忍者ブログ
深度三,三三糎の心の海から湧き出ずる、逆名(サカナ)のぼやき。
 
*04
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
*03
*05
*New Articles*
----------------

 
今回は、日本と朝鮮の古代装束の領について。

hekigahaniwa_josei.jpg
 
 埴輪などの領を見ていて、盤領ではないのだが、方領とも言いにくいような気がしていた。方領(小袖類、いまの所謂『着物』の領のような)に似ているが真っ直ぐではない。首周りが丸く、襟が折れたり曲がっているからだ。
eri_kyokuryou.jpg

 で、古代日本と深い繋がりを持つ、古代朝鮮の装束について見てみると、『曲領』という言葉があったので(本来用途とは違う可能性もあるが)『曲がった領』という意味を頂いて、日本の埴輪や古墳壁画の装束の説明にも使ってみることにした。
 図にするとこうなる。→
 
 方領が斜めに下りていかずに、曲がっているのがお解り頂けると思う。
 
 まあ、ささいな違いではあるのだけれども、浴衣とVネックのカーディガンくらいは違うかな…と思う。
 何故、ここにこだわるかというと、和様の方領(直領)の装束の出現時期というものについて考える時、礼服として取り入れられた感服の方領か、この曲がった領のどちらか、或いは両方から派生したと考えるのが自然だと思われるから、そこのとこは細かく見ていきたいのだ。
 
 まず、高句麗時代の『双楹塚古墳』の壁画(5世紀末)から見てみよう。
 双楹塚古墳は、世界遺産高句麗古墳群のうちの一つで、現在の北朝鮮南浦特級市に位置する。内部に特徴的な二本の八角柱があるため『双楹』と呼ばれる。
 ここでピックアップしたのは群像中の一人で、次に挙げる女性埴輪と比較するために、頭上結髪・鉢巻き状の布・上衣下裳のものを選んだ。
hekiga01.jpg
 
 『襦』と呼ばれる筒袖の短衣で、後の『チョゴリ』の原型といわれる。Y字になった襟が、内側にカーブを描いて曲がっている。胸の中央で裁断され、衽はなく、襈(セン/襟や袖、裾にめぐらせた別色の布や刺繍の縁飾り)の分だけで重なっているように見える。
確認しづらいが、おそらく左衽である。
袖に隠れた腰の帯は別の人物像から推測した。
 赤い襈のある内衣が襟元と袖に見えている。
 下半身には裳をまとう。別の絵には、丈を長くした袍を着たり、腰裳(裙)を付けたり、裳の下から筒袴が覗くものもある。
 髪型は、二本の三つ編みを頭上に巻き付けた『オンジンモリ』で、成人女性の結髪である。三つ編みにしないでそのまま巻き付けることもある(絵からは編んでいるかどうか確認できなかったが、三つ編みにした)。少女時代は三つ編みを垂らし、大人になると結い上げる。この風俗は長く続いた。
 頬の赤い丸は頬紅だろうか、丹だろうか。日本の埴輪にも、頬が赤く塗られたの女性埴輪がある。ぱっと思い浮かぶのは、群馬県太田市、塚廻り4号墳のほっぺちゃんだ。


 
 次に、日本の女性埴輪(6世紀)から見てみよう。群馬県横見から出土し、現在は東京国立博物館所蔵となっている盛装した女性の埴輪である。e国宝で高精細画像を見ることが出来る。→【e国宝】
 
haniwa01.jpg
 この衣は、襟元は丸首で、中央で交わり、胸紐で一回結び、左へ斜めに流れ、脇でもう一度紐を結んでいる。
 帯の表現は無いが、横から見ると腰から下げ物をしているらしいので、省略されているか、これが腰帯の結び目なのかも知れない。
 胴体の下部から鱗模様(或は青海波)、腕には一部縦縞が刻まれているのが確認できる。女装で青海波というと、采女装束なども思い浮かぶ。鱗模様は胸あたりまでなので、織り模様ではなく筆で描いたり摺り入れたものかも知れない。縦縞は模様ではなく、生地の表現の可能性もある。
 肩口に線が入るのは、生地の切り替えか、袖無しの上衣の下に長袖を着ているという表現なのか、または襷掛けか、襈なのかも知れない。
 袖は細めの筒袖で、手珠が見える長さ。
 襈は襟にはなく、袖口と裾につく。或はこれらも模様か、内衣の袖裾ともとれる。
 同様に、絵では腰裳(裙)と裳、下裳の組み合わせとしたが、一枚の裳の模様や切り替えともとれる。
 アクセサリーも豊富で、まずかずら(鉢巻き。縵+草冠)、大小の耳環で耳が重そうだ。首、手首にも珠飾り。
 頭上で結い上げた髪はいわゆる『古墳島田』で、元結の前頭部左寄りに櫛を挿す。
 かなりの盛装で高位の女性と思われるが、いわゆる袈裟状の布や襷、鈴や鏡といった付属品が見られないので、巫女ではない可能性もある。
 なお彩色はほとんど想像というか妄想でやってしまったが、これが合っているかどうかはともかくとして…土色や生成、紅といった簡素な色合い以外で塗るのは結構勇気が要ったけれど、同時にとても楽しかった。

 
 次も日本、高松塚古墳壁画女子群像(7世紀末~8世紀初)から。かなりよく知られたものだが、改めて見てみると、腰帯の位置がかなり低かったりと面白い。顔部分など欠落が激しいので、他の人物像などを参考にして加筆した。

hekiga02.jpg
 描かれているのは女官とされており、『日本原色服飾史』に、朝服の袍と書いてあるのに倣って、ここでも袍とした。ということはもう少し裾を長くしても良かったのかも知れない。
 襟首は狭く、喉元で紐を結んでいる。内衣は着ていたとしても襟元からは見えない。
 腰に紐はなく、かなり低い位置で帯で結んでいる。曲がり方は高句麗の例に近くゆるやかである。
 襟に飾りはないが、折り返しか同色の布でつけられている。下部には襴の切り返しがあり、確かにのちの官袍への発展を窺わせる。
 襟口に別の色が見えるが、襈か、内衣の袖口かのどちらかであろう。
 袍の裾から見える襞は、襈或は内衣とは別の色なので、腰裳(裙)かと思われる。美しい縞模様の裳裾には、細かい襞の裾飾りか、下裳の裾が覗く。
 髪型は前髪をひと房結って後ろへ流し、まとめて結い、毛先をあげてもう一度結っている。元結にはきっと櫛を挿したのだろう。『束髪』と書いたが、単に束ね髪といった意味で、『日本結髪全史』でも便宜上つけられたものである。時代はかなり下るが、江戸前期の菱川師宣の画にはよく似た結髪が描かれている。


■まとめ
  というわけで、「まっすぐじゃないよ、埴輪とかの襟はまっすぐじゃないよ!立て襟っぽく見えるけどそうでもないし」という筆者の主張は伝わりましたでしょうか。
 もうひとつ気になることといえば、埴輪の衣服には高い確率で付いている、襟の紐。これが、古代朝鮮には見付けられなかったという点です。今のチョゴリは襟の帯紐が特徴的だから、むかしからあるんだと思ってしまってたのですが。紐をつけるのが、当時の日本でなされたことなら、その意味は?気候、生活環境、生地の事情?ひも大好きだったとか(笑)結ぶ、ということが呪術的行為であったから?色々考えられそうです。
 また、古代から朝鮮で(中国でも)これでもかこれでもかと飾られた襟や袖の飾り縁、襈が日本では見られなくなっていくのも気になるところです。
 
