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深度三,三三糎の心の海から湧き出ずる毒ぼやきの数々。
 
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映画「ローマ法王の休日」に出てきた祭服。
(映画本編の感想は前回記事で)

「ローマ法王の休日」から
 
描いてみたので、名前も調べてみた。
殆ど英語版wikiから引いてきていますが、見出しが英仏伊羅混ざってて、
実用ではまた違う呼び方だったりしそう…。
間違いがありましたらお教え下さいませ;;
 
枢機卿が一番よく出てくるので、衣装のバリエーションも豊富でした。
 
ここで挙げたのは
キャソック(平服、フランス語ではスータン)に
ペレグリナ(前開きのケープ)、
ファシャ(サッシュベルト)、
ズケット(元は頭頂部の剃髪・トンスラを隠すための帽子)、
ペクトラルクロス(胸に懸ける十字架)と指輪。
(※「ロザリオ」は仏教徒の数珠のように珠を繰る為の祈祷具で、
本来首に懸けるものではなく、十字架やメダイは装飾で輪の部分が本体)
パイピングやボタン、ズケットの色は枢機卿の位を示す赤。
(カトリックでは、司祭・助祭は黒、司教はパープル、枢機卿は赤)
ボタンは33個らしいですが数えて描いてないです;;
 
あと、帽子に赤マントっていうのもありましたねえ…。
 
法王の祭服は、バルコニーでのお披露目の時の、
アルバ(白衣)、
ファシャ、
ロシェ(リネンとレースの白チュニック)、
モゼタ(ケープ)、
ストラ(肩から掛ける領巾)、
ズケット、ペクトラルクロス。
法王の指輪は「漁師(聖ペテロを指す)の指輪」という通称がある。
「サープリス」と「ロシェ」の区別がよく飲み込めてないです…。
 
残念ながら法王様の盛装は見られませんでしたし
半分くらいは私服でいらしたのですが、あれはあれで好きでした…。
 
あと、不思議な形の帽子ビレッタ。コンクラーヴェの前のシーンで着用。
それから、バレーボール大会の時にゼッケン代わりにされていたカズラ。
キャソックは平服で、礼拝の際にはアルバを基本にして、カズラ、ストラ等々重ねていくそうです。


今年は袈裟には泣かされてばかりだし、ちょっとくらい浮気しても許される気がする。
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周回遅れも良いとこですが貯まってた大河ちょっとだけ消化しました。
本当に清盛と後白河院の落飾シーンとか法会と遮那王周辺しか見てませんが…。
 
……清盛の入道姿は、解っていたけれど、本当に酷い
 
主人公がこんな惨めなことになっていて本当にいいんですか、NHKさん。
 
◆清盛に限りませんが、このドラマの入道達の法衣ってまず
『何だか解らない』のです。
それじゃ何かといって、まず裾のあたりを見て、襞の入り具合で判別しようとしたのですが、襞自体が見つからない。
それで生地を見るのですが、赤色で織り模様で地文が入っている、という時点で『袍裳』しかない、
しかしやっぱり、袍裳にあるはずの裳──の襞が見えない。
 で、辿り着いた結果が、袈裟だけでなく裳(プリーツ状の巻きスカートのようなもの)まで取った袍裳…という…。。。
まさかそこまでやれるほど末期だとは思っていなかったのですが…。
もしかして、裳がセットということすら知らないのかも…ありそうで怖い…。
 
それから、多分、この時代他に赤色のものがある法衣というと素絹(弁慶などと同じもの、半素絹)なのですが、こちらは生地が粗い麻で、透けます。もちろん無地。簡素な生地でなくてはならないので赤錦なんか論外ですけど…。
 多分、赤素絹と、本来高僧の着るべき袍裳の中でも最も高位の色である赤の袍裳を混同してしまっているのだと思います。清盛がなんか作業に加わって腕まくりをしていましたが、あれは素絹でよくやることです。
 
 それで、袍裳なのだとしたら袈裟がないのは、余計におかしい。
常用にする下の方の装束ならともかく、

そもそも盛装が前提の装束なので、袈裟も含めて一式です。

外すことに意味はないし、ていうか…宗教的な意味とか、そもそも…考えてないよね…?

