中国/日本の装束について調べていると、よく「盤領袍」「方領衫」などという分類名を見かける。ので、まとめてみた。
今回は、中国の漢服と胡服の領はどんなものかを見ていこう。
今回は、中国の漢服と胡服の領はどんなものかを見ていこう。
◆今回の要点◆
■中国の時代装束(と、それに影響された日本など周辺諸国の装束)の領(襟)は、大きく二つの型に分けることが出来る。
・方領(四角く細長く、真っ直ぐ伸びた襟)
これには、交領・直領(対領)・短領 がある。
これには、交領・直領(対領)・短領 がある。
・盤領(丸く曲がり首まわりを囲む襟)
盤領、衿幅が広くなった大円領、立領 がある。
盤領、衿幅が広くなった大円領、立領 がある。
■方領は漢服の伝統の型、盤領は胡(北方騎馬民族)の風俗の影響を受けたものである。
・漢服の特徴→右衽の方領、襟ぐりや袖はゆったりしている。裾が長く足を出さない。「上衣下裳」といって、上衣に裙(裳。スカート)を巻き、幅広の布の帯を締める、もしくは袍などの長衣。優雅だが活動的ではない。
・胡服の特徴→左衽の襟の詰まった盤領が多く、袖は細めの筒袖。「上褶下袴(褲)」といって、裾は腰から膝丈で、股のある袴(ズボン)を穿いた。また、盤領袍もあった。衿は盤扣(紐ボタン)で留める。漢服の袍よりは細身である。脛巾を巻いたり革の長靴(ブーツ)を履いて革のベルトを締める。騎馬に適した動きやすい服装。
■胡服は春秋戦国時代から漢服に少しずつ影響を与えていた。
北魏の初め、官服に胡風の盤領袍が採用され、隋唐以後の王朝もこの風に倣った。
北魏の初め、官服に胡風の盤領袍が採用され、隋唐以後の王朝もこの風に倣った。
■漢人は右衽(右前)の装束を着、左衽(左前)は蛮夷の風としていた。
そのためもとは左衽だった胡服も、漢人に受け入れられるとき右衽に直された。
これだけ書いても済むことではあるのだが、折角だから漢服と胡服のあらましもまとめてみようと思う。
◆漢服について
漢服とは、中原を統べ『華夏』を自称した人々、いわゆる『漢族』が伝統的に着ていた衣服である。
漢服の特徴は、男女共に、襟(衿、領)があり、裾・袖のゆったりとした衣に、帯を締めることにある。
襟は方領、右衽(ウジン)で、多く袖は古くは太めの筒袖、のち大袖、裾は末広がりで膝下丈~地につくほど長く、下に裙子(巻きスカート。裳/ショウ)や袴(股のあるはきもの。ズボン)を穿き、足は隠す。
漢服の領はどれも方領(方=四角)で、左右の衽(おくみ)を交叉させる『交領』、交領の襟を短くし、紐で留める『短領』、そのまま真っ直ぐに垂らす『直領』(または対領)などがあった。また、襟を広く(太く)したのを『大衿』という。衿は別布で仕立てられたり、綾織の縁飾りや刺繍で飾られた。
また、内衣の襟を広くして首周りをやわらかく包んだり、義衿をつけることもあった。絵画などで、上衣の襟から溢れるようにはみ出している白い内襟がよく見られる。
大きく分けて、襟付きの『衣』(丈は腰から膝当たりまで)に『裙裳』を合わせて帯を締める『上衣下裳』(「衣裳」の由縁)つまりツーピーススタイルと、『袍』や『深衣』など長衣を着るワンピーススタイルがある。
深衣は、春秋戦国時代からあった装束である。ひとくちに云うと、上衣と裙を腰で縫い合わせたもので、腰から下の幅を広くして(衿または衽を延ばしたとも表現されます)腰に巻き付けるように着る。深く覆う衣、という意味でこう呼ばれ、一枚の衣でも裾にたっぷりと余裕を持たせることが出来た。 これは、股のある(両足を別々に包む)袴がまだ無かった頃に、足を露わにしないために施された工夫である。そのため、股つきの袴を穿くようになった男性は深衣から袍にうつり、魏晋時代には引き続き裙を穿いた女性だけが好んで着るようになっていた。
◆【袍】
袍も太古の舜王の時代からあったと云われるほど古いものとされた。その字義は『体を包む衣』、裾の長い上着というほどの意味で、様々な型があった。深衣も広義では袍に含まれる。また、長衣の衫を上衣として着ることもあった。袍と衫の違いは、袍が筒袖、衫が大袖であるという点。袍衫というときは、だいたい大袖の袍という意味のようだ(ややこしい)。
また、上衣の下に着る内衣は、長袖の衫、半袖の半臂、襟や袖のない裲襠(リョウトウ)などを用いた。
上衣下裳の方が長衣より格式は上とされ、帝王が用いる『冕服(ベンプク)』や諸官の『冠服』などの礼服(ライフク)はこの様式である。
挿絵の『玄端(ゲンタン)』も礼服のひとつで、冕服の等級が下がったもの。現代中国で古式の結婚式や卒業式などにも用いられている。