 あ、三人並べても、長袖ロングスカートしか共通点なさそうだと思ったそこのアナタ!前回記事に使った深衣のお嬢さんと比べてみて下さい。↓ やっぱり直領とはちょっと違うでしょう。袖も、肩口が細いんですよね。筒袖や日本の大袖は四角ですが。
eri_01_02.jpg
 
 また、古代朝鮮国家は、ツングース系などの北方騎馬民族にルーツのひとつがあるとされ、遠くシベリアのアルタイ文化との共通点が指摘されています。
siberia.jpg(図)サカ(スキタイ)の遺物から。イシク遺跡の黄金のベスト、チャストゥイエ古墳群の壺絵の男性。
 とりあえず襟元はY字ですねー。
 
 確かに朝鮮半島との繋がりは感じるんだけど(とんがり帽子とか)日本との繋がりは、少なくとも服飾面ではあまり…。まだ掘り下げる必要があるのかな。
 日本人騎馬民族由来説というのもありますが、個人的には直接にではなく、騎馬民族の子孫である朝鮮の人達の影響を受けているんじゃないかと思います。

 似ているところも違うところもあるねえ、って並べてみるだけでも楽しいですよね。
 前回のように、朝鮮の服飾文化もまとめられるといいのですが、まだ力不足でして(ハングルがさっぱりだから…)いや!いつかは!


【おまけ追加】未使用らくがきから、古代女性の髪型
omakemage.jpg
古墳島田は、丸型と角型があります。位置は頭上が多いですが、後頭部に結ったものも。すこし前髪を立てて、のちの結髪のように前髱(まえつと)を作っているように見えるものも。
授乳してる女性の絵は、『乳飲児を抱く埴輪』(ひたちなか市黄金塚出土)を参考にしました→【ひたちなか市の文化財の紹介】
巫女や、位の高い女性とされるものより、髷が小さく結う位置も低くて、庶民の女性の髪型とか、子育て中(分娩後とか?)はこんな風に結いやすく楽な髪型にしていたのかも、と窺えて貴重な例です。高松塚のものとも似ています。


■附:『曲領』について

古代朝鮮…よりもっと古い国に関する記述として、「魏書」に
 
『言語法俗大抵與句麗同、衣服有異。男女衣皆著曲領、男子擊銀花廣數寸、以為飾。』
(魏書/東夷傳/濊)
 
濊国の『男女の衣は皆曲領である』とある。濊(ワイ)とは、紀元前2世紀頃から中国東北部に存在したとされる、高句麗・夫餘(百済の前身、扶餘とも)のもとになった種族のひとつで、近しい種族の貊(ハク)とともに濊貊と書かれることが多い。ツングース系との説がある。
 
「舊唐書」音楽志には、高麗楽・百済楽の記述中に、
 
『高麗樂、工人紫羅帽、飾以鳥羽、黃大袖、紫羅帶、大口袴、赤皮靴、五色縚繩。舞者四 人、椎髻於後、以絳抹額、飾以金璫。二人黃裙襦 、赤黃袴、極長其袖、烏皮靴、雙雙並立而舞。樂用彈箏一、搊箏一、臥箜篌一、豎箜篌一、琵琶一、義觜笛一、笙一、簫一、小篳篥 一、大篳篥一、桃皮篳篥一、腰鼓一、齊鼓一、檐鼓一、貝一。武太后時尚二十五曲、今惟習 一曲、衣服亦寖衰敗、失其本風。
 百濟樂、中宗之代、工人死散。岐王範為太常卿、復奏置之、是以音伎多闕。舞二人、 紫大袖裙、章甫冠、皮履。樂之存者、箏、笛、桃皮篳篥、箜篌、歌。
此二國、東夷之樂也。』
(舊唐書/音樂志/東夷之樂)
 
 とあって、高句麗・百済の楽人が上衣として『襦』を着用したとあるが、
楊雄「方言」には、
 
『襦、西南蜀漢、谓之曲領、或谓之襦。』(方言/巻第四)

 とあって、襦とは曲領である、とする。
 但し、「釋名」には
 
『曲領 在内、以中襟領上、横壅頸其状曲也。』
(曲領、内に在り、以て襟領の上に中す、横に頸を壅ぐ、其の状、曲なり)

とあって、内衣であると書いてある。或は、「宋書輿服志」などに
 
『其制、曲領大袖、下施橫襴、束以革帶、幞頭、烏皮鞾。 』(宋書/輿服五)
 
 とあって、職官の公服における盤領の同義語としても使わている。
 或はまた宋代以降の官服には『方心曲領』という、大きな円に小さな四角をつけ、円の部分を首から掛ける特殊な襟飾りがある。
 更に、詳細は不明だが、日本の武官礼装に用いる肩当てのようなものが『曲領』と云うらしい。
 
 よって、この用法は誤りかも知れないが、ここでは盤領・方領と区別するために敢えて使用した。


 
【参考資料】
 
▲「韓国服飾文化の源流」(金文子・著/金井塚良一・訳/勉誠出版)1998
▲「韓国服飾文化史」(柳喜卿・朴京子/源流社)1982
▲「日本結髪全史」(江馬務/東京創元社)1960再版改訂
▲「原色日本服飾史」(井筒雅風/光琳社出版)1998増補改訂
▲「古代の装い 歴史発掘(4)」(春成秀爾/講談社)1997
▲「人物埴輪の研究」(稲村繁/同成社)1999
▲「ものが語る考古学シリーズ(6) 人物はにわの世界」(稲村繁、森昭/同成社)2002
▲「もっと知りたい はにわの世界~古代社会からのメッセージ」(若狭徹/東京美術)2009
 
字典
▲【漢典】http://www.zdic.net/
原文テキスト検索・出典
▲【中央研究院 漢籍電子文獻】 http://hanji.sinica.edu.tw/
▲【中國哲學書電子化計劃】http://ctext.org/fang-yan/zhh

 
PR
中国/日本の装束について調べていると、よく「盤領袍」「方領衫」などという分類名を見かける。ので、まとめてみた。
今回は、中国の漢服と胡服の領はどんなものかを見ていこう。
 
