あまねく三千世界のみづら愛好家のみなさまこんばんは。
只今みづら祭を開催中です。
今回はフライング気味に、古墳からいきなり時代を飛ばして、趣向も変えてみました。
筆者の愛して已まない童子みづら。
今回は、同時期の小児の髪型をご紹介して、
その中でみづらがどのような位置にあったかをお話ししたいと思います。
そのため童子みづらについてはさらりと触れるだけに留めますが
もちろんまた回を設けて、みっちりねっちりしんねりうっとり語らせて頂く所存です。
さて、今回は「髪型と通過儀礼」ということも少し見ていきたいと思います。
古代から中世(だいたい、平安中期~室町時代)の髪型全体に云えることですが、
そうそうバリエーションがあるわけでもなく、
そうそうバリエーションがあるわけでもなく、
地味です。
どのお子さんも、大概同じような髪型をしています。
これには、まず理髪方法が限定されていたという理由があります。
中古の理髪具は鋏(いまの糸切り鋏のような握り鋏)、小刀、鑷(けぬき)です。
剃刀は僧侶が使うもので、俗人が用いるようになったのは桃山時代以降と言われています。
結っても複雑な髷はつくらないし、複雑なカットが出来る道具もない。
そしてもうひとつ、
古代~中世の小児の髪型が、通過儀礼に関わってくるからです。
と云うと分かり難くなってしまいそうですが、髪型だけではなく装束も含めて、
年齢に相応しい身形に変えていくということは、何も時代を限ってのことではありませんよね。
年齢に相応しい身形に変えていくということは、何も時代を限ってのことではありませんよね。
そのことどもが折々の祝いとして儀礼化していき、時には公的な行事として、晴れがましく執り行われました。
いまも七五三の行事の中に名残を留めているものがあります。
で、「身形を整える」ということは、服装と髪型を変えるということでもあり、
いまも七五三の行事の中に名残を留めているものがあります。
で、「身形を整える」ということは、服装と髪型を変えるということでもあり、
この年齢ではだいたいこう、と決まっていました。
さーて、本来なら髪置とか深曾木とかについてもお話しする予定でしたが
なかなか調べものが終わらないので、
今回は「あっさり編」ということで、とりあえずこの年頃はこんな感じ、というあたりを。
生育儀礼それぞれの細かい事例や儀式次第は、「しっかり編」とでも題して
後日またお送りしようと思います。
さーて、本来なら髪置とか深曾木とかについてもお話しする予定でしたが
なかなか調べものが終わらないので、
今回は「あっさり編」ということで、とりあえずこの年頃はこんな感じ、というあたりを。
生育儀礼それぞれの細かい事例や儀式次第は、「しっかり編」とでも題して
後日またお送りしようと思います。
~あっさり編~
※だいたい、平安中期~室町時代くらいの、中流以上のお子さんについて述べています。
※だいたい、平安中期~室町時代くらいの、中流以上のお子さんについて述べています。
※年齢はあくまで目安です。
■誕生■
◇産養(うぶやしない)
生後三,五,七、九日の夜に祝宴が催されます。
その間、湯殿始、粥啜、着衣始、と忙しなく執り行われる中で、
◆胎髪を除く ということが行われました。(お七夜に多く行われた)
以降は三歳まで髪を伸ばしません。(ショートヘアか刈り上げ)
■五十日、百日の祝■
◇食初め、箸始め、色直し、真魚始など
後には三歳、五歳でまとめて行われることが多くなりました。
■三歳■
◆髪置(かみおき、くしおき)
髪を伸ばし始めるお祝です。
平安時代はごく私的でささやかなものだったようですが、
後には、
父君が手ずから額に白粉をつけたり(室町時代)
白髪に見立てた綿の付け物をかぶらせたりもしました(江戸初期)
◇袴着、着袴(はかまぎ、ちゃっこ)
子供が袴を着けるようになります。
■五歳■
◆深曾木(ふかそぎ)
