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深度三,三三糎の心の海から湧き出ずる、逆名(サカナ)のぼやき。
 
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周回遅れも良いとこですが貯まってた大河ちょっとだけ消化しました。
本当に清盛と後白河院の落飾シーンとか法会と遮那王周辺しか見てませんが…。
 
……清盛の入道姿は、解っていたけれど、本当に酷い
 
主人公がこんな惨めなことになっていて本当にいいんですか、NHKさん。
 
◆清盛に限りませんが、このドラマの入道達の法衣ってまず
『何だか解らない』のです。
それじゃ何かといって、まず裾のあたりを見て、襞の入り具合で判別しようとしたのですが、襞自体が見つからない。
それで生地を見るのですが、赤色で織り模様で地文が入っている、という時点で『袍裳』しかない、
しかしやっぱり、袍裳にあるはずの裳──の襞が見えない。
 で、辿り着いた結果が、袈裟だけでなく裳(プリーツ状の巻きスカートのようなもの)まで取った袍裳…という…。。。
まさかそこまでやれるほど末期だとは思っていなかったのですが…。
もしかして、裳がセットということすら知らないのかも…ありそうで怖い…。
 
それから、多分、この時代他に赤色のものがある法衣というと素絹(弁慶などと同じもの、半素絹)なのですが、こちらは生地が粗い麻で、透けます。もちろん無地。簡素な生地でなくてはならないので赤錦なんか論外ですけど…。
 多分、赤素絹と、本来高僧の着るべき袍裳の中でも最も高位の色である赤の袍裳を混同してしまっているのだと思います。清盛がなんか作業に加わって腕まくりをしていましたが、あれは素絹でよくやることです。
 
 それで、袍裳なのだとしたら袈裟がないのは、余計におかしい。
常用にする下の方の装束ならともかく、

そもそも盛装が前提の装束なので、袈裟も含めて一式です。

外すことに意味はないし、ていうか…宗教的な意味とか、そもそも…考えてないよね…?

これが宗教者の衣っていうこと自体、飲み込めていないのでは?
 
 ただ、この「袈裟がなくておかしい」という自分の感覚が、口ではあまり巧く伝えられないので
他の装束と比較してみようかと思います。
 袍裳は高僧の盛装で、法会の時に着る物です。
比較するのは俗人の盛装である束帯
それから、現代の盛装であるモーニングです。
先日内閣改造がありましたが、皇居での認証式や写真撮影での内閣の面々のモーニング姿は御記憶に新しいかと思います。
 
清盛の法衣比較
 
法衣の袈裟なしは束帯の袍なし、モーニングの上着なしといったところかなと思います。

新大臣がこの風体で認証式に臨んだり、組閣記念の記念写真の列に加わったら
どんだけ顰蹙買うでしょうね?
まあさすがにそれだけで政権倒れたりはしないと思いますけどw
それと同じ事を清盛たちはしているっていうことなのです。
 
そういう無茶苦茶な意味不明なことを

「おしゃれ(笑)」と平気でいいのけてる。

そういう問題じゃないんですけど………。
 
なお裘代は参内用の装束で、俗人の宿装束(とのいしょうぞく)にあたります。衣冠や冠直衣などです。
 モーニング(morning dress)は昼間の盛装で、晩餐会など夜間の行事には燕尾服(evening dress)を着用しますから、裘代=燕尾服、ってしちゃっていいのかな…。
 
まあ、普段着に何を着てようと別にかまやしません、
ただ、TPOを考えてくれんかという話です。
せめて、せめて宮中や御前に侍るときくらいは、なんとかならんものでしょうか。
 
 
 
◆あと、清盛が首から懸けてる長数珠、よく見たら宋銭が編み込んでありますね…。
イラっとするなあ…。
こういうのって実際あったんでしょうか?三途の川の渡り賃? 
 