◆今回の要点◆

■中国の時代装束(と、それに影響された日本など周辺諸国の装束)の領(襟)は、大きく二つの型に分けることが出来る。
   ・方領(四角く細長く、真っ直ぐ伸びた襟)
    これには、交領・直領(対領)・短領 がある。
   ・盤領(丸く曲がり首まわりを囲む襟)
    盤領、衿幅が広くなった大円領、立領 がある。
 ■方領は漢服の伝統の型、盤領は胡(北方騎馬民族)の風俗の影響を受けたものである。
   ・漢服の特徴→右衽の方領襟ぐりや袖はゆったりしている。裾が長く足を出さない。「上衣下裳」といって、上衣に裙(裳。スカート)を巻き、幅広の布の帯を締める、もしくは袍などの長衣。優雅だが活動的ではない。
   ・胡服の特徴→左衽の襟の詰まった盤領が多く、袖は細めの筒袖。「上褶下袴(褲)」といって、裾は腰から膝丈で、股のある袴(ズボン)を穿いた。また、盤領袍もあった。衿は盤扣(紐ボタン)で留める。漢服の袍よりは細身である。脛巾を巻いたり革の長靴(ブーツ)を履いて革のベルトを締める。騎馬に適した動きやすい服装。
 ■胡服は春秋戦国時代から漢服に少しずつ影響を与えていた。
  北魏の初め、官服に胡風の盤領袍が採用され、隋唐以後の王朝もこの風に倣った。
 ■漢人は右衽(右前)の装束を着、左衽(左前)は蛮夷の風としていた。
  そのためもとは左衽だった胡服も、漢人に受け入れられるとき右衽に直された
 
 これだけ書いても済むことではあるのだが、折角だから漢服と胡服のあらましもまとめてみようと思う。
            eri_00.jpg
eri01.jpg
eri02.jpg


 
◆漢服について
 漢服とは、中原を統べ『華夏』を自称した人々、いわゆる『漢族』が伝統的に着ていた衣服である。
 
 漢服の特徴は、男女共に、襟(衿、領)があり、裾・袖のゆったりとした衣に、帯を締めることにある。
 襟は方領、右衽(ウジン)で、多く袖は古くは太めの筒袖、のち大袖、裾は末広がりで膝下丈~地につくほど長く、下に裙子(巻きスカート。裳/ショウ)や袴(股のあるはきもの。ズボン)を穿き、足は隠す。
 
◆漢服の方領eri_01_01.jpg
 漢服の領はどれも方領(方=四角)で、左右の衽(おくみ)を交叉させる『交領』、交領の襟を短くし、紐で留める『短領』、そのまま真っ直ぐに垂らす『直領』(または対領)などがあった。また、襟を広く(太く)したのを『大衿』という。衿は別布で仕立てられたり、綾織の縁飾りや刺繍で飾られた。
 また、内衣の襟を広くして首周りをやわらかく包んだり、義衿をつけることもあった。絵画などで、上衣の襟から溢れるようにはみ出している白い内襟がよく見られる。
 大きく分けて、襟付きの『衣』(丈は腰から膝当たりまで)に『裙裳』を合わせて帯を締める『上衣下裳』(「衣裳」の由縁)つまりツーピーススタイルと、『袍』『深衣』など長衣を着るワンピーススタイルがある。
 
eri_01_02.jpg◆【深衣】
 深衣は、春秋戦国時代からあった装束である。ひとくちに云うと、上衣と裙を腰で縫い合わせたもので、腰から下の幅を広くして(衿または衽を延ばしたとも表現されます)腰に巻き付けるように着る。深く覆う衣、という意味でこう呼ばれ、一枚の衣でも裾にたっぷりと余裕を持たせることが出来た。 これは、股のある(両足を別々に包む)袴がまだ無かった頃に、足を露わにしないために施された工夫である。そのため、股つきの袴を穿くようになった男性は深衣から袍にうつり、魏晋時代には引き続き裙を穿いた女性だけが好んで着るようになっていた。
eri_01_03.jpg
 
◆【袍】
 袍も太古の舜王の時代からあったと云われるほど古いものとされた。その字義は『体を包む衣』、裾の長い上着というほどの意味で、様々な型があった。深衣も広義では袍に含まれる。また、長衣の衫を上衣として着ることもあった。袍と衫の違いは、袍が筒袖、衫が大袖であるという点。袍衫というときは、だいたい大袖の袍という意味のようだ(ややこしい)。
 また、上衣の下に着る内衣は、長袖の衫半袖の半臂襟や袖のない裲襠(リョウトウ)などを用いた。

eri_01_12.jpg◆【上衣下裳】~礼服・襦裙
 上衣下裳の方が長衣より格式は上とされ、帝王が用いる『冕服(ベンプク)』や諸官の『冠服』などの礼服(ライフク)はこの様式である。
 挿絵の『玄端(ゲンタン)』も礼服のひとつで、冕服の等級が下がったもの。現代中国で古式の結婚式や卒業式などにも用いられている。
 だいたい膝までの丈の上衣に大帯と紳を締め、蔽膝(ヘイシツ。前掛け)を垂らし、帯鉤や帯から下げる飾り(佩飾)を用いる。礼服以外では、『襦裙(ジュクン)』が一般的であった。下に衣を着て、丈の短い襦を掛けた上から裙を巻いて帯で締める。
 上衣下裳は男女ともによく用いられたが、とくに女性では着方が時代によって大きく変わった。挿絵の唐代の女官は、裙を胸まで引き上げ、ここでは衫を着て帯で締め、襟は大きくハート形にくつろげて、首に飾った宝飾品を見せている。唐代の多彩な流行ファッションのうちの一例である。
 襦裙の上から紗(うすもの)で仕立てた半臂(ハンピ。半袖)や衫(サン。長袖)などを羽織ったが、帯で留めることも、そのまま羽織って裾の両端を結んだりすることもあった。また、披帛(ヒハク。披領、帛巾、ストール)を肩や首に掛けたりもした。
 上衣下裳にせよ長衣にせよ、全体的にくつろいで余裕があり、ひらひらと風に翻る袖や裾はきわめて優雅だが、反面ずるずると動きにくそうで、確かに軍装には不向きであったろうと思われる。
eri_01_04.jpg

◆漢服の伝統は引き続き…
 隋唐を経て男性の官服は盤領袍になったが、普段着としては漢服も着られていたようである。
だが、ひらひらと袖裾をなびかせる漢服の伝統を守っていったのは主に女性だった。
 唐代の女性服では肌を露出した着方も流行したが、宋代に入ると露出度は低くなった(というより、元に戻ったと云おうか)この頃の女性が着ていたのは襦裙を基本としたもので、宋代の女性服の特徴は『背子(ハイシ)』である。男性も着たが女性の着用例の方が多かった。対襟で、筒袖と大袖があり、帯やボタンで留めずにふわりと羽織るもので、丈は膝下、膝上、くるぶしまでと、何タイプかあった。カーディガンのようなものだろうか。袖のないものを『背心』といった。
 また、裏地付きで綿入りの上着(袷)もつくられ、衫はこれに対して夏用の単衣(裏地がない)の
薄物とされるようになった。裙の下に下着としてズボン(褲)や膝丈のドロワーズのようなもの(膝褲)を穿いたり、纏足した足を保護する絹の靴下もあった(纏足は唐末からの風俗)
 明代になっても少しずつ形は変わっていったが、それまでの襦裙と基本的には変わらなかった。清代になると、八旗(満州族の貴人)以外の漢人の女性は引き続き漢服を着ていたが、すこしずつ満州族の風俗と混じり合って変化していった。
 その後は西欧化や国家体制の変化に押されて姿を消していくことになるが、日本と同じように、結婚式や卒業式など、人生の節目で伝統衣裳を着ることは行われている。