これが宗教者の衣っていうこと自体、飲み込めていないのでは?
 
 ただ、この「袈裟がなくておかしい」という自分の感覚が、口ではあまり巧く伝えられないので
他の装束と比較してみようかと思います。
 袍裳は高僧の盛装で、法会の時に着る物です。
比較するのは俗人の盛装である束帯
それから、現代の盛装であるモーニングです。
先日内閣改造がありましたが、皇居での認証式や写真撮影での内閣の面々のモーニング姿は御記憶に新しいかと思います。
 
清盛の法衣比較
 
法衣の袈裟なしは束帯の袍なし、モーニングの上着なしといったところかなと思います。

新大臣がこの風体で認証式に臨んだり、組閣記念の記念写真の列に加わったら
どんだけ顰蹙買うでしょうね?
まあさすがにそれだけで政権倒れたりはしないと思いますけどw
それと同じ事を清盛たちはしているっていうことなのです。
 
そういう無茶苦茶な意味不明なことを

「おしゃれ(笑)」と平気でいいのけてる。

そういう問題じゃないんですけど………。
 
なお裘代は参内用の装束で、俗人の宿装束(とのいしょうぞく)にあたります。衣冠や冠直衣などです。
 モーニング(morning dress)は昼間の盛装で、晩餐会など夜間の行事には燕尾服(evening dress)を着用しますから、裘代=燕尾服、ってしちゃっていいのかな…。
 
まあ、普段着に何を着てようと別にかまやしません、
ただ、TPOを考えてくれんかという話です。
せめて、せめて宮中や御前に侍るときくらいは、なんとかならんものでしょうか。
 
 
 
◆あと、清盛が首から懸けてる長数珠、よく見たら宋銭が編み込んでありますね…。
イラっとするなあ…。
こういうのって実際あったんでしょうか?三途の川の渡り賃? 
 
気持ち悪い襟巻も、今までの僧形で巻いてたからわかっていましたけど…
これって、帽子(もうす)を頭から外して、首から懸けている様子を思い切り曲解したもののようなのですが、普通白だし、綾地とか、ないから…。
しかも、茶色の誌公帽子を、帽子を首に掛けているのにもかかわらず、頭に被る。
たぶんこのまぬけさが、さっぱりわかっていない。
…大体、それ、当時日本にあったんだろうか。
宋にはあったのかも知れないが、臨済宗のものだしなあ…。
 
 
◆事前に「落飾式に袈裟が出てきた」と聞いたのでかぶりつきで見てましたが、
 
たしかに七条袈裟が初めて出てきました。

でもなんで、座主は最初から袈裟着てこないんだろう…。
しかも修法終わったらわざわざ袈裟外して出てきた。
列席してる清盛はやっぱり袈裟無しだし。
 
で、
七条袈裟が出てきたのは、清盛剃髪と、法要、後白河落飾の3シーン。
 
ただし柄から見て、全部同じ袈裟。
 
天台座主が別場面で二回同じ袈裟を着てるのはいいとして、
叡山と敵対しているとわざわざ言ってある三井寺の長吏が同じもの着てるって……
 
…いかにやる気がないかがわかる…。
 
いや、別に、覚忠×明雲ロミジュリでこっそりお揃い袈裟仕立てて
お互いを偲んでたっていう設定でもいいんだけど…。
その場合は絶対明雲が面倒くさい絡み方をしたな。
『衲(アタシ)とお揃いなんかお厭かしら?やっぱり猊下(アナタ)も若い稚児(コ)がいいのね』とか。
なんかもう自分で縫っちゃってるかもな袈裟。
 
だいたい、これまでも七条袈裟を着用するべきシーンは何度もあった。
帝の平癒のための護摩。参内する宋僧。
 
今までさんざん存在を黙殺してきて、それでなんで今回だけ出すんだ?