だいたい膝までの丈の上衣に大帯と紳を締め、蔽膝(ヘイシツ。前掛け)を垂らし、帯鉤や帯から下げる飾り(佩飾)を用いる。礼服以外では、『襦裙(ジュクン)』が一般的であった。下に衣を着て、丈の短い襦を掛けた上から裙を巻いて帯で締める。
上衣下裳は男女ともによく用いられたが、とくに女性では着方が時代によって大きく変わった。挿絵の唐代の女官は、裙を胸まで引き上げ、ここでは衫を着て帯で締め、襟は大きくハート形にくつろげて、首に飾った宝飾品を見せている。唐代の多彩な流行ファッションのうちの一例である。
襦裙の上から紗(うすもの)で仕立てた半臂(ハンピ。半袖)や衫(サン。長袖)などを羽織ったが、帯で留めることも、そのまま羽織って裾の両端を結んだりすることもあった。また、披帛(ヒハク。披領、帛巾、ストール)を肩や首に掛けたりもした。
上衣下裳にせよ長衣にせよ、全体的にくつろいで余裕があり、ひらひらと風に翻る袖や裾はきわめて優雅だが、反面ずるずると動きにくそうで、確かに軍装には不向きであったろうと思われる。
◆漢服の伝統は引き続き…
隋唐を経て男性の官服は盤領袍になったが、普段着としては漢服も着られていたようである。
だが、ひらひらと袖裾をなびかせる漢服の伝統を守っていったのは主に女性だった。
唐代の女性服では肌を露出した着方も流行したが、宋代に入ると露出度は低くなった(というより、元に戻ったと云おうか)この頃の女性が着ていたのは襦裙を基本としたもので、宋代の女性服の特徴は『背子(ハイシ)』である。男性も着たが女性の着用例の方が多かった。対襟で、筒袖と大袖があり、帯やボタンで留めずにふわりと羽織るもので、丈は膝下、膝上、くるぶしまでと、何タイプかあった。カーディガンのようなものだろうか。袖のないものを『背心』といった。
また、裏地付きで綿入りの上着(袷)もつくられ、衫はこれに対して夏用の単衣(裏地がない)の
唐代の女性服では肌を露出した着方も流行したが、宋代に入ると露出度は低くなった(というより、元に戻ったと云おうか)この頃の女性が着ていたのは襦裙を基本としたもので、宋代の女性服の特徴は『背子(ハイシ)』である。男性も着たが女性の着用例の方が多かった。対襟で、筒袖と大袖があり、帯やボタンで留めずにふわりと羽織るもので、丈は膝下、膝上、くるぶしまでと、何タイプかあった。カーディガンのようなものだろうか。袖のないものを『背心』といった。
また、裏地付きで綿入りの上着(袷)もつくられ、衫はこれに対して夏用の単衣(裏地がない)の
薄物とされるようになった。裙の下に下着としてズボン(褲)や膝丈のドロワーズのようなもの(膝褲)を穿いたり、纏足した足を保護する絹の靴下もあった(纏足は唐末からの風俗)
明代になっても少しずつ形は変わっていったが、それまでの襦裙と基本的には変わらなかった。清代になると、八旗(満州族の貴人)以外の漢人の女性は引き続き漢服を着ていたが、すこしずつ満州族の風俗と混じり合って変化していった。
明代になっても少しずつ形は変わっていったが、それまでの襦裙と基本的には変わらなかった。清代になると、八旗(満州族の貴人)以外の漢人の女性は引き続き漢服を着ていたが、すこしずつ満州族の風俗と混じり合って変化していった。
その後は西欧化や国家体制の変化に押されて姿を消していくことになるが、日本と同じように、結婚式や卒業式など、人生の節目で伝統衣裳を着ることは行われている。
次に胡服について見ていこう。
胡人とは、前述した通り、華夏の民から見た異民族のことであるが、胡服とは、具体的には匈奴や鮮卑、突厥などの北方騎馬民族の衣服を指す。戎服などとも記された。北魏の初めに朝廷の官人の制服に定められて以降、各王朝の官服は代々、胡服の系譜を引くことになった。
胡服の典型的な特徴として、上衣の丈は短く、裾は膝から脛あたりまで、袖は細い筒袖、男性は足を別々の場所に入れる穿き物(褌、褲、袴などと呼んだ)を穿く。漢服に比べると活動的なつくり。
革のブーツ(六枚の革を合わせてつくることから、『六合靴/鞾』という)を履き、革の帯を締めた。
もともと、革帯には穴を開けて、小刀や小物入れや筆入れや火打ち石や護符などを下げていたが、この穴を補強するために、玉(ギョク)や金属の飾り板(銙)を付けた。のち盤領袍が漢服になると、官位によってこの革帯の銙の素材や数に差を付けた。
◆胡服の盤領