気持ち悪い襟巻も、今までの僧形で巻いてたからわかっていましたけど…
これって、帽子(もうす)を頭から外して、首から懸けている様子を思い切り曲解したもののようなのですが、普通白だし、綾地とか、ないから…。
しかも、茶色の誌公帽子を、帽子を首に掛けているのにもかかわらず、頭に被る。
たぶんこのまぬけさが、さっぱりわかっていない。
…大体、それ、当時日本にあったんだろうか。
宋にはあったのかも知れないが、臨済宗のものだしなあ…。
 
 
◆事前に「落飾式に袈裟が出てきた」と聞いたのでかぶりつきで見てましたが、
 
たしかに七条袈裟が初めて出てきました。

でもなんで、座主は最初から袈裟着てこないんだろう…。
しかも修法終わったらわざわざ袈裟外して出てきた。
列席してる清盛はやっぱり袈裟無しだし。
 
で、
七条袈裟が出てきたのは、清盛剃髪と、法要、後白河落飾の3シーン。
 
ただし柄から見て、全部同じ袈裟。
 
天台座主が別場面で二回同じ袈裟を着てるのはいいとして、
叡山と敵対しているとわざわざ言ってある三井寺の長吏が同じもの着てるって……
 
…いかにやる気がないかがわかる…。
 
いや、別に、覚忠×明雲ロミジュリでこっそりお揃い袈裟仕立てて
お互いを偲んでたっていう設定でもいいんだけど…。
その場合は絶対明雲が面倒くさい絡み方をしたな。
『衲(アタシ)とお揃いなんかお厭かしら?やっぱり猊下(アナタ)も若い稚児(コ)がいいのね』とか。
なんかもう自分で縫っちゃってるかもな袈裟。
 
だいたい、これまでも七条袈裟を着用するべきシーンは何度もあった。
帝の平癒のための護摩。参内する宋僧。
 
今までさんざん存在を黙殺してきて、それでなんで今回だけ出すんだ?

やっぱりレンタル?
五条袈裟なんかほぼいつもかけていたっていいんだよ。
気持ち悪い銀色豪華裘代とかの仕立て賃で五条袈裟お買い上げしてください。
 
 
◆遮那王の御師様の懸けてる袈裟(絡子)も、この時代まだ存在しません…………。
 禅宗のものだから…まだ日本に禅宗来てないから…。
 ほんとに何も調べてないんだね……………。
 
◆遮那王も白上下の水干ってさあ……またテーマカラー(笑)なんだろうけど、
白張とか牛飼童とか、白上下がトレードマークの職業があるんですけど。
 
しかも菊綴なしとか、超地味だからやっぱ牛飼童にしか見えません。
院政期なんか、華美な童水干着せ放題でしょおおおお!!!???

稚児を飾り立てないでどうすんの……!!!????

こ…こ…言葉にならない!! 
ほんとなんでこのドラマこんなに勿体ないことばっかりするの????
 
 
◆あと、お師様を「僧都」って、どこから出てきたんだろう…。
『義経記』だと、まず、義朝さんの御縁で鞍馬別当東光坊の阿闍梨の許へ預けられて、夜中のひみつ特訓がバレて、もう坊主になれと言われたところを、こんな可愛いのに剃るなんて勿体ないでしょっ!?て、覚日坊の律師様に拾って貰うんですよね。
『平治物語』のほうだと、最初から東光坊阿闍梨蓮忍…の弟子の禅林坊阿闍梨覚日の弟子となる、ってなってたけど、僧都ってことは覚日坊の律師(か禅林坊覚日)ではないみたいですね。そうすると、この人は鞍馬別当東光坊蓮忍ってことになるけれど、鞍馬の別当は僧都位相当なんでしょうか。(僧都っても大から権少まであるけど)
 
 どのみち『僧都』をどこから拾ってきたのか不明。
 なぜ蓮忍や覚日の名を拾わなかったのか。
 今までも散々あやふやなことしてるのに。
 
◆あと、清盛の落飾に身内が驚いてるのも白けるが…
叡山の座主呼んであれだけの坊主揃えて落飾式したのに身内が何にも知らないの???
普通に病床に呼んで剃って貰ったとかならともかくさあ。
 時子が一緒に落飾したのを美談みたいに言うのも、それ、当時は別に当たり前だから…。
 