やっぱりレンタル?
五条袈裟なんかほぼいつもかけていたっていいんだよ。
気持ち悪い銀色豪華裘代とかの仕立て賃で五条袈裟お買い上げしてください。
 
 
◆遮那王の御師様の懸けてる袈裟(絡子)も、この時代まだ存在しません…………。
 禅宗のものだから…まだ日本に禅宗来てないから…。
 ほんとに何も調べてないんだね……………。
 
◆遮那王も白上下の水干ってさあ……またテーマカラー(笑)なんだろうけど、
白張とか牛飼童とか、白上下がトレードマークの職業があるんですけど。
 
しかも菊綴なしとか、超地味だからやっぱ牛飼童にしか見えません。
院政期なんか、華美な童水干着せ放題でしょおおおお!!!???

稚児を飾り立てないでどうすんの……!!!????

こ…こ…言葉にならない!! 
ほんとなんでこのドラマこんなに勿体ないことばっかりするの????
 
 
◆あと、お師様を「僧都」って、どこから出てきたんだろう…。
『義経記』だと、まず、義朝さんの御縁で鞍馬別当東光坊の阿闍梨の許へ預けられて、夜中のひみつ特訓がバレて、もう坊主になれと言われたところを、こんな可愛いのに剃るなんて勿体ないでしょっ!?て、覚日坊の律師様に拾って貰うんですよね。
『平治物語』のほうだと、最初から東光坊阿闍梨蓮忍…の弟子の禅林坊阿闍梨覚日の弟子となる、ってなってたけど、僧都ってことは覚日坊の律師(か禅林坊覚日)ではないみたいですね。そうすると、この人は鞍馬別当東光坊蓮忍ってことになるけれど、鞍馬の別当は僧都位相当なんでしょうか。(僧都っても大から権少まであるけど)
 
 どのみち『僧都』をどこから拾ってきたのか不明。
 なぜ蓮忍や覚日の名を拾わなかったのか。
 今までも散々あやふやなことしてるのに。
 
◆あと、清盛の落飾に身内が驚いてるのも白けるが…
叡山の座主呼んであれだけの坊主揃えて落飾式したのに身内が何にも知らないの???
普通に病床に呼んで剃って貰ったとかならともかくさあ。
 時子が一緒に落飾したのを美談みたいに言うのも、それ、当時は別に当たり前だから…。
 
◆滋子は妙なタイミングで描眉になってたが…
この、眉のこともすごく「ただの化粧」みたいな捉え方なんでしょうね。
裳着の時に入れるものだから成人女性の象徴なんだとか、関係ないんでしょうね。
 ほんとになぜ彼女だけあそこまでグロテスクにされなきゃいけないのか…。
 老けメイクはなおざりな癖に、なまなり鬼とかおはぐろとか、グロメイクだけは頑張るよね。


 
 なんかなあ。
 清盛や海賊さんたちや平家の公達の私服は悪趣味だとは思うけれど、それは自分とは嗜好が合わないだけのことで、自由にしてもらって構わないと思います。
 全部完全に史実に則してなきゃダメとは言いませんし、そんなんだったら最初からドラマなんか見ていません
 
 ただ、平安時代を扱う上で有職故実(服装に留まらず、日常作法、儀式典礼、官職位階、足の運び方から宮殿の建築まで、あらゆる事に及ぶ規定慣例)を軽視するという事は、そも平安時代を描く意義すら危うくすることじゃないでしょうか。
 それが、彼らの世界を形作る大きな柱のひとつだったからです。
 キャラクターを造り動かす上で、個人や社会の価値観を考慮に入れないなんてことありますか?
 
 だからせめて、要所要所で「ここだけは守らなきゃだめ」というコアだけは押さえて欲しい。
ただその為には当然ある程度知識は必要だと思います。
 その上で、当時の人々の価値観について考慮して頂ければ、どこに力点を置けばよいのか、
自ずと定まってくるものだと思います。
 
 今回の大河は、まずその作業が欠けているのではないでしょうか。
 有職装束に対する知識ゼロ、
おそらく大雑把にイメージできる範囲すら異国の方以下の貧しさ、
というところからスタートしておきながら、
いきなりマイナー装束おしゃれアレンジ(笑)に走ろうという蛮行を、誰も止めなかったのでしょうか?