 
次に胡服について見ていこう。
 
eri15.jpg◆胡服について
 胡人とは、前述した通り、華夏の民から見た異民族のことであるが、胡服とは、具体的には匈奴や鮮卑、突厥などの北方騎馬民族の衣服を指す。戎服などとも記された。北魏の初めに朝廷の官人の制服に定められて以降、各王朝の官服は代々、胡服の系譜を引くことになった。
 
 胡服の典型的な特徴として、上衣の丈は短く、裾は膝から脛あたりまで、袖は細い筒袖、男性は足を別々の場所に入れる穿き物(褌、褲、袴などと呼んだ)を穿く。漢服に比べると活動的なつくり。
 革のブーツ(六枚の革を合わせてつくることから、『六合靴/鞾』という)を履き、革の帯を締めた。
 もともと、革帯には穴を開けて、小刀や小物入れや筆入れや火打ち石や護符などを下げていたが、この穴を補強するために、玉(ギョク)や金属の飾り板(銙)を付けた。のち盤領袍が漢服になると、官位によってこの革帯の銙の素材や数に差を付けた。
 
◆胡服の盤領
 襟は盤領(バンリョウ=丸襟、円領とも)が多く、他に直領や対領、衿無しのものもあり、左衽であった。盤領の襟は狭く喉元まで詰まっており、組紐や細く裂いた布などを結んで玉を作ったものと、輪を作ったものを襟に付け、玉を輪に嵌めて留める、つまりボタン式(盤扣/バンコウ)
 盤領を緩める時は、衿を折り返して着た。これを「翻領」という。
(ちなみに「円領衫」で画像検索すると、丸首Tシャツ画像が大量に引っ掛かる)
 
◆胡服への抵抗感
 日本人には中国王朝の興亡の激しさは少し分かり難いところだが、とにかく漢民族といっても多数派だった訳ではなく、いつも中原の覇者だった訳でもない。とりわけ手強かったのが北方の騎馬民族で、時には不倶戴天の敵として争い、勝って版図を広げ、敗けて覇権を奪われ、また時には宥和策をとり交易していた。
 漢人にとって、胡人が単に野蛮な異民族というだけでなく、手強い仇敵でもあったため、利便性はあってもその風俗を受け容れることには当初、抵抗があった。
 
『史記』に、春秋戦国時代の趙の武霊王(?~BC295)が、胡軍に勝つため騎射胡服を採用しようとした時の故事が記されている。
 このときの趙軍は馬が牽く戦車に載り、将兵は皆、かさばる長袍を着ていたため動きが鈍かったので、身軽な短衣に袴、革靴(または脚絆)姿で、馬上から弓を射てくる胡軍の軍装を取り入れようとしたのであった。が、武霊王は臣下の肥義に、このことが余人の顰蹙を買い嘲笑されるだろうがどう思うか、と相談を持ちかけている。
 
『…今吾れ将に胡服騎射を以て百姓(ヒャクセイ)に教えんとす、而して世必ず寡人(カジン=己の謙称)を議さんが、奈何(いかん)。』(史記/趙世家)
 
 結局、世間にどう思われてもやるぞ、と導入に踏み切るのだが、漢人に胡服への抵抗感があったこ
とがわかる。
eri_01_05.jpg

◆胡服の影響を受けた漢服「上褶下袴」
 この時は胡服の一部が軍装に取り入れられたのみだったが、時代を下るにつれて、動きやすい胡人の服装が漢人、主に庶民の間に広まっていった。
 魏晋以来の、褲褶(コシュウ)つまりズボン(褲、袴)に丈の短い上衣(褶)を合わせたスタイルは、軍装や旅装として定着していった。裲襠(リョウトウ)という、貫頭衣を前後身頃に分けたような、衿や袖がなく肩や腋を紐で結んで着たチョッキのような上着などが、胡服の影響を受けたものとして挙げられる。裲襠は身分の高い女性が襦裙の上から羽織ったり、身頃を金属でつくって裲襠鎧の原型にもなったり、いまのタンクトップや金太郎の腹掛けのような下着にもなった
 また、革のベルトやブーツの使用も広まった。
 
 
◆胡服、官服となる(盤領袍)
 
 漢人は周辺の他民族との衝突を繰り返しながら彼らの風俗を少しずつ受け入れてきたが、南北朝時代、鮮卑族の拓跋氏が北魏を建てると、続く東魏・西魏・北斉・北周政権下で、習俗の胡化と漢化が繰り返された。
 北魏の初め、胡服である盤領袍衫(円領、団領とも)が百官の常服・朝服に定められた。再び中原の覇権が漢人に戻った後も、隋ではこの制を改めなかった。煬帝(569~618)は外征の際、従う臣下に胡服を着させたという。
eri_01_08.jpg

『隋の煬帝游幸す、令臣皆戎服を以て従う』(朱子語類/礼/雑儀)

 さらに唐もこれを踏襲し、以後官服は胡風の盤領袍と定まった。このあたりの事情は、王国維(清末、1877~1927)の「胡服考」に詳しい。(※記事末尾に原文を載せる)
 
◆胡風の流行
 唐王朝は西北の突厥、東南の靺鞨を平らげ、西南の吐蕃、南の南詔を監督下におき、安寧と物質的な豊かさを手にして、歴代王朝でも稀有なほどの文化的繁栄を実現した。西胡はこの時代、仇敵ではなく貿易相手となり、抵抗感が薄れたこともあり、万事において胡風が巷間を席巻した。
 もっとも唐代の「胡」とはとにかく範囲が広く、北西の異民族はもとより、葱嶺〈パミール〉以西の諸国諸民族〈インド=梵または天竺以外〉という、西域全般を指したので、ここで紹介したものも、多彩な流行のひとつの典型に過ぎない。

 
horenxu_s.jpg
 挿絵の吐蕃人は、閻立本(えんりっぽん/唐初の宮廷画家、?~673)の《歩輦図》を参考にした。官服は無地あるいは官制に即した文が入れられたが、元来の胡服は連珠文と呼ばれるパターンを特徴とする。
 
 >…この絵の連珠文はやけにファンシーだが。(だからつい描いちゃったのである)
 
 
 唐代の詩人にとって、胡風の流行は格好の題材となり、多くの詩が残されたが、その中から中唐の元稹(ゲンシン/AD779~831)の詩を見てみよう。
 
「(前略)
 …胡騎煙塵起こしてより、毛毳腥羶(モウゼイセイセン)、咸洛(カンラク)に満つ。
 女は胡婦と為りて胡妝(コショウ)を学び、伎は胡音を進めて胡楽を務む。
 火鳳の聲沉(しず)みて咽絶多く,春鶯は囀を罷(や)めて蕭索長し。
 胡音胡騎胡妝と、五十年来紛泊を競う。」
(新題樂府十二首/法曲:元稹)
 
訳:『胡軍の騎馬が土煙を巻き起こして来襲してから、毛織り物と肉料理(もしくは毟った鶏の羽毛と生臭い獣肉?)が長安と洛陽の都に満ちた。
eri_01_09.jpg
 女は胡人の妻となって胡風の化粧や服飾を学び、楽人は胡の楽器や奏法を取り入れて胡楽を奏でる。
 火鳳の声は沈み、息も絶え絶えに咽び、春鶯も囀りを止めてしまい、もの寂しさが漂う。(火鳳舞は魏の、春鶯囀は唐の著名な歌舞の曲名。『洛陽伽藍記』『教坊記』『唐會要』などに見える。つまり、華夏伝統の楽が胡楽に取って代わられたことの隠喩である)
 胡の音楽と、胡の馬と、胡の装いとが、五十年来隆盛を競っている。』
 
