前略)唱二倭歌一曰。
靈山能。尺迦乃彌摩部二。知岐利天子。眞如久知世須。阿比美都留賀奈。
[靈山の。釈迦のみ前に。ちぎりてし。眞如くちせず。逢ひ見つるかな。]
異國聖者即答和曰。
迦毘羅恵邇。等毛邇知岐里之。加比阿利天。文殊美賀保。阿比美都留賀奈。
[※迦毘羅恵に。ともにちぎりし。甲斐ありて。文殊みかほ。逢ひ見つるかな。]」
 
 資料によって表記の異同はあるが、大体この様である(引用は『日本往生極楽記』から)。
 実はこの贈答歌のエピソードは『太平記』『今昔物語』『源平盛衰記』『沙石集』などにも引かれ、謡曲『巻絹』にも出てくる。歌意は、前生に於いて釈迦の元に共に修行をし、来世での邂逅を言い交わした、その契りが今果たされた、というほどのものであろう。
 もし仮に、これを史実として見た場合の話ではあるが、外国語の学習においては、日常会話よりも詩作の方が遙かに難易度は高い筈である。和歌の贈答となるとなかなか、日本語初心者には難しいだろう。となると、唐で既に相当の語学力を培ったということだろうか…。
 もっとも、これがありきたりの漢詩の贈答でないところが、宿世の縁というもののあらわれとしては相応しいわけである。
 また、本当にこの時和歌を詠み交わしたかどうかはともかく、東大寺開眼会に際して菩提が詠んだ歌は確かに残っている。(『乃利乃裳度。波那佐岐邇多利。計布與利波。保度介乃美乃利。佐加江多萬波舞。/法のもと。華開きにたり。けふよりは。仏の御法。栄たまはむ。』東大寺要録所収)
 
 行基(666~749年)という人は、八世紀頃から畿内を中心に遊行し、仏法を説くと共に、多くの寺院開基に携わり、池溝や橋梁の建設、布施屋(租税の運搬者や旅行者の為の無料宿泊所)設置などの社会事業に力を尽くして、民から大変敬われた高僧である。その影響力の強さから養老元年、僧尼令によって弾圧されたが、のち東大寺及び大仏の建設においては、その人望を活かして勧進を推し進めることとなった。
 菩提達の来朝時、行基は六八歳という高齢であったが、自ら菩提僊那を迎えに出て、初対面でまるで旧知の間柄のように打ち解けあったという。
 
「…主客相謁。如舊相知。白首如新。傾蓋如舊。於是見矣。…」(『僧正碑』)
 
 日本への道すがら、菩提等が同道の理鏡等から行基の業績を聞き知っていた事は容易に想像できる。その高徳の僧に温かく迎え入れられて、菩提もはるばるやって来た甲斐があったと感じたのではなかろうか。
 また、老境にあって大事業を担う行基にも、波濤を越え来たった若き天竺僧の志が、さぞや尊く有難く思われたことだろう。
 
 都に入る頃には、この目出度い話を聞き付けた大衆が婆羅門見物に訪れ、道を埋め尽くしたという。
 聖武天皇も感激し、勅して菩提僊那等を奈良大安寺に住まわしめた。
 
 現在は盛時の面影はないけれども、大安寺は奈良の昔には南都七大寺の一つに数えられ、東大寺に並んで南大寺とまで称された名刹であった。寺伝では、聖徳太子が建立した熊凝精舎を、舒明天皇十一年(六三九年)に、太子の遺言によって百済大寺として移築したのがこの寺の始まりであるとしている。のち、高市大寺、大官大寺、大安寺と移築の度に名を変えた。
 菩提僊那の大安寺への居住については、『扶桑略記』には「大安寺東僧坊南端小子坊留住」とあり、『元亨釈書』には「教舘大安寺東坊」とある。
 当時の伽藍配置は、『南都七大寺の歴史と年表』に詳しい。大安寺伽藍には他の南都寺院とも違う特色があった。それは、通常は講堂を囲んで三方に配置される僧坊(僧侶達の生活空間)が、更に金堂を囲む回廊の外側にまで伸びており、しかも一列でなく、複数列に重なっていることである。
 つまりこれは、大安寺に居住した僧侶の数が大変多かったことを示している。菩提僊那や仏哲が居住した当時は880人を越える学僧が居たという。
菩提もこの大所帯の内に一室を構えたのである。恐らく同行の仏哲も彼の弟子として、東坊の南端に住まいしたものと思われる。