◆滋子は妙なタイミングで描眉になってたが…
この、眉のこともすごく「ただの化粧」みたいな捉え方なんでしょうね。
裳着の時に入れるものだから成人女性の象徴なんだとか、関係ないんでしょうね。
 ほんとになぜ彼女だけあそこまでグロテスクにされなきゃいけないのか…。
 老けメイクはなおざりな癖に、なまなり鬼とかおはぐろとか、グロメイクだけは頑張るよね。


 
 なんかなあ。
 清盛や海賊さんたちや平家の公達の私服は悪趣味だとは思うけれど、それは自分とは嗜好が合わないだけのことで、自由にしてもらって構わないと思います。
 全部完全に史実に則してなきゃダメとは言いませんし、そんなんだったら最初からドラマなんか見ていません
 
 ただ、平安時代を扱う上で有職故実(服装に留まらず、日常作法、儀式典礼、官職位階、足の運び方から宮殿の建築まで、あらゆる事に及ぶ規定慣例)を軽視するという事は、そも平安時代を描く意義すら危うくすることじゃないでしょうか。
 それが、彼らの世界を形作る大きな柱のひとつだったからです。
 キャラクターを造り動かす上で、個人や社会の価値観を考慮に入れないなんてことありますか?
 
 だからせめて、要所要所で「ここだけは守らなきゃだめ」というコアだけは押さえて欲しい。
ただその為には当然ある程度知識は必要だと思います。
 その上で、当時の人々の価値観について考慮して頂ければ、どこに力点を置けばよいのか、
自ずと定まってくるものだと思います。
 
 今回の大河は、まずその作業が欠けているのではないでしょうか。
 有職装束に対する知識ゼロ、
おそらく大雑把にイメージできる範囲すら異国の方以下の貧しさ、
というところからスタートしておきながら、
いきなりマイナー装束おしゃれアレンジ(笑)に走ろうという蛮行を、誰も止めなかったのでしょうか?

 そもそも有職装束に必要なのは

 『コーディネイター』であって、

 『デザイナー』ではないのでは。

 少なくとも己のエゴを主張しなきゃ死ぬとでも思っているような、
その為に過去の遺産を蹂躙しまくったことを蒙昧にも公に喧伝して恥じないような困った人ではなかったのでは。

 
 本当に残念です。


[袈裟・法衣の目次]
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大河の後白河さん御落飾記念ということで『上皇御落錺部類』から引いてきました。
といってもいつ録画見るかわからないし、たぶん剃髪シーンなんか一瞬だろうし、自力でおいしいとこを調達…。
 
『兵範記』の引用部分には特に仔細が書かれていますね~。
もう少し法衣について詳しく書いてあれば嬉しかったのですが。

 御剃髪の次第をまとめると、
 
○上皇が御簾内から外の御座につく。
○剃手の僧が御髪を左右二つに分け、紙縒(こより)で縛る。
○御衣(このときはまだ俗服の布袴)の襟をくつろげ、湯帷子を肩に掛ける。
○二人いるうち、上位の剃手がまず左の御髪から剃る。下位の剃手がお湯を懸けて濯ぐ。
 この時、頭頂部をわずかに剃り残す(周羅髪)。
 (剃っている間、梵唄あり)
○紙縒で束ねた二房の御髪は檀紙に包んで、左右を書いた名札を付ける。
○下位の剃手がお髭を剃る。
○剃り終わると上皇は御簾内に戻り、布袴を脱いで法服を召す。
○お召し替えの間にささっとその場をお片付け。
○再びお出ましになった上皇の周羅髪を、戒師が剃り除く。
○法名を定める。(『行眞』は後白河さんが前から決めていたもの)
○戒師が袈裟を授け、法皇は捧げ持ち一拝、一度戒師に返す
○戒師が法皇に袈裟を着せ懸けて、威儀の緒を結ぶ。
○戒師が念珠(菩提樹の実と水晶のもの)を授ける。
○沙弥十戒、菩提戒を授ける。
○法名を授ける。
○法皇が御簾内の御座に戻る。
 