また、『旧唐書』輿服志にも、

「開元の初、宮人の駕に従いて騎馬する者、皆胡帽を著し、靚粧(セイショウ)して面を露にし、復た障蔽無し。士庶の家、又相倣效(ホウコウ)し、帷帽(イボウ)の制、行い用いずして絶ゆ。俄かに又髻を露にして馳騁(チテイ)し、或は丈夫の衣服靴衫を著す有り、尊卑內外にして,斯く一貫す。(中略)太常の楽は胡曲を尚(たっと)び、貴人の御饌、供するに胡食に尽く、士女は皆胡服を衣(き)竟(お)う、 故に范陽に羯胡の乱有り、好尚の遠ざかる兆(きざし)ならんや。」(旧唐書/輿服志)
 
訳:『開元年間の初め、宮廷女官で貴人の駕の行列に加わって騎乗するものは、皆細身で尖った胡帽をかぶり、化粧をした顔を露わにしている(古い慣習では、貴い女性が外出する時は顔を覆った)。士人や庶民の階級でもこれに倣い、帷帽制は誰も行わなくなって自然と絶えてしまった。流行に乗って髻をさらして馬で駆け、夫君の服や靴を着る婦人が身分の上下を問わずいる。(中略)太常寺では胡楽を珍重し、貴人の饗宴では胡風の食事ばかりが供され、士人も女人も皆一様に胡服を着ている。こうした胡風好み、風俗の乱れが范陽での羯胡の乱を招いた。これが流行の衰える兆候となったものであろうか。』
 
 などとある。この記事では特に女性の胡服着用について注目している。胡服を着て胡帽を被り、あるいは結い髪を露わにして、颯爽と馬に跨っていた女性達がいたようである。本来胡服は男性の服装で、夫の官服を借りて着ていた夫人もいたというが、これは朝官の妻という身分ある女性が(夫公認で?)男装していたということだから、なかなか興味深い。
 こちらの挿絵を描くときに参考にした復元衣裳の写真は、色柄からして女性向けに仕立てられたものだった。元稹の詩には「五十年来」とあり、胡服が女性達の間で普通に着られるようになって、女物も作られていたのなら、その頃には男装という意識も薄れていたのかも知れない。
 
◆盤領その後~団領袍衫・旗袍・チャイナドレスeri_01_07.jpg
 一時の爆発的なブームが収まってくると、今度は胡服にも漢服化が見られた。裾が広くなり、文官と武官とで裾の形が変わり、とくに文官の盤領袍は裾が長くなった。また襟ぐりが広くなり、内衣の襟を見せるようになった。
 宋、明と次第に襟が広くなり、円盤のような形になった。(大円領とも)明代には、袍の胸と背に「補子」という刺繍を施された布をつけ、この袍の色と、補子の色と刺繍の図案によって官位をあらわすようになった。
 李氏朝鮮の朝服はちょうどこの頃の中国の服制を採用しているので、韓国の歴史ドラマで多く見かけるのはこのような団領(團領)袍衫である。
 清を建てたのは北方騎馬民族の系譜に連なる満州族(女真族)の愛新覚羅氏であったが、このときの漢人(及び蒙古族や南方の少数民族)への同化政策は苛烈であった。剃髪易服政策は漢人の激しい反抗にあった。もっともこの場合より拒絶されたのは剃髪(辮髪)で、漢服を改めるほうはそれに比べたらまだマシということだったようだ。

eri_qipao.jpg 満服の特徴は、立領、チャイナカラーの旗袍(キホウ。チーパオ)や長袍と呼ばれる長衣だ。これも分類の上では盤領である。(喉元から真っ直ぐに分かれている型の場合は対領に分類されることもあるし、襟が「無い」と書かれることもある)紐ボタンで留めるのも、袖が長く細いのも、胡服の系譜を継いでいる。
 挿絵の旗袍は、襟ぐりの広い盤領袍の下に立襟のついた領衣を着るタイプである。領衣を着ない(立襟がなく、広い丸襟の上着だけを着る)スタイルは、女性に多かったようだ。唐代の盤領はまだ男装や一時的な流行だったが、清代になって本格的な盤領の女性服ができたことになる。衿を留める紐ボタン(盤扣)も、花を模した華やかな飾り結びで作られるようになった。
 これははじめ満州族に強制された風俗ではあったけれども、王朝が倒れ、辮髪が消えたのちも、中華民国では清式の袍が引き続き着られ、長袍に西洋式のズボンや帽子、眼鏡や革靴、ステッキなどを合わせたスタイルが紳士の間で流行した。
 旗袍もいわゆるチャイナドレスのスタイルに改良された(改良旗袍)。余談だが、中山服は清式の伝統に沿ったものというより、日本の学ラン(つまり西洋式の詰襟)を元に考案されたらしい。


おまけ的な…
◆右衽と左衽
 領の話と云えば、右前か左前かというのも、しばしば問題になる。

 おっとその前に、ややこしいので一度整理して置こう。
 右衽(右前)というのは、右の衽を上前にするということではなく、
 相手に向かって右が上前になる つまり実際は着る人の左手側の衽が上前になっている。
 これは、「右衽を先に体に付ける」「右衽を(懐の)中に入れる」から右衽、だそうだ。

 さて、漢服の領は右衽、胡服は左衽、それゆえ右衽は華夏の風、左衽は野蛮な戎夷(えびす)の風とされた。
 いわゆる華夷思想というやつである。
孔子の曰く、
 
「微管仲、吾其被髪左衽矣」 (論語)
『 管仲微(な)かりせば、吾れ其れ被髪左衽(さじん)せん』
 
春秋時代の賢相、管仲がおいでにならなければ、私は今、頃髻を放って髪を下ろし、夷服を左前に着ておったやも知れぬ」といったところ。被髪とは、冠帽や巾を被らず、髻(もとどり)を結わないこと。日本でも中古代までは被髪は成人男子にとって恥とされたが、その根も中国にあったのである。

◆なぜ漢人は右衽、胡人は左衽なのか。
 これは、「右を尊しとしたから」という説があるが、時代や地域で右左の尊重は入れ替わっており、「文官は右」「武官は左」を尊ぶ、という時期もあった(左右逆もあった)ようなので、どうも明確でない。
参考:【中国古代的尚左与尚右观念 百度文庫】

 左衽は死人の装束の合わせだから、というのは、日本でも同様だが、
 北京の病院で、お仕着せの病衣が左衽で物議を醸した、という最近のニュース記事があったので、現代中国でも生きている慣習らしい。
 ただ、いつから云われていることなのかは調査不足で解らなかった。