 来朝してからさして間もなく、天平八(736)年から大安寺に居住した。以来菩提僊那入滅の天平宝字四(760)年まで、二十四年ほどを我が国で過ごしたことになる。

 当時の大安寺は、単なる寺院に留まらず、渡来の賓客の受け入れ先として、外務省や迎賓館的な機能を持ち、さらに、渡来僧が教鞭を執る外語大学という一面を具えていた。
 菩提僊那も、この学びの苑の師のひとりであった。彼は華厳経を肝要として常に諷誦し、密呪も善く伝えたという。
 
 「僧正諷踊華嚴經以為心要。尤善呪術。弟子承習。至今傳之。」(『僧正碑』)

 また、菩提と仏哲は悉曇(サンスクリット)も伝えた。これ以前の日本では、悉曇は経典や断片的な文章、仏教美術の一部として伝わってはいたが、本場の高度な悉曇学をネイティブである天竺人に教わることが出来たというのは、当時の学僧にしてみれば法悦ものの歓びであったに違いない。云うまでもなく、漢字で書かれた経典は中国で翻訳されたものであり、日本人にもとても有り難いものではあるが、原典で釈尊のことばを直に読むことが出来たとしたら──。
 いやはや、これもまさに、盛時の奈良が絢爛たる国際都市であったことの象徴ではなかろうか。
 
 ──今回発見され、正倉院展に出品されている文書は、このような大安寺における菩提僊那の活動を偲ばせる、貴重な物である。

 「本朝高僧傳」には仏哲がもたらした密部経典の中に『悉曇章一巻』を挙げている。これは安然の『悉曇藏』、玄昭『悉曇略記』(共に平安前期~中期)に引かれて、江戸時代までは写本が残っていたようである。
 また、日本人が悉曇を学習するときに、梵字の字音配列に倣って対応する音の配置表をつくり、それが「あいうえお」の五十音配列になった、ということがよく言われる。
 高楠順次郎は「この配列法は梵語を実際に学習した人の案であるという点は確かである。そこでこの五十音図はインドの知識を表白せる奈良朝の産物の第一に置くべきものである」と云っている。(高楠順次郎全集9・教育新潮社S53)
 この説が正しければ、インドに於いて高度に発展していた悉曇学が、正しく日本に将来されたことで、現在の私達にも馴染み深いものが生まれたということである。
 勿論直接的に菩提僊那や仏哲が造ったという訳ではないかも知れないが、彼らの存在が、確かに日本人の血肉になっているのだと思うと、深い感慨が胸を満たすのである。


さて、菩提僊那といえば、やはり大仏開眼導師の役を担ったことで知られる。
最後に、そのあたりの事情と、開眼会の様子を少し見ておこう。
 
○開眼導師の大任
 聖武天皇の大仏建立の悲願は、行基等の尽力の甲斐もあっていよいよ実を結ぼうとしていた。大仏開眼会において盧遮那仏に点睛を施す開眼導師は、本来は天皇が自ら勤める筈であったのだが、病を得てそれも叶わなくなり、大仏鋳造の功労者である行基も己の死期を悟っていた。
 そこで行基は、自らの最も信頼する僧にその任を委ねた。
 それが菩提僊那である。
 実際、行基は開眼会を見ることなく天平勝宝元(749)年に薨じ、同年、聖武天皇も孝謙天皇に譲位して太上皇となっている。太上皇の病状を慮って開眼会の日取りも早められた。
 天平勝宝三(751)年四月二十二日、詔が下って菩提僊那は僧正となった。
 次に挙げるのは、上皇から菩提僊那へ宛てた、開眼導師を依頼する文章である。
 
「皇帝敬請
菩提僧正
以四月八日。設斎東大寺。供養盧舎那仏。敬欲開无辺眼。朕身疲弱。不便起居。其可代朕執筆者。和上一人 而巳。 仍請開眼師。乞勿辞摂受敬白。」
(『東大寺要録』巻二 供養章三)
 