という感じのようです。
後略のあとはまだ御修法が続くのですが、今回は御落飾の部分メインということで。
なお『逆修』とは、生前から自身の冥福の為に供養を行うことです。
 
名が省略されているので付け足し。
当時の大臣は
摂政 藤原基房
太政大臣 藤原忠雅
左大臣 藤原経宗
右大臣 源雅通
です。

凡例:()傍注、(イ)異記、[]割注
**********************************************
上皇御落錺部類
 
後白川天皇
 
《百練抄》
嘉應元年六月十七日。太上天皇御出家[御歳四十三。]御戒師前大僧正寛忠。法名行眞。自今日被始御逆修。
 
《玉葉》
嘉應元年六月十七日壬寅。時々雨降。今日上皇御出家也。所被始御逆修也。限以五十ヶ日云々。一向被逐保延鳥羽院例也。下官自去正月依所勞籠居。雖尚不快。依爲天下之大事相扶出仕。午前着直衣。[隨上臈冠。]參法住寺殿。候公卿座。先是内府。新大納言[隆季]等在此座。自餘公卿徘徊便所云々。大和國。左府候御前座。已有御出家云々。彼(イ仍)兩人早參。仍被召御前。余内府等遅参故無召云々。頃之少将光能來臨[人々多參御所方。仍招光能。]問云。御布施歟。答云。未事訖。令申御參之由畢(イナシ)事始畢(イナシ)。於着座者。只今不可然同事也。御布施之時可申之由。有其仰云々。卽光能來云。事畢云々。仍余内府已下參御所方。[其所当方御懺法堂也。經□殿南□參也。]先五位院司光長取被物。授大和國戒師布施。次事了。此中有装束二具。前大納言實定。新大納言隆季取之。是保延之例也。奉行成頼卿進云。永治之時於御装束者。大納言上臈取之云々。實定隆季暫相讓之間。左府早可進之由示實定。仍先取之。次隆季取之。次泰經[五位也。]取被物櫃。左府須上臈。次第取了。[相國左府竝歸着御前座了。]次顯方[五位]傳被物。余取之。唄下臈法印憲覺也。着座次第了。次内府已下剃手上臈尊覺取了。内府又着座。次實定已下公顯之布施取了。次各從僧等參進取布施等了。次僧退下。次公卿退各着便所。次打僧集會鐘。次僧等參集。次光能來仰可始之由。之相國示也。成頼云。先例以鐘聲公卿參着也云々。而相國尚入來可仰之由示也。仍仰之。卽相國已下參上着座。次僧侶參。次堂童子二人。[一方也。]盛隆兼光着座。次唄。次分花筥。次散花。次説法。未事了。余依所勞更發退出了。今日攝政早參早出云々。是日來發心地所勞。今日發日和勞之故云々。今日戒師。[三井寺長吏前大僧正覺忠。]唄。[法印公舜。法印憲覺。]剃手。[法印尊覺。法印公顯。]
 
御逆修僧名
 (三)法印禪智。
 (三)憲覺。[但護摩師也。不着座。]
 (三)尊覺。(山)實寛。
 (三)公顯。(山)僧都隆憲。(山)法眼顯智。(三)觀智。
 (山)律師良明。
 (三)法橋實慶。
 (山イ重)尊量。智秀等也。
 
 攝政太政大臣奉行。左府。余。内府。
公卿。
 大納言公保。 隆季。
 實房。 中納言邦綱。
 宗家。 資長。
 兼雅。 成親。
 忠親。 時忠。[此不露見也。]
 参議資賢。 成賴。[奉行。]
 宗盛。 實綱。
 前大納言實定。 前中納言光隆。
 光忠。 非参議俊成。
 俊盛。 實家。
 定隆。 朝方。
 
今日先有御奉書。使成賴(イ卿)。作者俊經。淸書朝方。次御隨還祿。廳官取之云々。將曹以下仰可令候本府之由。重近兼賴等被仰可令候召繼所之由云々。保延之度。此條不被仰。追仰(イ三字ナシ)歟云々。隆季卿語也。隆季又語云。今日御隨等不帶劔云々。未知其故。又内府不帶。
 