 または、胡人が騎射を行うとき、右肩を袒(ぬ)ぐから、左衽であるという。
 片袒にするときは、だいたい、上前をずらして肩を出す。
 つまり左衽だと、上前は右だから右袒になる。
 胡人俑の、片袒のものの写真が一点だけ手元にある、騎射ではなく馬を牽くところのようだが、右袒だ。
 【中国で復興した射礼の動画(Youtube)】を見てみると、右衽の漢服を着た射手は左袒。
 日本の弓道でも、左肩を片袒ぎにしている。
 そういえば、騎馬民族の弓手馬手は日本でいうものとは逆、というのを読んだことがあるが(「狩りと王権」斎宮歴史博物館図録)
 そうするとやっぱり袒ぐ方も逆なのだろうか。むむむ。

◆盤領袍の改良eri_01_11.jpg
 上に挙げた盤領袍の絵を再度ご覧頂くと、吐蕃と遼の袍は左衽、官服と男装の袍は右衽になっている。
 実は、胡服が官服として採用されてから、右衽に改良されたのである。
 服は導入しても左衽は受け容れられなかったのだろうか。そこまで左衽は拒絶されたのか、あるいは単に漢人には慣れていて便利だったから直したのか…。
 清代も、当初は左衽だったようなことが「中国服装史」には書いてあるが、太祖弩爾哈赤(ヌルハチ・1559~1626)、太宗皇太極(ホンタイジ・1592~1643)の肖像画や、遺品の袍の写真などを見てみると右衽、または対領になっている。太宗はくれぐれも漢人の風に染まるなと苦言を呈していた人物だが…(『太宗実録』崇徳二年四月項)。
 女真族で画像検索しても右衽しか出てこないので、明末あたりにはすでに漢化していたという事も有り得るのかもしれない。


◆おわりに
 幞頭などの記事を書いていた時、もしかしなくても首服だけ考証してもだめじゃないか?と思ったので、調べてみました。
とりあえずバストアップくらいは自信を持って描けるように…なるといいんだけど…。
 「盤領って皇帝の肖像画でも描かれているのに、漢服じゃなくて胡服だったんだ~」という点を非常に面白いと感じたこともこの記事を書く動機になった。やはり中国は多民族国家で、華夷華夷いいながらもこうして仇敵の風俗を受け容れている。面子は気にするけど実利主義という、中国のそういう処が私は好きである。

次回は日本の盤領(束帯、狩衣など)に続く予定。


ちなみにかなり今更な感じでpixivはじめました…。
簡易版まとめUPしています。(キャプションはtwitterでの装束個別紹介など)
絵だけでいい絵だけで、という方はどうぞ~。
 

前回記事はこちら:
唐代の幞頭とそのバリエーション
幞頭の基本はこちらでご覧下さい。

-taishisyouzou.jpg今回は、伝・聖徳太子像の幞頭を見てみます。

この絵は天武朝ごろのものとされ、
描かれているのが太子かどうかも判然としません。
装束も、推古朝のものではないでしょう。
日本のものではないのでは、という説もあるようです。

けれどもここでは、
「おそらく日本でもっとも認知度の高い幞頭」
としてこの絵を取り上げました。

少なくとも、「これが太子でもおかしくない」と後世の人が認識したということは、
高貴な姿であるということだし。

taishi_bokutou.jpg

太子の幞頭は…
  • 四つ脚の幞頭である。後頭部の脚は別布で、結脚している。先は剣先型か(のちの纓は円い)
  • 巾子を包む頭頂部分は先が垂れる。巾子は前傾屈曲していない=先まで身が詰まってない。
  • 平面的な布を折りたたんだと言うよりはやはり袋状になっているように見受けられる。
  • 前頭部はぴったりと頭に沿い、羅地から生え際が透けて見える。 (皀羅頭巾か)
 額際のM字の曲線は、軟らかい生地が額の凹凸に沿う表現であり、こうした形の広縁が合った訳ではないと私は思います。
 また、復元想像図によっては額部分の書き込みから羅を有文としているものがありますが、ここでは皺として扱いました。
 他に気になることといえば、なぜ結脚にしているのか。
 前回記事では「武官がこの形を好んだ」書きました。ただ好みによるもので、制度ではなかったようですが、のちに幞頭が冠に変わった頃には、文官は垂纓、武官は巻纓と分けられました。この絵が描かれた時代はどうだったのでしょう…。


養老律令の衣服令には、皀羅(くりのうすはた)の頭巾(ときん)、皀縵(くりのかとり)の頭巾、とあり、生地によって別があったことがわかります。
なお「幞頭」と「頭巾」とは区別が曖昧です。両方とも訓は「かうふり」だったりします。漆で固めて成型したものとそうでないもの、など、いろいろと使い分けの想像はできるのですが、どうもはっきりしません。単なる勉強不足かも知れませんが…。

『…一品以下。五位以上。並皀羅頭巾。(中略)初位。浅縹衣。並皀縵頭巾。…

皀羅も皀縵も、ともに絹織物で、皀色に染めたものです。

◆皀色
皀(くり)は『水底の泥土のような』黒で、涅とも書き、鉄分を含んだ土や、お歯黒に使う鉄漿で染めたようです。
(余談ですが、衣服令の条項には「烏皮履」「烏油腰帯」なども出てきます。
この「烏」も黒(カラス色)を指す言葉ですが、こちらは表面を黒漆で塗ったもののようです)

◆縵と羅
縵(縑)は固織り(かたおり→かとりの訛)で、通常の平織りで目を細かく詰めて織り、生地が固めになったもので、透けません。
羅とは、通常、平織りなどでは糸の組織が、経糸と緯糸で
  ++++++
  ++++++
と、並行垂直に組まれるものが、
  ─$─$─$─
  ─$─$─$─
のように、糸の一部を捩るもの(捩り織)で、生地は薄く、軽く、透け感があります。
捩り織には羅(ら)紗(しゃ)絽(りょ・ろ)などがありますが、羅はより複雑で、糸の疎密によって文様を織り出すことが出来ます。
ただすべて「うすもの」といったり、特に区別せずに使ったりする場合もあるようです。

羅の方が高度な技術を必要としますから、縵より上等の扱いを受けていたようですね。

【参照:養老令から 衣服令(表)】

ebukuryou_bukan.jpg
武官も描いてみました。
こちらの幞頭は、古い図像ではなく、NHK古代史ドラマの衣装や、復興された行事の写真や動画を参考にしています。

もういっちょ。御像の全身、腰に下げた物体に注目。
ただし横向きや「物が入る」とかはあくまで想像ですので悪しからず。

taishi_hukuro.jpg

衣服令の『袋』というのが気になっていて、『腰佩』でいろいろ見ていたら、
こちらのブログに辿り着きました。→ 【Avant d’oublier】http://bit.ly/16fobyY
腰佩じゃらじゃらの革帯…
石帯の銙(『か』。帯表面に並べて付ける小さな板。四角い『巡方(ずんぽう)』と円い(かまぼこ型)の『丸鞆(まるとも)』がある。 『石』の名はこれに由来する)
って、あんな風に下寄りに穴が開いてるのがなんとなく不思議だなあと思ってたんです。
もともとは革帯貫いて穴あけて、そこに色々引っ掛けていたんですねい。石が帯にあける穴の補強を兼ねていたのかな。

袋については、葛城市三ツ塚古墳から漆塗りの革袋が出土しているようです。
袋って、魚袋のことかとも思っていたんだけど、こっちのほうがわかる気がしますね。
魚袋は魚袋で、身分証明書みたいな札として提げていたようです。