 或いは鑑真の渡海がすんなりと成功していたならば、菩提僊那が開眼の筆を執ることはなかった、とも考えられる。(勿論法会の講師あたりには名を連ねていたに違いはないが。)鑑真が苦難の末に来朝を果たしたのは、開眼会の翌年、天平勝宝五(753)年のことだったのである。しかし、行基の指名、天竺婆羅門種という出自、大安寺での教授実績などから鑑みて、この時開眼の師に相応しい人物は、やはり菩提僊那以外にあり得なかったのだろう。
 また、菩提僊那が重んじた華厳経の教主こそ、かの盧遮那仏であった。
 
 いずれにせよ、菩提僊那が開眼会に相当の意気込みで臨んだことは想像に難くない。
 当日の開眼供養会の模様は、『東大寺要録』に詳しい。長くなるので適宜略して訳す。
 
「天平勝宝四年九日、太上天皇、太后、天皇は、東大堂の布板殿に座した。
 大堂宇の内側は種々の造花や美しい刺繍の幡で飾られ、堂の上からは種々の花びらが振り散らされた。
東西には刺繍の布、八方には五色の布が懸け渡されていた。
僧侶達が南門から参入してきた。
(略)
次に開眼師僧正菩提法師が、輿に乗り白蓋を捧げられて東門から入場し、迎えられた。
(略)
開眼師が進み出て前を払い、筆を取って開眼した。亦、筆には繩が着けられ、参集した人等にも開眼せしめた。すぐに講師と読師が共に高座へ登り、華厳経が講じられた。衆僧や沙祢達を、南門から左右に頒かれて参入させた。
(略)
大安寺薬師寺元興寺興福寺の四寺が、種々の珍しい宝を献じた。
亦、種々の楽が賑やかに参入してきた。
(略)
左大臣など十六人が鼓を打った。
妓女六十人が鼓を打った。
度羅楽を行う四つの寺の者達が道を二往復した。
堂の前に左右に頒かれて立ち、左大臣以下鼓を打っていた者達は着席した。
次の者達に順々に奏楽をさせた。
大歌女、大御舞三十人。久米舞、大伴氏二十人・佐伯氏二十人。跳子百人。唐古楽一舞、唐散楽一舞、林邑楽三舞、高麗楽一舞、唐中楽一舞、唐女舞一舞。施袴二十人、高麗楽三舞、高麗女楽。
法会の行道(行列)に動員された人々は、次のようなものがいた。
梵音を唱える係の僧侶二百人、維那(首座)一人、
錫杖を打ち鳴らす係二百人。
唄の係十人、散華(花弁を撒く係)十人、
定者(香炉を持つ役の童子)二十人
衲(僧侶)三百三十人 甲(武官)三百四十人
開眼師、供養師、読師、咒願師、都講師、維那師の六人。
或る本には、衆僧沙弥九千人。巳上都合一万二十六人という。」
(『東大寺要録』巻二 供養章三)
 
 夥しい数の善男善女が、大仏の膝元に参集した訳である。
 この国家事業は、多くの民衆の苦痛を伴ってもいた。それだけに、是が非でも成功させなければならないものだった。一万人の注視の中で、大役を果たした菩提僊那の握った筆は、或いは、些か震えていたかも知れないなどと想像を逞しくする。
 菩提は無事この偉業を成し終え、「東大寺四開基」に名を連ねた。
 これより八年後の天平宝字四年に婆羅門僧正菩提僊那は入寂。
 菩提の墓が今も残る大和国霊山寺は、故郷天竺の霊鷲山に地形が似ていると菩提が言ったことから、彼の地に因んで名付けられたという。

かれは仏となって西方浄土へ還っていったのだろうか。


***************************** 

参考文献
▲高楠順次郎『奈良朝の音楽殊に「林邑八楽」について』「高楠順次郎全集 第九巻」所収。(教育新潮社、1978年刊)
▲田中於菟彌『林邑僧仏哲について』「酔花集 インド学論文・訳詩集」(春秋社1991年刊)所収。
▲富田春生『雅楽の中の仏哲』「南方文化」第十一輯(天理南方文化研究会1984年11月刊)所収。
▲太田博太郎『南都七大寺の歴史と年表』(岩波書店1979年)

引用史料については「続き」に。

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