襟は盤領(バンリョウ=丸襟、円領とも)が多く、他に直領や対領、衿無しのものもあり、左衽であった。盤領の襟は狭く喉元まで詰まっており、組紐や細く裂いた布などを結んで玉を作ったものと、輪を作ったものを襟に付け、玉を輪に嵌めて留める、つまりボタン式(盤扣/バンコウ)。
盤領を緩める時は、衿を折り返して着た。これを「翻領」という。
盤領を緩める時は、衿を折り返して着た。これを「翻領」という。
(ちなみに「円領衫」で画像検索すると、丸首Tシャツ画像が大量に引っ掛かる)
◆胡服への抵抗感
日本人には中国王朝の興亡の激しさは少し分かり難いところだが、とにかく漢民族といっても多数派だった訳ではなく、いつも中原の覇者だった訳でもない。とりわけ手強かったのが北方の騎馬民族で、時には不倶戴天の敵として争い、勝って版図を広げ、敗けて覇権を奪われ、また時には宥和策をとり交易していた。
漢人にとって、胡人が単に野蛮な異民族というだけでなく、手強い仇敵でもあったため、利便性はあってもその風俗を受け容れることには当初、抵抗があった。
『史記』に、春秋戦国時代の趙の武霊王(?~BC295)が、胡軍に勝つため騎射胡服を採用しようとした時の故事が記されている。
このときの趙軍は馬が牽く戦車に載り、将兵は皆、かさばる長袍を着ていたため動きが鈍かったので、身軽な短衣に袴、革靴(または脚絆)姿で、馬上から弓を射てくる胡軍の軍装を取り入れようとしたのであった。が、武霊王は臣下の肥義に、このことが余人の顰蹙を買い嘲笑されるだろうがどう思うか、と相談を持ちかけている。
『…今吾れ将に胡服騎射を以て百姓(ヒャクセイ)に教えんとす、而して世必ず寡人(カジン=己の謙称)を議さんが、奈何(いかん)。』(史記/趙世家)
結局、世間にどう思われてもやるぞ、と導入に踏み切るのだが、漢人に胡服への抵抗感があったこ
とがわかる。
◆胡服の影響を受けた漢服「上褶下袴」
この時は胡服の一部が軍装に取り入れられたのみだったが、時代を下るにつれて、動きやすい胡人の服装が漢人、主に庶民の間に広まっていった。
魏晋以来の、褲褶(コシュウ)つまりズボン(褲、袴)に丈の短い上衣(褶)を合わせたスタイルは、軍装や旅装として定着していった。裲襠(リョウトウ)という、貫頭衣を前後身頃に分けたような、衿や袖がなく肩や腋を紐で結んで着たチョッキのような上着などが、胡服の影響を受けたものとして挙げられる。裲襠は身分の高い女性が襦裙の上から羽織ったり、身頃を金属でつくって裲襠鎧の原型にもなったり、いまのタンクトップや金太郎の腹掛けのような下着にもなった
また、革のベルトやブーツの使用も広まった。
◆胡服、官服となる(盤領袍)
漢人は周辺の他民族との衝突を繰り返しながら彼らの風俗を少しずつ受け入れてきたが、南北朝時代、鮮卑族の拓跋氏が北魏を建てると、続く東魏・西魏・北斉・北周政権下で、習俗の胡化と漢化が繰り返された。
北魏の初め、胡服である盤領袍衫(円領、団領とも)が百官の常服・朝服に定められた。再び中原の覇権が漢人に戻った後も、隋ではこの制を改めなかった。煬帝(569~618)は外征の際、従う臣下に胡服を着させたという。
『隋の煬帝游幸す、令臣皆戎服を以て従う』(朱子語類/礼/雑儀)
さらに唐もこれを踏襲し、以後官服は胡風の盤領袍と定まった。このあたりの事情は、王国維(清末、1877~1927)の「胡服考」に詳しい。(※記事末尾に原文を載せる)
唐王朝は西北の突厥、東南の靺鞨を平らげ、西南の吐蕃、南の南詔を監督下におき、安寧と物質的な豊かさを手にして、歴代王朝でも稀有なほどの文化的繁栄を実現した。西胡はこの時代、仇敵ではなく貿易相手となり、抵抗感が薄れたこともあり、万事において胡風が巷間を席巻した。
もっとも唐代の「胡」とはとにかく範囲が広く、北西の異民族はもとより、葱嶺〈パミール〉以西の諸国諸民族〈インド=梵または天竺以外〉という、西域全般を指したので、ここで紹介したものも、多彩な流行のひとつの典型に過ぎない。
挿絵の吐蕃人は、閻立本(えんりっぽん/唐初の宮廷画家、?~673)の《歩輦図》を参考にした。官服は無地あるいは官制に即した文が入れられたが、元来の胡服は連珠文と呼ばれるパターンを特徴とする。
>…この絵の連珠文はやけにファンシーだが。(だからつい描いちゃったのである)
唐代の詩人にとって、胡風の流行は格好の題材となり、多くの詩が残されたが、その中から中唐の元稹(ゲンシン/AD779~831)の詩を見てみよう。
「(前略)
…胡騎煙塵起こしてより、毛毳腥羶(モウゼイセイセン)、咸洛(カンラク)に満つ。
女は胡婦と為りて胡妝(コショウ)を学び、伎は胡音を進めて胡楽を務む。