《兵範記》
嘉應元年六月十七日壬寅天陰。今日太上皇令遁世給。御年四十三。追鳥羽院例。此四五ヶ年雖有御願。于令遅引。宿善期至。令逐素懐給也。於法住寺御所御懺法堂有其儀。兼奉仕御装束。其儀。御懺法堂西面母屋并南(西カ)面兩面廂懸御簾。鋪設莊嚴具見指圖。
院司修理大夫俊成卿。左少將光能朝臣。兼日奉仰致其沙汰。且隨御所便宜。且准保延七年例所奉仕也。
今朝左中弁俊經朝臣持參御報書草。院司右中弁長方朝臣奏聞。[入莒。]卽令皇后宮權大夫朝方卿淸書。御覧了又給長方朝臣。納朴函以檀紙四枚。[各重二枚。]褁立押合。前後結中如常。表褁了又進上。次修理大夫賜之。令院司權中納言成親卿被獻内裏。判官代藤原光章給莒主典代大藏少輔基兼於中門外又給函相從。權中納言引率判官代主典代逐電参内。於大内頭中將相逢奏御報書。次内乱納御厨子。次權中納言以下歸參。報書使進發之後。長方朝臣賜御隨身祿。左右將曹秦兼任兼國各六丈絹四疋。府生秦賴文中臣延武各同絹三疋。番長秦公景兼宗各同絹二疋。主典代等取之。近衛六人各手作布二段。廳官取之。修理大夫仰云。各可候本府。次將曹以下退出。
御報書事。永治例。右少弁朝隆奉行。左中弁顯業朝臣草之。右少弁朝隆淸書。院司權中納言家成卿爲御使。
 今度作者淸書御使。併爲彼子息。吉例相叶。自然之前表也。
今度御報書有裹紙。其上巻禮紙二枚。又巻一枚。次入莒以檀紙四枚[各重二枚。]裹之。結中如常。巳刻。攝政殿太政大臣。[忠。]左大臣[經。]右大臣。[兼。]内大臣。[雅]以下。納言。前納言。參議。散三位廿六人參入。依召殿下令參御前給。有御對面。次殿下令退出給。日來令煩發心地給。已有御氣色云々。
午刻。前大僧正覺忠。[香染法服令着衲袈裟。]法印公舜。同憲覺。尊覺。公顯。[已上四人宿装束平袈裟。大僧正以下作五人宿房遠。又依別仰自去夕參宿近邊。大僧正令宿熊野御精進屋鄺給。參上御所之間。乗手輿。從僧歩行。]參上暫被候西廊。
未尅。上皇自東廊御所渡御西面御所。[御装束布袴。]先御坐母屋簾中。次太政大臣。左大臣。依召候御前座。次被召僧徒。前大僧正爲戒師。公舜。憲覺爲剃除。此外法橋實慶。阿闍梨眞圓。同源猷。爲勤雜役祗候北廂障子外。[大僧正以下于役人併八人。皆爲園城寺門徒。叡慮之所及凡夫難知云々。]次戒師從僧參三衣莒置掖机上。次戒師(三字ナシ)。上皇出御御簾外御座。次於南面御拜。[永治例云々。]次戒師着説戒座灑水。次三禮唄。次打磬表白。次請和尚文。[在答。]〔請阿闍梨文。在答。〕次御拜。先太神宮。次八幡。次鳥羽院陵。