 そもそも有職装束に必要なのは

 『コーディネイター』であって、

 『デザイナー』ではないのでは。

 少なくとも己のエゴを主張しなきゃ死ぬとでも思っているような、
その為に過去の遺産を蹂躙しまくったことを蒙昧にも公に喧伝して恥じないような困った人ではなかったのでは。

 
 本当に残念です。


[袈裟・法衣の目次]
先日、御引直衣をちょこっと描いたのですが
バストアップで…

引いてない全然引いてない!!と不完全燃焼だったので
描いてみました。
御引直衣01
御引直衣02
御引直衣、童形。
 
御引直衣は帝の日常着です。
もともと、帝の内々の御料で、直衣を帯を用いずに着たものでした。
下げ直衣といい また放ち直衣ともいいました。
そのため、普通の直衣よりもかえって裾は短かったそうです(「禁秘抄講義.」)
しかしこのまま御簾内から御出ましということになるとやっぱり具合が悪い。
そこで徐々に体裁が整えられていったようで、略儀と晴儀ふたつのパターンが出来ました。

清涼殿は臣下にとっては厳儀を求められる場所であるのに
帝にとっては日常生活の場でもあり
くつろぎ着が高位の装束にすり替わってしまうという。
御衣のふしぎさというか おもしろいところですね。
 
 
晴儀での構成は、
袍(うえのきぬ)
 ・引直衣(長く仕立てた直衣)
 ・当帯(直衣と共布)
下具
 ・長衣(ながのころも)裾長に仕立てた衵。
 ・長打衣(ながのうちごろも)同上、張りを出す加工を施してある。表からは見えない。
  衵を二枚重ねするので、合わせて二つ衣ともいう。
 ・長単(ながのひとえ)裾長の単。
 ・張袴 表袴。
 ・長袴 下袴。下着。
 ・大帷子(おおかたびら) 襟付きの肌着。
他に、笏、檜扇、帖紙、外出時は挿鞋を履く。
髪型は上げみづらに夾形(リボンのような細帯)を結ぶ。時に被髪。
 ※成人の場合は垂纓冠(後世は立纓)。
 在位中は冠のみ着用で、烏帽子を被ることはありません。

御引直衣の型は、ふつうの直衣の裾を丈長に仕立てただけで
襴や蟻先(裾にくっついてる四角)もそのまま残っています。
衣紋道の方がきちんと裾を整えるときは、上の図のようにびしっと四角にするようです。
 
下に重ねる装束(下具)は
長く仕立てた衵も袴も二枚重ねで、内に着るものは「打衣」といって、
張りを出す加工をしてあります。着重ねて形を整えるためのものでした。
 
 
童形と成人とでは、全体的に小さく仕立ててあるだけで、違いはないようですが、
年齢によって色味に違いがあります。
 
御引直衣に限りませんが、若年のころは、『二藍』の赤味を強くするのがお約束で、
幼少時は紫がかった紅。(衣紋道の高倉流では、四十以下はみな蘇芳)
二藍とは、特定の色を差すのではなく、紅(呉藍、くれない)と藍(蓼藍)、
二つの藍の染め具合によって変わるグラデーションを指します。
四十歳になると紅を使わない、藍だけの縹(はなだ)となります。
 つまり、紅い程若い、幼いということで、縹は大人の色でした。
 
冬の料だと、表の白綾に裏地の紅がうっすらと映ります。
夏の料は、直衣を裏無しの顕文紗に替え、冬の料の裏地と
衵(衣・打衣)も裏地を除いた『引倍木』とします。
 
略儀ではかなりばっさり下具は省略してしまい、
引直衣の下は、大帷子(半襟付き単衣の下着)と紅生絹の袴だけになります。
 
なお、衵と単については、白か紅染かは任意とのことで
上に描いた色目とは紅白逆の場合もあると思われます。
 
 
なお、「濃装束」といって、童形や未成年のうちは
衵、単衣、袴など お約束で紅に染めてあるものを
濃色(こきいろ。深い紫紅色)に代えることがありました。
殿上童の装束についてはこれが適用されていたようなので
童形の御引直衣にも、濃色が使われていたかも知れませんが
きちんと確認出来なかったので今回は見送りました。
ううーん。描いてみたいけどなー。
 