火鳳の聲沉(しず)みて咽絶多く,春鶯は囀を罷(や)めて蕭索長し。
胡音胡騎胡妝と、五十年来紛泊を競う。」
(新題樂府十二首/法曲:元稹)
訳:『胡軍の騎馬が土煙を巻き起こして来襲してから、毛織り物と肉料理(もしくは毟った鶏の羽毛と生臭い獣肉?)が長安と洛陽の都に満ちた。
女は胡人の妻となって胡風の化粧や服飾を学び、楽人は胡の楽器や奏法を取り入れて胡楽を奏でる。
火鳳の声は沈み、息も絶え絶えに咽び、春鶯も囀りを止めてしまい、もの寂しさが漂う。(火鳳舞は魏の、春鶯囀は唐の著名な歌舞の曲名。『洛陽伽藍記』『教坊記』『唐會要』などに見える。つまり、華夏伝統の楽が胡楽に取って代わられたことの隠喩である)
胡の音楽と、胡の馬と、胡の装いとが、五十年来隆盛を競っている。』
また、『旧唐書』輿服志にも、
「開元の初、宮人の駕に従いて騎馬する者、皆胡帽を著し、靚粧(セイショウ)して面を露にし、復た障蔽無し。士庶の家、又相倣效(ホウコウ)し、帷帽(イボウ)の制、行い用いずして絶ゆ。俄かに又髻を露にして馳騁(チテイ)し、或は丈夫の衣服靴衫を著す有り、尊卑內外にして,斯く一貫す。(中略)太常の楽は胡曲を尚(たっと)び、貴人の御饌、供するに胡食に尽く、士女は皆胡服を衣(き)竟(お)う、 故に范陽に羯胡の乱有り、好尚の遠ざかる兆(きざし)ならんや。」(旧唐書/輿服志)
訳:『開元年間の初め、宮廷女官で貴人の駕の行列に加わって騎乗するものは、皆細身で尖った胡帽をかぶり、化粧をした顔を露わにしている(古い慣習では、貴い女性が外出する時は顔を覆った)。士人や庶民の階級でもこれに倣い、帷帽制は誰も行わなくなって自然と絶えてしまった。流行に乗って髻をさらして馬で駆け、夫君の服や靴を着る婦人が身分の上下を問わずいる。(中略)太常寺では胡楽を珍重し、貴人の饗宴では胡風の食事ばかりが供され、士人も女人も皆一様に胡服を着ている。こうした胡風好み、風俗の乱れが范陽での羯胡の乱を招いた。これが流行の衰える兆候となったものであろうか。』
などとある。この記事では特に女性の胡服着用について注目している。胡服を着て胡帽を被り、あるいは結い髪を露わにして、颯爽と馬に跨っていた女性達がいたようである。本来胡服は男性の服装で、夫の官服を借りて着ていた夫人もいたというが、これは朝官の妻という身分ある女性が(夫公認で?)男装していたということだから、なかなか興味深い。
こちらの挿絵を描くときに参考にした復元衣裳の写真は、色柄からして女性向けに仕立てられたものだった。元稹の詩には「五十年来」とあり、胡服が女性達の間で普通に着られるようになって、女物も作られていたのなら、その頃には男装という意識も薄れていたのかも知れない。
こちらの挿絵を描くときに参考にした復元衣裳の写真は、色柄からして女性向けに仕立てられたものだった。元稹の詩には「五十年来」とあり、胡服が女性達の間で普通に着られるようになって、女物も作られていたのなら、その頃には男装という意識も薄れていたのかも知れない。
一時の爆発的なブームが収まってくると、今度は胡服にも漢服化が見られた。裾が広くなり、文官と武官とで裾の形が変わり、とくに文官の盤領袍は裾が長くなった。また襟ぐりが広くなり、内衣の襟を見せるようになった。
宋、明と次第に襟が広くなり、円盤のような形になった。(大円領とも)明代には、袍の胸と背に「補子」という刺繍を施された布をつけ、この袍の色と、補子の色と刺繍の図案によって官位をあらわすようになった。
李氏朝鮮の朝服はちょうどこの頃の中国の服制を採用しているので、韓国の歴史ドラマで多く見かけるのはこのような団領(團領)袍衫である。
清を建てたのは北方騎馬民族の系譜に連なる満州族(女真族)の愛新覚羅氏であったが、このときの漢人(及び蒙古族や南方の少数民族)への同化政策は苛烈であった。剃髪易服政策は漢人の激しい反抗にあった。もっともこの場合より拒絶されたのは剃髪(辮髪)で、漢服を改めるほうはそれに比べたらまだマシということだったようだ。
満服の特徴は、立領、チャイナカラーの旗袍(キホウ。チーパオ)や長袍と呼ばれる長衣だ。これも分類の上では盤領である。(喉元から真っ直ぐに分かれている型の場合は対領に分類されることもあるし、襟が「無い」と書かれることもある)紐ボタンで留めるのも、袖が長く細いのも、胡服の系譜を継いでいる。