次待賢門院御墓。各向其方兩段再拜云々。[先例多召人笏。今度被用元御笏云々。]次流轉三界中頌。次髭毛爪皮文。次善哉大丈夫頌。次歸依大世尊文。次雜役僧等持参雜具御脇息。實慶法橋打敷。眞圓阿闍梨御手洗。源猷水瓶。又實慶御髪剃莒。又眞圓御湯帷御手巾等。又源猷。[已上置御座邊并打敷上。]此後雜役三人僧相替勤之。次上皇取御髪中。次剃手結分左右御髪。[用紙捻。]次令開御衣襟給。[頗袖下以御湯帷令引懸御肩上給。]次上臈剃手尊覺奉剃左御髪。下臈剃手公顯奉懸御湯。此間下臈唄師憲覺唱唄。次剃除了。左右御髪褁檀紙付札。[件札兼書儲云光能朝臣所作歟]。次下臈剃手奉剃髭鬚。[御剃髪之間。和菊奉懸之。]次法皇入簾中。脱俗服令着法衣給。次供御手水。此間僧徒撤雜具投具。御髪暫置御同厨子。次法皇取御袈裟出御。次戒師奉除周羅髪。[件周羅髪頂三五莖殘者見戒律作法云々。]次定御法名。行眞。次戒師置袈裟袖上。頌文。大哉解脱服。以御袈裟奉授法皇。以左右手令受給。次捧御袈裟一拜卽返給。戒師如此三反了。法皇令着給。[永治寛遍法眼奉結御袈裟緒。今度尊覺法印結之。]次召御念珠。[菩提子水精装束念珠。戒師被獻云々。]次遇哉値佛者偈。次奉授沙彌十戒。次説戒相。次神分。次廻向。次令授菩提戒給。被授申御法名。[行眞。]日來被案撰哉。次法皇入御簾中次戒師復本座。次巻南廂御簾。次給布施。
先戒師。
 綾被物一重。
  太政大臣取之。判官代盛隆傳之。
 布施二裹。[絹裹白布各七反。]
  民部卿光忠。治部卿光隆取之。
 布袴御装束一具。[裹白絹裹。當日着御之御装束也。脱御之後帖之裹調也。]
  皇后宮大夫實定取之。
 直衣御装束一具。[同裹。]
  權大納言隆季卿取之。
 鈍色装束一具。
  権大納言實房卿取之。
 長絹二裹。[各五疋。]綿二裹。[各百兩。]
  已上四裹權中納言邦綱以下取之。
次唄師二口。
 各綾被物一重。
  左大臣。内大臣取之。[判官代光長奉經傳奉之。]
 布施一裹。[各白布五段。]
  参議散三位取之。
 鈍色装束一具。
 長絹一裹。[五疋。]綿一裹。[五十兩]。
  已上納言已下取之。
次剃手二口。
 被物以下色目同前。
  公卿侍臣次第取之。
次事了。戒師以下退下。
此間以蔵人頭右中將實守御願逐了之由被申大内。[修理大夫奉仰。於渡殿邊仰之。]
 寛平法皇御遁世之日。以院司中納言被奏聞。萬壽上東門院御遁世日。以藏人頭被申大内。永治依吉例。以頭中將教長被申大内。今度依彼二代吉例。被用頭中將也。
次被始御逆修。
【後略】
 