 
参考資料:
「有職故実図典-服装と故実-」(著・監修/吉川弘文館)
「有職故実大事典」(同上)
「原色日本服飾史」(井筒雅風/光琳舎出版
「宮廷の装束」展図録(高倉文化研究所/京都国立博物館)1999
「日本の色辞典」(吉岡幸雄/紫紅社)
「素晴らしい装束の世界-いまに生きる千年のファッション-」(八条忠基/誠文堂新光社)
「平安文様素材CD-ROM」(八條忠基/マール社)
『雅亮装束抄』
「新校群書類従 第五巻装束部(一)」(内外株式會社)所収
『法中装束抄』『法体装束抄』
「新校群書類従 第六巻装束部(二)」(内外株式會社)所収
 あまねく三千世界のみづら愛好家のみなさまこんばんは。
 只今みづら祭を開催中です。
 今回はフライング気味に、古墳からいきなり時代を飛ばして、趣向も変えてみました。
 
 筆者の愛して已まない童子みづら。
 今回は、同時期の小児の髪型をご紹介して、
 その中でみづらがどのような位置にあったかをお話ししたいと思います。
 そのため童子みづらについてはさらりと触れるだけに留めますが
 もちろんまた回を設けて、みっちりねっちりしんねりうっとり語らせて頂く所存です。

 
 さて、今回は「髪型と通過儀礼」ということも少し見ていきたいと思います。
 
 古代から中世(だいたい、平安中期~室町時代)の髪型全体に云えることですが、
 そうそうバリエーションがあるわけでもなく、
 地味です。
 どのお子さんも、大概同じような髪型をしています。
 
 これには、まず理髪方法が限定されていたという理由があります。
 中古の理髪具は鋏(いまの糸切り鋏のような握り鋏)、小刀、鑷(けぬき)です。
 剃刀は僧侶が使うもので、俗人が用いるようになったのは桃山時代以降と言われています。
 結っても複雑な髷はつくらないし、複雑なカットが出来る道具もない。
 
 そしてもうひとつ、
 古代~中世の小児の髪型が、通過儀礼に関わってくるからです。
 
 と云うと分かり難くなってしまいそうですが、髪型だけではなく装束も含めて、
年齢に相応しい身形に変えていくということは、何も時代を限ってのことではありませんよね。
 そのことどもが折々の祝いとして儀礼化していき、時には公的な行事として、晴れがましく執り行われました。
 いまも七五三の行事の中に名残を留めているものがあります。

 で、「身形を整える」ということは、服装と髪型を変えるということでもあり、
 この年齢ではだいたいこう、と決まっていました。

 さーて、本来なら髪置とか深曾木とかについてもお話しする予定でしたが
 なかなか調べものが終わらないので、
 今回は「あっさり編」ということで、とりあえずこの年頃はこんな感じ、というあたりを。
 生育儀礼それぞれの細かい事例や儀式次第は、「しっかり編」とでも題して
 後日またお送りしようと思います。

 
 