伸びてきた髪を、成長を祝いつつ綺麗に剪り揃えます。
平安末期からは碁盤に乗った子の髪を切り、終わってから吉方へ降りる風習が。
■七~九歳頃■
◆髪が伸びてくるので、適宜束ねます(束髪)
◇帯解 童装束の付帯を取り、別帯を結び始めます。
◇親王、内親王が始めて参内し、父帝のお目見えを賜うのはこのころです。
(東宮など特別目を掛けられている場合は、これ以前に行幸を仰ぎ里第で対面することも)
■十歳頃■
◆もっと伸びると、男児は元結を入れて後頭部で結い、長く垂らします(垂髪)
女児も垂髪に結うことがあったようです。
◆この頃から父兄について家の外へ出て働き出したりもしたようで、
絵巻物などに従者として描かれる童子は多くが垂髪姿です。
◇牛飼童、車副など雑色に(世襲。職業によっては成人しても童形)
◆在京貴族の子弟で大内裏へお勤めにあがる者は「小舎人童」に
その中から貴顕の童子は清涼殿への殿上を聴(ゆる)されて「殿上童」に。
◆殿上童はみづらを結いました。
(昼装束では上げみづら、宿直装束では下げみづら)
◆身分が低くても、行事の際に臨時の殿上童となることがありました。
(節会で舞ったり、勝負事の点数係をしたり、竜頭鷁首に乗ったり)
この際は下げみづらを結いました。
◆女児は女童(めのわらわ)、女房見習いとして、母や姉などについて出仕。
宮中であったり、主家筋の奥向きであったり。(※下級女官の女孺とはまた別)
正装の場合、両耳の上でひと房ずつ結んだこともあったようです。
◆大寺院へ行儀見習いへ出されて「兒(ちご)」に。
基本的に垂髪ですが、鎌倉時代以降は『唐輪』という髪型に結う姿も見られます。
兒も法会などで舞を奉納する場合は舞装束に下げみづらを結いました。
■十一~三歳頃から遅くても十六、七歳■
◆理髪加冠(加笄)
元服の儀です。男児は髻を結います(余分な髪は切る)
この時女児は仮に髻を作り(髪上げ)、笄を挿します。
これは上代の結髪風俗の名残です。
また、裳を着け始めます(裳着)
(おまけ)
◆女子は十六歳ほどで、鬢批(びんそぎ)をします。
額髪(長く伸ばした前髪が顔の横に掛かっているもの)を、
肩から胸の高さで左右ひと房ずつ剪り揃えるものです。
許嫁者がいる場合はその男性が、居ない場合は父兄や後見人が鋏を入れました。
これより先に結婚している場合は、結婚後に鬢批をします。
ざっくりまとめると、こんな感じだと思います。
つづきに参考資料。
◆◇みづら祭の目次◇◆
(おまけ)
◆女子は十六歳ほどで、鬢批(びんそぎ)をします。
額髪(長く伸ばした前髪が顔の横に掛かっているもの)を、
肩から胸の高さで左右ひと房ずつ剪り揃えるものです。
許嫁者がいる場合はその男性が、居ない場合は父兄や後見人が鋏を入れました。
これより先に結婚している場合は、結婚後に鬢批をします。
ざっくりまとめると、こんな感じだと思います。
つづきに参考資料。
◆◇みづら祭の目次◇◆
この段階ではまだあんまり活躍して貰ってませんが…
参考資料:
参考資料:
『日本結髪全史』(江馬務/東京創元社)1960再版改訂
『日本の美術23 結髪と髪飾』(橋本澄子編/至文堂)1968
『黒髪の文化史』(大原梨恵子/築地書館)1988
『王朝の風俗と文化 塙選書22』(中村義男/塙書房)1962
『平安王朝の子どもたちー王権と家・童』(服部早苗/吉川弘文館)2004
『女と子供の王朝史-後宮・儀礼・縁 叢書・文化学の越境(13)』(服部早苗編/森話社)2007
『平安時代の儀礼と歳事ー平安時代の文学と生活』(山中裕・鈴木一雄編/至文堂)
『異形の王権 平凡社ライブラリー10』(網野善彦/平凡社)1993
『有職故実大事典』(鈴木敬三編/吉川弘文館)
『源氏物語図典』(秋山虔・小野町照彦編/小学館)
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