【参考動画】

ドラマはNHKの古代史ものや、今年放送した「アテルイ伝」など。
動画はこちらの平城京跡での宮廷行事イベントなど。

◆【射礼 vol.2】
『2010年10月24日、平城宮跡で行なわれた、古代行事の再現「射礼」』
射礼披露は小笠原流の方がなさってます。

◆【北京鄉射禮
中国での射礼の再現。明代の儀礼書に基づく。
30分過ぎあたりからの第三射は八音(磬・鼓・笙・琴・瑟・簫など八種(八要素)の楽器)による伴奏に合わせて発射。
楽曲は『騶虞(詩経/召南編)』だそうです。
歌はこちらの動画には入ってなかったんですが。

こちらは『鹿鳴(詩経/小雅)』
古琴の弾き語りで。
あと、射手は「袒!」の号令で左肩袒にしてました。てことは交領が決まりなのかなあ。(司射は盤領で袖まくり)

◆【華夏禮射】
こちらはもうちょい簡略版で、マレーシアにて華僑団体によって再現されたもの。装束の時代設定は上の動画より古そう。
◆ 【2013年01月22日 - 華夏禮射 - 星洲网 圖話故事】
ニュース記事。
『弓は儒学生必須教養であった、六芸(りくげい/礼・楽・射・御・書・数 「御」は馬車を御すこと)のひとつ』

なお、これらの動画に関連して、「儒教思想の元での詩と政治の関係」「礼楽思想と雅楽」
などについて、twitterでふわーっとつぶやいたのの まとめ。
◆【『詩経 鹿鳴』から 平安貴族はなぜ歌を詠むか】

◆.【知猫楽 「詩経と律令と礼楽」】 (作成:賀茂史女さま)


【参考文献】(前回記事とあわせて)
▲「四天王寺開創一四〇〇年記念出版 聖徳太子信仰の美術」
  (大阪市美術館監修/東方出版)1996
▲「日本の美術23 結髪と髪飾」(橋本澄子編/至文堂)1968
▲「原色日本服飾史」(井筒雅風/光琳社出版)1998増補改訂
▲「有職故実大事典」(鈴木敬三監修/吉川弘文館)
▲「日本の色辞典」(吉岡幸雄/紫紅社)2000
▲「染と織の鑑賞基礎知識」(小笠原小枝/至文堂)1998

▲「花情曲-はなのこえ-」「恋泉-花情曲余話-」(皇なつき/角川書店あすかC-DX)1991
 唐代服飾資料としての価値も高い名作です。幞頭もいっぱい出てきます。
現在は合本で漫画文庫(潮出版 潮漫画文庫)、特装版(エンターブレイン B’s LOG C)が出ています。
 
更新ちょっと間が空いてしまってすみません~。
三月半ばに引っ越すので荷物と格闘してるところです。
やっと終わりが見えてきて
事務手続きも片が付いた感じでほっとひといき…。



「牛若丸の髪型」について検索されて
こちらへお運び下さった方がいらっしゃるようなので
94f58335.jpeg
[中古小児の髪風]のとき脇に描いて、そのうち色塗ろうと思って放置してたやつですが
とりあえず載せておきます~。(「結い方」ではないのであれですが…)

■唐輪(からわ)と兒髷(ちごわげ)
もとは若党(元服後~若年の武士)の髪型で、平安末期ごろから。平治絵巻などに見られます。
髻(もとどり)の末を片輪あるいは諸輪(もろわ)にまとめた髷。
のちに、寺院の兒(稚児=ちご)の髪型にもなり、
公家の若君の元服前の髪型(みづらよりは格が劣る)となり、
元結を高くして諸輪を美しく見せるようになっていきます。
さらに、女児の髪型のひとつに取り入れられ、
娘髷(この形は関西で好まれた)にも。
「兒髷(稚児髷)」などと呼ばれるようになりました。

ただ、平安末期に兒がすでにこの髪型にしていたのかどうかはちょっとあやしい。
『稚児観音縁起絵巻』(鎌倉後期)ではひとつ結びの垂髪、
『道成寺縁起絵巻』(室町初期)ではまだぺったりした唐輪です。
江戸時代ごろに描かれる牛若は確実に高元結の兒髷なんですが、
浮世絵などの、幼少の菅公とか愛護若とか、
『上・中古の貴種の若君』というざっくりしたカテゴリがだいたいこの髪型、っていう感じも。


・若党と兒が同じ髪型にしていたのはなぜか。

児には、寺の外から入ってくるものと、坊官(房官)の子息からなるものとがいます。
そもそも侍童を擁するっていうのはそれなりに位も上の僧侶じゃないと出来ない(扶持的に)ので
寺院の別当や、三綱、大寺院を構成する子院の主など、ということになります。
で、特に別当坊などについて、家政を担当する人達を坊官といいます。
摂関家などの政所みたいなもの。
妻帯、帯刀、在家の僧で、次第に寺院に定着して、世襲になっていきます。
侍僧とか、時代が下ると寺侍(てらざむらい)などとも呼ばれます。
でこの子息は幼少時は侍童になって、父兄と共に院主に仕え、元服すれば坊官になると。

義経の同母兄円済(乙若、源義円)も、園城寺の円惠法親王(八条宮)に仕える坊官になっています。
おそらく元服前は侍童をしていたのでしょう。

『常葉が腹の子供三人、年月をへしかば、長大にして、兄今若は醍醐寺にて学文し、出家して禅師公(ぜんじこう)全済となのりけり。悪禅師とて、希代のあら者なりけり。中、乙若は、八条宮に召仕われて、卿公(きやうのきみ)円済とて坊官にてぞ有ける。弟の牛若は、鞍馬の東光坊阿闍梨蓮忍が弟子、禅林坊阿闍梨覚日が同宿して、沙那王とぞよばれける。』(平治物語/牛若奥州下りの事)

彼らの場合は、源氏の棟梁の子息…ではあるけれど零落している、ということも考慮しなければなりませんが
武士-坊官-兒 の繋がりはこの例からも充分見いだせるのではないでしょうか。
武家の若党と兒は同じ階層に属するものたちで、年齢も近く、
髪型に共通点があっても不思議はないんじゃないかなーと思います。
ついでに、堂衆(諸堂に仕える平の坊さん達。大衆だいしゅ)だけでなく、
坊官も裹頭(覆面)武装すれば僧兵になります。

このあたりはもう少し掘り下げたいなーと思ってます。


関連記事リンク:
[みづら祭の序 (附目次)]
[中古小児の髪風]


参考文献:
▲「日本結髪全史」(江馬務/東京創元社)1960再版改訂
▲「中世寺院の社会と芸能」(土谷恵/吉川弘文館)2001
▲「続日本の絵巻20 当麻曼荼羅縁起・稚児観音縁起」
▲「続日本の絵巻24 桑実寺縁起・道成寺縁起」
 (共に、編集・解説:小松茂美/出版:中央公論社)
▲「新日本古典文学大系43 保元物語・平治物語・承久記」(岩波書店)
▲平治物語絵巻 三条殿夜討巻「ボストン美術館 日本美術の至宝」特別展図録(2012) 
**********************