挿絵の旗袍は、襟ぐりの広い盤領袍の下に立襟のついた領衣を着るタイプである。領衣を着ない(立襟がなく、広い丸襟の上着だけを着る)スタイルは、女性に多かったようだ。唐代の盤領はまだ男装や一時的な流行だったが、清代になって本格的な盤領の女性服ができたことになる。衿を留める紐ボタン(盤扣)も、花を模した華やかな飾り結びで作られるようになった。
これははじめ満州族に強制された風俗ではあったけれども、王朝が倒れ、辮髪が消えたのちも、中華民国では清式の袍が引き続き着られ、長袍に西洋式のズボンや帽子、眼鏡や革靴、ステッキなどを合わせたスタイルが紳士の間で流行した。
旗袍もいわゆるチャイナドレスのスタイルに改良された(改良旗袍)。余談だが、中山服は清式の伝統に沿ったものというより、日本の学ラン(つまり西洋式の詰襟)を元に考案されたらしい。
李氏朝鮮の朝服はちょうどこの頃の中国の服制を採用しているので、韓国の歴史ドラマで多く見かけるのはこのような団領(團領)袍衫である。
清を建てたのは北方騎馬民族の系譜に連なる満州族(女真族)の愛新覚羅氏であったが、このときの漢人(及び蒙古族や南方の少数民族)への同化政策は苛烈であった。剃髪易服政策は漢人の激しい反抗にあった。もっともこの場合より拒絶されたのは剃髪(辮髪)で、漢服を改めるほうはそれに比べたらまだマシということだったようだ。
満服の特徴は、立領、チャイナカラーの旗袍(キホウ。チーパオ)や長袍と呼ばれる長衣だ。これも分類の上では盤領である。(喉元から真っ直ぐに分かれている型の場合は対領に分類されることもあるし、襟が「無い」と書かれることもある)紐ボタンで留めるのも、袖が長く細いのも、胡服の系譜を継いでいる。
挿絵の旗袍は、襟ぐりの広い盤領袍の下に立襟のついた領衣を着るタイプである。領衣を着ない(立襟がなく、広い丸襟の上着だけを着る)スタイルは、女性に多かったようだ。唐代の盤領はまだ男装や一時的な流行だったが、清代になって本格的な盤領の女性服ができたことになる。衿を留める紐ボタン(盤扣)も、花を模した華やかな飾り結びで作られるようになった。
これははじめ満州族に強制された風俗ではあったけれども、王朝が倒れ、辮髪が消えたのちも、中華民国では清式の袍が引き続き着られ、長袍に西洋式のズボンや帽子、眼鏡や革靴、ステッキなどを合わせたスタイルが紳士の間で流行した。
旗袍もいわゆるチャイナドレスのスタイルに改良された(改良旗袍)。余談だが、中山服は清式の伝統に沿ったものというより、日本の学ラン(つまり西洋式の詰襟)を元に考案されたらしい。
おまけ的な…
◆右衽と左衽
領の話と云えば、右前か左前かというのも、しばしば問題になる。
おっとその前に、ややこしいので一度整理して置こう。
右衽(右前)というのは、右の衽を上前にするということではなく、
相手に向かって右が上前になる つまり実際は着る人の左手側の衽が上前になっている。
これは、「右衽を先に体に付ける」「右衽を(懐の)中に入れる」から右衽、だそうだ。
さて、漢服の領は右衽、胡服は左衽、それゆえ右衽は華夏の風、左衽は野蛮な戎夷(えびす)の風とされた。
いわゆる華夷思想というやつである。
孔子の曰く、
「微管仲、吾其被髪左衽矣」 (論語)
『 管仲微(な)かりせば、吾れ其れ被髪左衽(さじん)せん』
「春秋時代の賢相、管仲がおいでにならなければ、私は今、頃髻を放って髪を下ろし、夷服を左前に着ておったやも知れぬ」といったところ。被髪とは、冠帽や巾を被らず、髻(もとどり)を結わないこと。日本でも中古代までは被髪は成人男子にとって恥とされたが、その根も中国にあったのである。
◆なぜ漢人は右衽、胡人は左衽なのか。
これは、「右を尊しとしたから」という説があるが、時代や地域で右左の尊重は入れ替わっており、「文官は右」「武官は左」を尊ぶ、という時期もあった(左右逆もあった)ようなので、どうも明確でない。
参考:【中国古代的尚左与尚右观念 百度文庫】
左衽は死人の装束の合わせだから、というのは、日本でも同様だが、
北京の病院で、お仕着せの病衣が左衽で物議を醸した、という最近のニュース記事があったので、現代中国でも生きている慣習らしい。
ただ、いつから云われていることなのかは調査不足で解らなかった。
または、胡人が騎射を行うとき、右肩を袒(ぬ)ぐから、左衽であるという。
片袒にするときは、だいたい、上前をずらして肩を出す。
つまり左衽だと、上前は右だから右袒になる。
胡人俑の、片袒のものの写真が一点だけ手元にある、騎射ではなく馬を牽くところのようだが、右袒だ。
【中国で復興した射礼の動画(Youtube)】を見てみると、右衽の漢服を着た射手は左袒。