**********************************************
 
底本:
『上皇御落錺部類』 所収「続群書類従 第26輯上 釈家部」(塙保己一編纂/続群書類従完成会)1926
 
[袈裟・法衣の目次]
先日、御引直衣をちょこっと描いたのですが
バストアップで…

引いてない全然引いてない!!と不完全燃焼だったので
描いてみました。
御引直衣01
御引直衣02
御引直衣、童形。
 
御引直衣は帝の日常着です。
もともと、帝の内々の御料で、直衣を帯を用いずに着たものでした。
下げ直衣といい また放ち直衣ともいいました。
そのため、普通の直衣よりもかえって裾は短かったそうです(「禁秘抄講義.」)
しかしこのまま御簾内から御出ましということになるとやっぱり具合が悪い。
そこで徐々に体裁が整えられていったようで、略儀と晴儀ふたつのパターンが出来ました。

清涼殿は臣下にとっては厳儀を求められる場所であるのに
帝にとっては日常生活の場でもあり
くつろぎ着が高位の装束にすり替わってしまうという。
御衣のふしぎさというか おもしろいところですね。
 
 
晴儀での構成は、
袍(うえのきぬ)
 ・引直衣(長く仕立てた直衣)
 ・当帯(直衣と共布)
下具
 ・長衣(ながのころも)裾長に仕立てた衵。
 ・長打衣(ながのうちごろも)同上、張りを出す加工を施してある。表からは見えない。
  衵を二枚重ねするので、合わせて二つ衣ともいう。
 ・長単(ながのひとえ)裾長の単。
 ・張袴 表袴。
 ・長袴 下袴。下着。
 ・大帷子(おおかたびら) 襟付きの肌着。
他に、笏、檜扇、帖紙、外出時は挿鞋を履く。
髪型は上げみづらに夾形(リボンのような細帯)を結ぶ。時に被髪。
 ※成人の場合は垂纓冠(後世は立纓)。
 在位中は冠のみ着用で、烏帽子を被ることはありません。

御引直衣の型は、ふつうの直衣の裾を丈長に仕立てただけで
襴や蟻先(裾にくっついてる四角)もそのまま残っています。
衣紋道の方がきちんと裾を整えるときは、上の図のようにびしっと四角にするようです。
 
下に重ねる装束(下具)は
長く仕立てた衵も袴も二枚重ねで、内に着るものは「打衣」といって、
張りを出す加工をしてあります。着重ねて形を整えるためのものでした。
 
 
童形と成人とでは、全体的に小さく仕立ててあるだけで、違いはないようですが、
年齢によって色味に違いがあります。
 
御引直衣に限りませんが、若年のころは、『二藍』の赤味を強くするのがお約束で、
幼少時は紫がかった紅。(衣紋道の高倉流では、四十以下はみな蘇芳)
二藍とは、特定の色を差すのではなく、紅(呉藍、くれない)と藍(蓼藍)、
二つの藍の染め具合によって変わるグラデーションを指します。
四十歳になると紅を使わない、藍だけの縹(はなだ)となります。
 つまり、紅い程若い、幼いということで、縹は大人の色でした。
 
冬の料だと、表の白綾に裏地の紅がうっすらと映ります。
夏の料は、直衣を裏無しの顕文紗に替え、冬の料の裏地と
衵(衣・打衣)も裏地を除いた『引倍木』とします。
 
略儀ではかなりばっさり下具は省略してしまい、
引直衣の下は、大帷子(半襟付き単衣の下着)と紅生絹の袴だけになります。
 
なお、衵と単については、白か紅染かは任意とのことで
上に描いた色目とは紅白逆の場合もあると思われます。
 
 
なお、「濃装束」といって、童形や未成年のうちは
衵、単衣、袴など お約束で紅に染めてあるものを
濃色(こきいろ。深い紫紅色)に代えることがありました。
殿上童の装束についてはこれが適用されていたようなので
童形の御引直衣にも、濃色が使われていたかも知れませんが
きちんと確認出来なかったので今回は見送りました。
ううーん。描いてみたいけどなー。
 
 
参考資料:
「有職故実図典-服装と故実-」(著・監修/吉川弘文館)
「有職故実大事典」(同上)
「原色日本服飾史」(井筒雅風/光琳舎出版
「宮廷の装束」展図録(高倉文化研究所/京都国立博物館)1999
「日本の色辞典」(吉岡幸雄/紫紅社)
「素晴らしい装束の世界-いまに生きる千年のファッション-」(八条忠基/誠文堂新光社)
「平安文様素材CD-ROM」(八條忠基/マール社)
『雅亮装束抄』
「新校群書類従 第五巻装束部(一)」(内外株式會社)所収
『法中装束抄』『法体装束抄』
「新校群書類従 第六巻装束部(二)」(内外株式會社)所収
 あまねく三千世界のみづら愛好家のみなさまこんばんは。
 只今みづら祭を開催中です。
 今回はフライング気味に、古墳からいきなり時代を飛ばして、趣向も変えてみました。
 
 筆者の愛して已まない童子みづら。
 今回は、同時期の小児の髪型をご紹介して、
 その中でみづらがどのような位置にあったかをお話ししたいと思います。
 そのため童子みづらについてはさらりと触れるだけに留めますが
 もちろんまた回を設けて、みっちりねっちりしんねりうっとり語らせて頂く所存です。