先日書いた幞頭の記事に結構反応を頂きまして、おお~っという…。
ぼくとうったら地味に需要があったのね…!
引き続き、日本の冠などとの繋がりを調べています~。

daidai.jpg

大大論さんの幞頭。サイド想像図。

**********************

他らくがき投下しておきます。
housyukugo.jpg
迦陵瀕伽と鳳首箜篌(ほうしゅくご)。
廃絶した古楽器なので詳しいことは解りません。正倉院御物の復元は存在。
これは敦煌の壁画とかを見て妄想で描いてます…。
迦陵ちゃんと鳳首が鳥語でおはなし妄想だ!!
気分がくさくさしたときは好きなモノを描くにかぎる~~。

houkei.jpg
宝髻(ほうけい)。菩薩像などの髪型。(正確には頭頂部の髻部分の名前)
前髪よく見ると波打ってたりとかこうやって複雑な留めかたしてたり
鬢の毛を後ろへ渡したり、後れ毛を垂らしたり
ただアップにしてるだけじゃないんですよね~~~!!
もちろんみんな同じ髪型なんてことはないけど。
ああ すきだ すきだ だいすきだ!!!!
仏はパンチパーマだけじゃないんだぜ!!

eiisagyouchu.jpg
袈裟狸。
月岡芳年の作品で文福茶釜なたぬきさんが文机に伏せて上目遣いしてるのがあるのですが
それが大好きで…
たぬーはなぜこんなにも袈裟が似合いますか!?
他にこんなに袈裟が似合うどうぶつっているでしょうか!?




幞頭というと、日本の官人の冠のもとになったものですが
ちょっと構造というか、よくわからない気がしたので
唐代まで飛んで予習してきました~。

bokutou.jpg


◆名称
幞[巾+菐]頭 (襆[ころもへん+菐]頭)ボクトウ
異称、『折上巾』『軟裹』、唐代には青黒色の羅紗を用いるようになったことから『烏紗帽』ともいう。(烏=黒。カラス色。)
秦漢時代から高貴な男性は冠帽の類を用いたが、身分の卑しい者は単なる布で頭を覆うのみであり、各地方で呼び名も違った。北周の武帝が初めて『帕頭』を服制に取り入れて被り方を定め、常服に合わせるものとした(『北周書/武帝紀』)。『幞頭』は唐代からの名称。
 
◆基本の被り方
(1)髻(キツ、もとどり)の上に巾子(キンシ、こじ)を置く。
(2)四角い布(羅紗)をかぶる。
(3)前方の角(脚)左右を後頭部へ回して結ぶ。
(4) (3)を挟むように後方の二角を上げ、巾子の根本あたりで結ぶ。
  (3)の端は後頭部へ垂らしておく。
(5)完成。
 
はじめはこのように、四角い布で巾子を包んで結んだものだったが、
頭を包む部分に桐などで支柱をつける型も出てきた。
 のちには、枠組みを作った上に紗を貼り、漆で塗り固めてるようになる。
これには、前頭部が丸い形のもの(円頂)と、四角くなった形のもの(方頂)がある。
宋代に入りこの種のものは「幞頭帽子」と呼ばれた。
 
◆脚の形
 また、脚を別布にして、垂れる姿を見栄えよく整えるようにもなった(垂脚、軟脚)
脚は次第に長いものが見られるようになり(展脚、長脚)、武官などは長い脚を根本で輪がねた(結脚)
本体に別布をつけるもの、孔を開けて通すものもあった。
脚の形も、細く、先が剣のように尖ったもの、太めで末広がり丸になったものなどさまざま。
また、胴の針金を入れて形を整えることが行われ(直脚、硬脚)、唐代の皇帝は脚が上向きに曲がった幞頭を、臣民は下に垂れたものを用いた。
宋代になると、もはや竿かといいたくなるほど長いものになる場合も。
 
◆巾子の形
 初唐の頃は、巾子の形は小さく平らな山形で、ただ髻を覆う用を果たすためだけのものだった。
旧唐書輿服志には、唐の高祖武德年間に『平頭小様巾』が流行したとある。
一般にも広く用いられ、諸官も日常着に用いた。この様式を基礎として、様々なスタイルが生まれた。
 武則天の頃の朝廷では巾子の頭を高くすることが流行し、『武家諸王様』と呼ばれた。
 唐の中宗が百官に賜った、高くした巾子を前傾(踣)させる様式を『英王踣様』
 玄宗が開元十九年に供奉官及び諸司長官へ賜った『官様』、また『開元内様』は、巾子の先が細く、先が割れている。
 晩唐に至ると、巾子の先は真っ直ぐ尖り、巾子を包む部分も角張ったものになった。

…というような感じですかねー。
基本的な構造はこのようなもので、そんなに複雑ではありません(もとは庶民が手軽に頭を包む方法だったんだしね)
日本では一方ではへ進化していきますが、もうひとつの流れが…
「烏紗帽」でピンと来ますよね!
そう、烏帽子です。まず萎烏帽子に変化しました~。
初唐の頃のものは、萎烏帽子によく似ていますよね。
それから立烏帽子になり、折烏帽子になり…。ふっふっふ。

よ~し、これで奈良の官人も怖くない(?)


ソースはこちら。(※中文サイト)
幞头_百度百科 -  http://baike.baidu.com/view/71457.htm
幞头- 汉服百科 汉服,汉服体系,汉族服饰  -  http://www.hfqun.com/wiki/index.php?doc-view-110
隋唐五代冠帽 - 服饰百科 -  http://fushi.baike.com/article-49155.html

Profile
管理人紹介
HN:逆名[サカナ]
HP漁屋無縁堂

無駄と斑の腐渣。
らくがきと調べ物が趣味の
風俗文化史好き歴史オタク。
人物志より文化史寄り。
イチ推しはみづら
(美豆良/鬟/鬢頬/総角)。

中古日本史、東洋史、仏教史(仏教東漸期の東アジア、平安密教、仏教芸能、美術、門跡寺院制度等)、有職故実、官職制度、風俗諸相、男色史。古典文学、絵巻物、拾遺・説話物。

好きな渡来僧:婆羅門僧正菩提僊那、林邑僧仏哲
好きな法皇:宇多法皇
好きな法親王:紫金臺寺御室、北院御室
好きな平氏:重盛、経盛、敦盛
好きな法衣:裘代五条袈裟
好きな御衣:御引直衣
好きな:挿頭花と老懸を付けた巻纓冠
好きな結髪:貴種童子の下げみずら
好きな童装束:半尻、童水干
好きな幼名:真魚(空海さん)
好きな舞楽:陵王、迦陵頻、胡蝶
好きな琵琶:青山、玄象
好きな:青葉、葉二
好きな仏像:普賢・文殊(童形)はじめ菩薩以下明王、天部、飛天(瓔珞天衣持物好き)

やまとことばも漢語も好き。
活字・漫画・ゲーム等、偏食気味雑食。

画像・テキストの無断転用は
御容赦下さいませ。

Links/RSS






RSS
--------------------------------------

※管理者専用
Calender
03 2024/04 05
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30
Searcn@This Blog
QR Code
携帯版URL









 
 
"逆名" WROTE ALL ARTICLES.
PRODUCED BY SHINOBI.JP