日本の弓道でも、左肩を片袒ぎにしている。
そういえば、騎馬民族の弓手馬手は日本でいうものとは逆、というのを読んだことがあるが(「狩りと王権」斎宮歴史博物館図録)
そうするとやっぱり袒ぐ方も逆なのだろうか。むむむ。
◆盤領袍の改良
上に挙げた盤領袍の絵を再度ご覧頂くと、吐蕃と遼の袍は左衽、官服と男装の袍は右衽になっている。
実は、胡服が官服として採用されてから、右衽に改良されたのである。
服は導入しても左衽は受け容れられなかったのだろうか。そこまで左衽は拒絶されたのか、あるいは単に漢人には慣れていて便利だったから直したのか…。
清代も、当初は左衽だったようなことが「中国服装史」には書いてあるが、太祖弩爾哈赤(ヌルハチ・1559~1626)、太宗皇太極(ホンタイジ・1592~1643)の肖像画や、遺品の袍の写真などを見てみると右衽、または対領になっている。太宗はくれぐれも漢人の風に染まるなと苦言を呈していた人物だが…(『太宗実録』崇徳二年四月項)。
◆なぜ漢人は右衽、胡人は左衽なのか。
これは、「右を尊しとしたから」という説があるが、時代や地域で右左の尊重は入れ替わっており、「文官は右」「武官は左」を尊ぶ、という時期もあった(左右逆もあった)ようなので、どうも明確でない。
参考:【中国古代的尚左与尚右观念 百度文庫】
左衽は死人の装束の合わせだから、というのは、日本でも同様だが、
北京の病院で、お仕着せの病衣が左衽で物議を醸した、という最近のニュース記事があったので、現代中国でも生きている慣習らしい。
ただ、いつから云われていることなのかは調査不足で解らなかった。
または、胡人が騎射を行うとき、右肩を袒(ぬ)ぐから、左衽であるという。
片袒にするときは、だいたい、上前をずらして肩を出す。
つまり左衽だと、上前は右だから右袒になる。
胡人俑の、片袒のものの写真が一点だけ手元にある、騎射ではなく馬を牽くところのようだが、右袒だ。
【中国で復興した射礼の動画(Youtube)】を見てみると、右衽の漢服を着た射手は左袒。
日本の弓道でも、左肩を片袒ぎにしている。
そういえば、騎馬民族の弓手馬手は日本でいうものとは逆、というのを読んだことがあるが(「狩りと王権」斎宮歴史博物館図録)
そうするとやっぱり袒ぐ方も逆なのだろうか。むむむ。
◆盤領袍の改良
上に挙げた盤領袍の絵を再度ご覧頂くと、吐蕃と遼の袍は左衽、官服と男装の袍は右衽になっている。
実は、胡服が官服として採用されてから、右衽に改良されたのである。
服は導入しても左衽は受け容れられなかったのだろうか。そこまで左衽は拒絶されたのか、あるいは単に漢人には慣れていて便利だったから直したのか…。
清代も、当初は左衽だったようなことが「中国服装史」には書いてあるが、太祖弩爾哈赤(ヌルハチ・1559~1626)、太宗皇太極(ホンタイジ・1592~1643)の肖像画や、遺品の袍の写真などを見てみると右衽、または対領になっている。太宗はくれぐれも漢人の風に染まるなと苦言を呈していた人物だが…(『太宗実録』崇徳二年四月項)。
女真族で画像検索しても右衽しか出てこないので、明末あたりにはすでに漢化していたという事も有り得るのかもしれない。
◆おわりに
幞頭などの記事を書いていた時、もしかしなくても首服だけ考証してもだめじゃないか?と思ったので、調べてみました。
とりあえずバストアップくらいは自信を持って描けるように…なるといいんだけど…。
「盤領って皇帝の肖像画でも描かれているのに、漢服じゃなくて胡服だったんだ~」という点を非常に面白いと感じたこともこの記事を書く動機になった。やはり中国は多民族国家で、華夷華夷いいながらもこうして仇敵の風俗を受け容れている。面子は気にするけど実利主義という、中国のそういう処が私は好きである。
次回は日本の盤領(束帯、狩衣など)に続く予定。
ちなみにかなり今更な感じでpixivはじめました…。
簡易版まとめUPしています。(キャプションはtwitterでの装束個別紹介など)
絵だけでいい絵だけで、という方はどうぞ~。
◆おわりに
幞頭などの記事を書いていた時、もしかしなくても首服だけ考証してもだめじゃないか?と思ったので、調べてみました。
とりあえずバストアップくらいは自信を持って描けるように…なるといいんだけど…。
「盤領って皇帝の肖像画でも描かれているのに、漢服じゃなくて胡服だったんだ~」という点を非常に面白いと感じたこともこの記事を書く動機になった。やはり中国は多民族国家で、華夷華夷いいながらもこうして仇敵の風俗を受け容れている。面子は気にするけど実利主義という、中国のそういう処が私は好きである。
