全日本及び三千世界のみづら愛好家の皆様こんばんは。
ただいまみづら祭を開催中です。
今回も引き続き「埴輪のみづらを描いてみよう!」の回です。
ぎせいし…ゲフゲフン
モデルはこちら~
大和高田市池田遺跡9号墳の靫(ゆぎ)を負う武人の埴輪。
かなり凝ったつくりの埴輪です。
面長で首も長くてめずらしい造形ですよね。
上半身しか残っていませんが、背中には弓箭を入れる靫を背負っています。
靫は単体の埴輪でも出ているみたいですが、絵に描いたものなんかはすごく装飾的ですね。
実際の物は鮮やかに彩色されてたんじゃないかな…。
というか
ドリル…そして角…
妄想でこねくり回した結果、
ドリル美豆良は細い紐で縛り上げ、
兜の角状突起は飾り羽に
頭頂部のなだらかな割れ目は髪の分け目に
額にかぶさった部分を前髪に
…してみました。あながち間違いでもないような気もしますが
ど…うでしょうか…。
あと
夕べ五輪の馬術障害を見ながらスケッチしてたので
活用してみました。
よい子は上のと顔違うーとか云わないの。
弓は実用重視で小さめにしました。。
馬形埴輪はおなじみですが
改めて見てみると馬具が結構豪華ですよね。
神馬に載せる唐鞍の雲珠の、簡易版がついてたり。雲珠好きだー。
儀式用装備だから余計きらきらしくしてあるんでしょうけども。
今回は実用シーンということでちょっと控えめ…。
そういえば、馬型埴輪はあるけれど
騎馬のかたちでは例がないみたいで
それも意外といえば意外だけど…さすがに難しかったんだろうか。
小さいものならできないこともなさそうだけど。
描きながら「ワンダと巨像」が懐かしくなりました…。
もう一回くらい埴輪みづらかな?
次回は埴輪のみづらをあれこれ並べてみようと思います。
◆◇みづら祭の目次はこちら◇◆
ただいまみづら祭を開催中です。
今回も引き続き「埴輪のみづらを描いてみよう!」の回です。
ぎせいし…ゲフゲフン
モデルはこちら~
大和高田市池田遺跡9号墳の靫(ゆぎ)を負う武人の埴輪。
かなり凝ったつくりの埴輪です。
面長で首も長くてめずらしい造形ですよね。
上半身しか残っていませんが、背中には弓箭を入れる靫を背負っています。
靫は単体の埴輪でも出ているみたいですが、絵に描いたものなんかはすごく装飾的ですね。
実際の物は鮮やかに彩色されてたんじゃないかな…。
というか
ドリル…そして角…
妄想でこねくり回した結果、
ドリル美豆良は細い紐で縛り上げ、
兜の角状突起は飾り羽に
頭頂部のなだらかな割れ目は髪の分け目に
額にかぶさった部分を前髪に
…してみました。あながち間違いでもないような気もしますが
ど…うでしょうか…。
あと
夕べ五輪の馬術障害を見ながらスケッチしてたので
活用してみました。
よい子は上のと顔違うーとか云わないの。
弓は実用重視で小さめにしました。。
馬形埴輪はおなじみですが
改めて見てみると馬具が結構豪華ですよね。
神馬に載せる唐鞍の雲珠の、簡易版がついてたり。雲珠好きだー。
儀式用装備だから余計きらきらしくしてあるんでしょうけども。
今回は実用シーンということでちょっと控えめ…。
そういえば、馬型埴輪はあるけれど
騎馬のかたちでは例がないみたいで
それも意外といえば意外だけど…さすがに難しかったんだろうか。
小さいものならできないこともなさそうだけど。
描きながら「ワンダと巨像」が懐かしくなりました…。
もう一回くらい埴輪みづらかな?
次回は埴輪のみづらをあれこれ並べてみようと思います。
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COMMENT
柿本人麿
2013/10/22(Tue)04:53
兵庫県明石市にすむ老人です。老人大学で人麿について発表予定。私は古田武彦氏の九州王朝があったという仮説で、人麿を考えています。人麿は歌人というより武人であったとみています。明石海峡を司る後の時代の安擦使とか大目付役であったと見ています。奥さんの「をとめ」は淡路の岩屋にいたようです。明石浦から各地へ旅したようです。イメージは埴輪の武人です。「みづら」を結った武人です。画像を利用させてください。もしくはこのイメージの人麿像ができませんか。ミネルヴァ書房から人麿のDVDがでています。ご参考にして頂ければよいのですが。
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コメントありがとうございます。
2013/10/22 11:50
はじめまして、コメントをありがとうございます。
柿本人麿についてお調べになっておいでなのですね。 残念ですが、人麿が美豆良を結っていたかどうかは、疑問があります。 603年の冠位十二階制定後は、官人は頭上に髻(冠下の髻)を作ました。私は、冠を被ると同時に美豆良は髻に代わられて、廃されたか、徐々に廃れていったと考えています。 律令の導入と共に、冠と唐風の官服も輸入されたと考えてよいかと思いますが、689年の飛鳥浄御原令に服制の規定があったかどうかは不明ですが、701年の大宝律令には記述があったとみられ、この頃までには、少なくとも官人の装いは確実に、美豆良に衣褌ではなく、幞頭に袍という、唐風の装いになっていたものと思われます。 大宝・養老律令で定められた武官装束はこちらのようなものでした。ご参考になれば。→[風俗博物館HP] http://www.iz2.or.jp/fukushoku/f_disp.php?page_no=0000018 ですが、もしかして、九州王朝説では、独自の制度をもち、まだ美豆良であったという向きになっているのでしょうか? ただその際も、まことに申し訳ありませんが、私は武具甲冑の方はまだまだ不勉強でして、現時点で不二井樣の御期待に添うことは難しいと思います。 ご発表が滞りなくすすみますように。 |