~あっさり編~
※だいたい、平安中期~室町時代くらいの、中流以上のお子さんについて述べています。
※年齢はあくまで目安です。

中古小児の髪風
 
■誕生■
  ◇産養(うぶやしない)
   生後三,五,七、九日の夜に祝宴が催されます。
   その間、湯殿始、粥啜、着衣始、と忙しなく執り行われる中で、
  ◆胎髪を除く ということが行われました。(お七夜に多く行われた)
   以降は三歳まで髪を伸ばしません。(ショートヘアか刈り上げ)
■五十日、百日の祝■
  ◇食初め、箸始め、色直し、真魚始など
   後には三歳、五歳でまとめて行われることが多くなりました。
■三歳■
  ◆髪置(かみおき、くしおき)
   髪を伸ばし始めるお祝です。
   平安時代はごく私的でささやかなものだったようですが、
   後には、
   父君が手ずから額に白粉をつけたり(室町時代)
   白髪に見立てた綿の付け物をかぶらせたりもしました(江戸初期)
  ◇袴着、着袴(はかまぎ、ちゃっこ)
   子供が袴を着けるようになります。
■五歳■
  ◆深曾木(ふかそぎ)
   伸びてきた髪を、成長を祝いつつ綺麗に剪り揃えます。
   平安末期からは碁盤に乗った子の髪を切り、終わってから吉方へ降りる風習が。
■七~九歳頃■
  ◆髪が伸びてくるので、適宜束ねます(束髪)
  ◇帯解 童装束の付帯を取り、別帯を結び始めます。
  ◇親王、内親王が始めて参内し、父帝のお目見えを賜うのはこのころです。
   (東宮など特別目を掛けられている場合は、これ以前に行幸を仰ぎ里第で対面することも)
■十歳頃■
  ◆もっと伸びると、男児は元結を入れて後頭部で結い、長く垂らします(垂髪)
   女児も垂髪に結うことがあったようです。
  ◆この頃から父兄について家の外へ出て働き出したりもしたようで、
   絵巻物などに従者として描かれる童子は多くが垂髪姿です。
  ◇牛飼童、車副など雑色に(世襲。職業によっては成人しても童形)
  ◆在京貴族の子弟で大内裏へお勤めにあがる者は「小舎人童」
   その中から貴顕の童子は清涼殿への殿上を聴(ゆる)されて「殿上童」に。
  ◆殿上童はみづらを結いました。
   (昼装束では上げみづら、宿直装束では下げみづら
  ◆身分が低くても、行事の際に臨時の殿上童となることがありました。
   (節会で舞ったり、勝負事の点数係をしたり、竜頭鷁首に乗ったり)
   この際は下げみづらを結いました。
  ◆女児は女童(めのわらわ)、女房見習いとして、母や姉などについて出仕。
   宮中であったり、主家筋の奥向きであったり。(※下級女官の女孺とはまた別)
   正装の場合、両耳の上でひと房ずつ結んだこともあったようです。
  ◆大寺院へ行儀見習いへ出されて「兒(ちご)」に。
   基本的に垂髪ですが、鎌倉時代以降は『唐輪』という髪型に結う姿も見られます。
   兒も法会などで舞を奉納する場合は舞装束に下げみづらを結いました。
■十一~三歳頃から遅くても十六、七歳■
  ◆理髪加冠(加笄)
   元服の儀です。男児は髻を結います(余分な髪は切る)
   この時女児は仮に髻を作り(髪上げ)、笄を挿します。
   これは上代の結髪風俗の名残です。
          また、裳を着け始めます(裳着)

(おまけ)
◆女子は十六歳ほどで、鬢批(びんそぎ)をします。
額髪(長く伸ばした前髪が顔の横に掛かっているもの)を、
肩から胸の高さで左右ひと房ずつ剪り揃えるものです。
許嫁者がいる場合はその男性が、居ない場合は父兄や後見人が鋏を入れました。
これより先に結婚している場合は、結婚後に鬢批をします。

ざっくりまとめると、こんな感じだと思います。
つづきに参考資料。


◆◇みづら祭の目次◇◆
全日本及び三千世界のみづら愛好家の皆様こんにちは。
只今みづら祭を開催中です。
 
今回は、埴輪みづらを描いてみよう!その3。
『種々(くさぐさ)の埴輪美豆良』をお送り致します。
 
【序】にて、古代みづらに以下のような種別を付けましたが、
これに沿って埴輪の髪型をピックアップしてみました。
古代のあげみずらさげみずら
 
 
(1)■上げ美豆良(附、下げ美豆良丙)

耳の横で髻(もとどり)を結い、
輪にしたり折り込むなどして元結で留め結び、髷の上下を突出させる形。
kusagusanohaniwa_01.jpg

古代みづらの代名詞とも言える髪型ですが、
埴輪で見てみると、必ずしも多数派というわけではないようです。
 
 ・小さくて簡素なもの(農夫や馬飼等とされる)
 ・大きく長く装飾的なもの(権力者や武人とされる)
 