次回は日本の盤領(束帯、狩衣など)に続く予定。
ちなみにかなり今更な感じでpixivはじめました…。
簡易版まとめUPしています。(キャプションはtwitterでの装束個別紹介など)
絵だけでいい絵だけで、という方はどうぞ~。
参考文献:
▲「中国服装史ー五千年の歴史を検証する」(華梅/白帝社)2003←今回の主要テキスト
▲「中国服装史ー五千年の歴史を検証する」(華梅/白帝社)2003←今回の主要テキスト
▲「中国歴代服飾」(上海市戯曲学校中国服装史研究組/学林出版社)1984
▲「古代西域服飾擷萃」(新疆維吾爾自治区博物館編/文物出版社)2009
▲「大唐王朝の華-都・長安の女性たち」図録(兵庫県立博物館/朝日新聞社)1996
▲「小説十八史略(1~6)」(陳舜臣/講談社文庫)1992
▲「狩りと王権」図録(斎宮歴史博物館)1995
web:▲「狩りと王権」図録(斎宮歴史博物館)1995
中国版wiki
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原文テキスト検索・出典
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▲ 『史記/趙世家』
於是肥義侍、王曰、「簡、襄主之烈、計胡、翟之利。為人臣者、寵有孝弟長幼順明之節、 通有補民益主之業、此兩者臣之分也。今吾欲繼襄主之跡、開於胡、翟之鄉、而卒世不 見也。為敵弱、用力少而功多、可以毋盡百姓之勞、而序往古之勳。夫有高世之功 者、負遺俗之累、有獨智之慮者、任驁民之怨。今吾將胡服騎射以教百姓、而世必議寡人、柰何。」
肥義曰、「臣聞疑事無功、疑行無名。王既定負遺俗之慮、殆無顧天下之議 矣。夫論至德者不和於俗、成大功者不謀於眾。昔者舜舞有苗、禹袒裸國、非以養欲而樂 志也、務以論德而約功也。愚者闇成事、智者觀未形、則王何疑焉。」
王曰、「吾不疑胡服 也、吾恐天下笑我也。狂夫之樂、智者哀焉;愚者所笑、賢者察焉。世有順我者、胡服之功 未可知也。雖驅世以笑我、胡地中山吾必有之。」
於是遂胡服矣。
【読下し】
是に肥義侍りて、王の曰く「簡・襄主の烈(いさお)は、胡・翟の利を計るにあり。臣の為人(ひととなり)は、孝弟長幼順明の節を寵ず有り、補民益主の業に通ず有り、此の両は臣の分なり。今吾れ襄主の跡を継ぎ、胡・翟の鄉を開けども、世の卒りは見ず也。敵を弱きと為さば、力を用いること少くして功多し、百姓の勞を尽くすさずして、往古の勲に序(つ)ぐべし。夫れ高世の功有らば、遺俗の累を負はん。獨智の慮有らば、驁民の怨に任(た)ふ。今吾れ将に胡服騎射を以て百姓(ヒャクセイ)に教えんとす、而して世必ず寡人を議さんが、奈何(いかん)」と。
肥義の曰く、「臣が聞くに、事を疑うは功無く、行を疑うは名無しと。王既に遺俗の慮を負はんと定む、殆ど天下の議を顧ること無し。夫れ至德を論ずは俗に和せず、大功を成すは衆に謀らず。昔(かつ)て舜は有苗に舞ひ、禹は裸国に袒(ぬ)ぐ、欲を養ふを以て志を楽しむに非ず也、務めて徳を論ずるを以て功を約す也。愚者は事成りても闇(くら)く、智者は未だ形(あらは)れずとも観る、則ち王は何をか疑はんや。」と。
王の曰く、「吾れ胡服を疑はず、吾れ天下の我を笑うを恐る。狂夫の楽しむを智者は哀しむなり、愚者の笑ふ所を賢者は察するなり。世に我に順ふ有り、胡服の功未だ知らず。我を笑うが以て世に駆(は)せんと雖も、胡地中山吾れ必ずこれを有す。」と。
是に於いて遂に胡服となる。
【訳】
伺候した肥義に王はこう云った。
「先の両王の武功は、それぞれ敵の強みをよく洞察したことで得たものだ。
そなたは、礼節を重んずること、民を支え主の利益となる仕事に通ずること、双方を満たす優れた臣下であるから、考えを訊ねたく思う。
今、予は襄王の跡を継ぎ、胡翟の地を開拓したが、地の果ては遠く、まだまだ征戦を続けねばならぬ。だが我が軍の優位を確保できれば、両々の兵力で多大の功績を挙げ、我が民に重き労を課さずして、往古の英雄に名を連ねる事が叶うであろう。
功を成した高徳の士ともなれば、古き慣習を背負わねばならぬ。また、ひとり群を抜いて叡智を示す者は、驕慢な民の怨みに耐えねばならぬものだ。予は今、兵に胡服を着せ騎射の教練を施さんとしているが、世人は必ずこの身を誹り罵るであろう。これを如何に考えるか?」
肥義が答えて、「臣(わたくし)が聞きますところ、成すべき事に迷えば功績はなく、行いに迷えば名声を失うとか。王は既に旧習を改める覚悟を定めておいでなのですから、もはや天下の誹りを御憂慮なさる必要もございますまい。
高徳を説けども凡俗には馴染まず、大業を成したとて民衆は得心せざるものにございます。かつて舜王は三苗にて舞を御披露なさり、禹王は裸国へ御入国の折、衣をお袒ぎになりましたが、それらは彼国の民の欲を満たす為ではなく、徳を示して彼らを教化し、勝利を収める為になされたことにございます。
愚者は目の前のものさえろくに見られず、智者は明確でなくともその形を見ることが出来ますものを、王は何を御躊躇なさいましょうや。」
王は云った。「胡服の策を躊躇するものではない。笑い物になることを恐れて居るのだ。疾れ者が楽しむ事を見て智恵者は哀しみ、凡愚が笑い飛ばすものに賢者は注意を払う。だが予に従ってくれる智者達にとってさえ、胡服の効用は未知の領域にあるのだから、理解を得られずとも仕方がない。
この身を嘲笑する声が世を巡ろうとも、予は必ず西胡と中原とを統べてみせる。」
こうして遂に胡服が採用されることとなった。
▲『朱子語類/礼/雑儀』
…又曰:「後世禮服固未能猝復先王之舊、且得華夷稍有辨別、猶得。今世之服、大抵皆胡服、如上領衫靴鞋之類、先王冠服掃地盡矣!中國衣冠之亂、自晉五胡、後來遂相承襲。唐接隋、隋接周、周接元魏、大抵皆胡服。」問:「今公服起於何時?」曰:「隋煬帝游幸、令臣皆以戎服從、三品以上服紫、五品以上服緋、六品以下服綠。只從此起、遂為不易之制。」…
▲『舊唐書/輿服志』
開元初、從駕宮人騎馬者、皆著胡帽、靚粧露面、無復障蔽。士庶之家、又相倣效、帷帽 之制、絕不行用。俄又露髻馳騁、或有著丈夫衣服靴衫、而尊卑內外、斯一貫矣。武德來、婦人著履、規制亦重、又有線靴。開元來、婦人例著線鞋、取輕妙便於事、侍 兒乃著履。臧獲賤伍者皆服襴衫。太常樂尚胡曲、貴人御饌、盡供胡食、士女皆竟衣胡服、 故有范陽羯胡之亂、兆於好尚遠矣。
▲『新題樂府十二首/法曲』元稹
吾聞黃帝鼓清角、弭伏熊羆舞玄鶴。
舜持幹羽苗革心、堯用咸池鳳巢閣。
大夏濩武皆像功、功多已訝玄功薄。
漢祖過沛亦有歌、秦王破陣非無作。
作之宗廟見艱難、作之軍旅傳糟粕。
明皇度曲多新態、宛轉侵淫易沉著。
赤白桃李取花名、霓裳羽衣號天落。
雅弄雖云已變亂、夷音未得相參錯。
自從胡騎起煙塵、毛毳腥羶滿咸洛。
女為胡婦學胡妝、伎進胡音務胡樂。
火鳳聲沉多咽絕、春鶯囀罷長蕭索。
胡音胡騎與胡妝、五十年來競紛泊。
▲『胡服考』王国維
胡服之入中國、始於趙武靈王。其製、冠則惠文。其帶具帶、其履靴。其服、上褶下袴。戰國之季、他國已有效其服者。至漢而為近臣及武士之服、武服其冠、或服其服、或併服焉。漢末、軍旅數起、服之者多、於是始有“袴褶”之名。魏晉以後、至於江左、士庶服之、百官服之、天子亦服之、然但以為戎服及行旅之服而已、北朝起自戎夷、此服尤盛、至施之於婦女。後魏之初、以為常服、及朝服。後雖復古衣冠、而此服不廢。隋則取其冠、以為天子之戎服。武臣之朝服、取其服為天子田獵豫遊之服。皇太子侍從田狩之服、上下公服。武官侍從之服、取其帶與履、以為常服。唐亦如之、武弁之服用其冠、平巾幘之服用其服、常服用其帶與履。唐季褶服漸廢、專用常服、宋初議復之而未行、然儀衛中尚用之。又至六朝至唐、武官小吏流外多服袴褶。此胡服行於中國之大略也。自漢以迄隋唐、諸外國之服亦大抵相似。殆與中國胡服同源、至此服入中國後之製、代有變革。其初有冠、冠前有璫、璫以黃金為之、加貂蟬焉。貂則有左右之別。漢時又于冠內加幘。後或去冠而存其幘、幘之色、或赤或黑、上綴紫標。六朝亦間用冠。隋唐以後則惟用平巾幘而已。袴褶之質、魏晉六朝雜用縑錦織成綢布皮韋為之;隋則天子及皇太子褶以羅、袴以布;唐則五品以上通用綢綾及羅、六品以下用小綾、流外小吏亦用布焉。褶之色、漢魏以降大抵用絳及朱、然亦無定色。隋則天子及皇太子以紫、百官五品以上亦以紫、六品以下用絳。唐則天子或紫或白、皇太子以紫。百官服色初與隋同、後以品差為四等。袴皆白色、有古之袴褶大抵褒博、故有縛袴之製。隋唐以後、行從騎馬所服者頗窄小矣。其帶之飾、則於革上列置金玉、名曰校具、亦謂之氈、亦謂之環、其初本以配物、後但致飾而已。週隋之際、始以環數別尊卑。唐世因之、以為服章。履之專用靴、蓋六朝以後則然。此胡服入中國後變革之大略也。此服通行於中國者千有餘年、而沈約乃謂“袴褶之服、不詳所起”。沈括知其為胡服、而又以為始於北齊、後人亦無考其源流及製度者、故備著之。
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