とに分けることが出来ます。
…これ、兜?部分をすごく適当に描いてしまった(上に何かが混じった)のですが、
実際は本当にどうなっていたんでしょうね…。
よく見ると、下の部分は毛先が露出しているようにも見えます。

 また、造形の上で、顔の両脇に二つ山(分銅形)になったパーツを付けるものと、ただ四角をくっつけただけのものとがあり、ここでは、四角をひとつ髷…言うなれば上だけ美豆良?に見立ててみました。
もうひとつ、《下げ美豆良・丙》にあたるもの、上げ美豆良下部から毛先を垂下する形も、
他に例を見付けられなかったので、これに当てはめてみました。
うーーん…。これはちょっと無理矢理な気もしますが。
(もし下げ美豆良丙を結っていると思しき埴輪を御存知の方がいらっしゃいましたら、筆者までお知らせ頂ければ幸いです)
 
 
(2)■下げ美豆良・甲

髻をつくり、一度垂らした髪を上げて、毛先を巻き込んで結う、あるいは、何回か輪を作って結うもの。

種々の埴輪みずら ~下げ美豆良(1)

上げ美豆良よりもむしろこちらの方が例としては多いような気がします。
長さ、大きさ、結い方も様々。
大概が盛装あるいは武装なので、階級は上の方であろうと思われます。
 
形としては、結い上げる方法によって、
 
 ・髻周辺だけを結い、涙型に垂れているもの
 ・元結の紐を長く巻き付け、棒状にしてあるもの(椎髻/ついきつ)
 
などがあります。
埴輪によっては、ありがたいことに、結ぶ紐まで丁寧に形作られているので
これによって結い方のひとつをうかがい知ることが出来ます。
 
さらに、
 
 ・後頭部に束髪(或はもうひとつ髷をつくる)する形
 ・頭頂部で振り分けた前髪を表現した形
 
も、出土例があります。
ただ、後頭部束髪については、手元に集めた資料の中に埴輪の後ろ姿を見られる図版が少なく、
どれくらいの埴輪がこういった形をとっているのかは、確認できませんでした。
 
 …振分髪、でこですねw
下の方はかなり好き放題になってます…
 
ところで、王冠を付けてあぐらをかいているような形の埴輪。
衣の模様が、水玉に見えますが…。
…これを描いてみる勇気はありませんでしたw
 
 
(3)■下げ美豆良・乙

顔の両脇に髻をつくり、髪を長く垂下させる形。いわゆる、おさげ髪。

種々の埴輪みずら ~下げ美豆良(2)
 
 ・ほぼ無造作に束ねて垂らしているもの
 ・結紐を巻き付けており、甲型に似るが、毛先を露出しているように見えるもの
 
を持ってきてみました。
上の図では顔に丹(赤土)を塗りつけていますが、刺青とは違うようです。
刺青をした埴輪も見つかっていますが、それらは丹を塗るのではなく、顔面に直接彫りを入れて模様を刻み込んでいるので、区別がつきます。
『以朱丹塗其體、如中国用粉也。』[魏志/東夷傳/倭人]
 
ところで、
分銅形でも輪状でもないのに、みづらと呼べるのでしょうか?
実は、これら埴輪の髪型を『美豆良』とする根拠もである、古事記や日本書紀には、
 
『故刺左之御美豆良湯津津間櫛之男柱一箇取闕而。(中略)…亦刺其右御美豆良之湯津津間櫛引闕而。』
 [古事記/黄泉津比良坂の場面]
『巳而素戔鳴尊含其左髻所纒五百箇御統之瓊。』[日本書紀/神代紀]
 
 などとあって、左右に分けていることが知られるだけで、結い上げた形にまで言及はありません。
 つまり、左右二つ分けにさえしていれば、『美豆良』の要件は満たしていることになります。
 というわけで、おさげもみづらです。
 
 
おまけ■女性の埴輪
 
美豆良に絞って見てきたので女性の話題には触れていませんが
せっかくなので。

種々の埴輪みずら ~おまけ・女性埴輪
 
女性の髪型は、いわゆる「古墳島田」です。
後世の島田髷に似ているので、こう呼ばれます。
埴輪の造形としては、厚みのある板を頭の上に載せているような形が多いようです。
女性の埴輪は殆どが巫女のようで、基本的な要素も大概共通しています。
 
ところでこちらは特定の埴輪をモデルに描いたわけではなかったのですが
描いたあとに、なんとなく雰囲気の似た巫女埴輪の写真と遭遇したので入れてみました。
険しい表情……。
 
なお、額に巻いているのは「日陰鬘(ひかげのかずら)」というシダ科の植物です。
髪に植物を纏いたり挿したりすることについては、また回を設けたいと思います。

 
■まとめ
 
 
埴輪の美豆良とモデルの階級について、今回扱った資料の範囲内ですが、おおむね2説あるようです。

▲『美豆良の大きいものは上層階級』
▲『上げ美豆良は下層、下げ美豆良は上層階級』


というものです。
 
 前者は、盛装埴輪の多くが肩に届くほど、或はそれ以上に長く、美豆良を垂れていることから、容易に肯定できます。
ただ、製作上デフォルメが加えていること等も考慮に入れなければならず、
例えば、美豆良の大小比較によって厳密に地位の高低を計ることなどは困難だと思われます。
 
 後者について、確かに、馬曳、牛飼など職能民?とされる埴輪は、小さく簡素な上げ美豆良に結っていることが多いようです。
 活動的に生活していただろう彼等の美豆良が、簡便の用から何度も折り返して小さくまとめられ、上げ美豆良の形になるのは必然のことでしょう。
 位置から考えても、長くふっさりと美豆良を垂れていると、顔を勢いよく振るだけで痛いことになりそうです。
 しかし、支配階級と思しき様相の個体にも、上げ美豆良を結ったものが存在するため、必ずしもこうであるとは言い切れません。
 上げ美豆良か否か(上方への突起が有るか無いか)というよりも、
 むしろ、下垂部分の大小長短、結い方の装飾性を見るべきではないでしょうか。
 (つまり結局は前者と同じということになる)


 埴輪を見てみづらの様子を想像するのはとても楽しい作業でしたが、ともすれば妄想があっちこっち暴走してしまうので控えめにしておくのが大変でした(漏れてるけど)
 ただ、帽子や兜、頭巾の類は、『どうしろと!?』というものが多く、そもそも材質が何であるか、帽子なのか兜なのか、いやもしかしてこれは固めて盛ったアップヘア…とさえ思えるものもあり、結局、筆者の力不足から多くを割愛してしまいました。悔やまれるところです。
 凡てのタイプの埴輪みづらを網羅しているとは言い難いですが、
とりあえずはざっと概観できたのでは いや、埴輪好きの方にはお叱りを受けそうですが。
 次回からは古墳時代から時を下っていきますが、
もしおもしろいみづらの埴輪があれば、また絵を描いてみたいな、なんて思っています。



おまけのボツ絵。

ボツみずら
みづら祭に古代みずらのことも書いてみよう、と決めたあたりに描いたもので
そのあと、埴輪とにらめっこすることを思いついたので、こちらはボツになりました。
正直、それ耳だろうって思う埴輪もありますよね。

初期鷹匠埴輪
だいぶ前に描いた鷹匠。
衣袴の初描きです。一応刀の柄とか凝ってみています。
籠手なしで鷹と戯れるのは痛そうです。


◆◇みづら祭の目次はこちら◇◆
 
参考資料:
「日本結髪全史」(江馬務/東京創元社)
「日本の美術23 結髪と装飾」(至文堂)
「ものが語る考古学シリーズ(6) 人物はにわの世界」(稲村繁、森昭/同成社)
「人物埴輪の文化史的研究」(塚田良道/雄山閣)
「もっと知りたい はにわの世界~古代社会からのメッセージ」(若狭徹/東京美術)

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