 
 さて、今回は「髪型と通過儀礼」ということも少し見ていきたいと思います。
 
 古代から中世(だいたい、平安中期~室町時代)の髪型全体に云えることですが、
 そうそうバリエーションがあるわけでもなく、
 地味です。
 どのお子さんも、大概同じような髪型をしています。
 
 これには、まず理髪方法が限定されていたという理由があります。
 中古の理髪具は鋏(いまの糸切り鋏のような握り鋏)、小刀、鑷(けぬき)です。
 剃刀は僧侶が使うもので、俗人が用いるようになったのは桃山時代以降と言われています。
 結っても複雑な髷はつくらないし、複雑なカットが出来る道具もない。
 
 そしてもうひとつ、
 古代~中世の小児の髪型が、通過儀礼に関わってくるからです。
 
 と云うと分かり難くなってしまいそうですが、髪型だけではなく装束も含めて、
年齢に相応しい身形に変えていくということは、何も時代を限ってのことではありませんよね。
 そのことどもが折々の祝いとして儀礼化していき、時には公的な行事として、晴れがましく執り行われました。
 いまも七五三の行事の中に名残を留めているものがあります。

 で、「身形を整える」ということは、服装と髪型を変えるということでもあり、
 この年齢ではだいたいこう、と決まっていました。

 さーて、本来なら髪置とか深曾木とかについてもお話しする予定でしたが
 なかなか調べものが終わらないので、
 今回は「あっさり編」ということで、とりあえずこの年頃はこんな感じ、というあたりを。
 生育儀礼それぞれの細かい事例や儀式次第は、「しっかり編」とでも題して
 後日またお送りしようと思います。

 
 
~あっさり編~
※だいたい、平安中期~室町時代くらいの、中流以上のお子さんについて述べています。
※年齢はあくまで目安です。

中古小児の髪風
 
■誕生■
  ◇産養(うぶやしない)
   生後三,五,七、九日の夜に祝宴が催されます。
   その間、湯殿始、粥啜、着衣始、と忙しなく執り行われる中で、
  ◆胎髪を除く ということが行われました。(お七夜に多く行われた)
   以降は三歳まで髪を伸ばしません。(ショートヘアか刈り上げ)
■五十日、百日の祝■
  ◇食初め、箸始め、色直し、真魚始など
   後には三歳、五歳でまとめて行われることが多くなりました。
■三歳■
  ◆髪置(かみおき、くしおき)
   髪を伸ばし始めるお祝です。
   平安時代はごく私的でささやかなものだったようですが、
   後には、
   父君が手ずから額に白粉をつけたり(室町時代)
   白髪に見立てた綿の付け物をかぶらせたりもしました(江戸初期)
  ◇袴着、着袴(はかまぎ、ちゃっこ)
   子供が袴を着けるようになります。
■五歳■
  ◆深曾木(ふかそぎ)
   伸びてきた髪を、成長を祝いつつ綺麗に剪り揃えます。
   平安末期からは碁盤に乗った子の髪を切り、終わってから吉方へ降りる風習が。
■七~九歳頃■
  ◆髪が伸びてくるので、適宜束ねます(束髪)
  ◇帯解 童装束の付帯を取り、別帯を結び始めます。
  ◇親王、内親王が始めて参内し、父帝のお目見えを賜うのはこのころです。
   (東宮など特別目を掛けられている場合は、これ以前に行幸を仰ぎ里第で対面することも)
■十歳頃■
  ◆もっと伸びると、男児は元結を入れて後頭部で結い、長く垂らします(垂髪)
   女児も垂髪に結うことがあったようです。
  ◆この頃から父兄について家の外へ出て働き出したりもしたようで、
   絵巻物などに従者として描かれる童子は多くが垂髪姿です。
  ◇牛飼童、車副など雑色に(世襲。職業によっては成人しても童形)
  ◆在京貴族の子弟で大内裏へお勤めにあがる者は「小舎人童」
   その中から貴顕の童子は清涼殿への殿上を聴(ゆる)されて「殿上童」に。
  ◆殿上童はみづらを結いました。
   (昼装束では上げみづら、宿直装束では下げみづら
  ◆身分が低くても、行事の際に臨時の殿上童となることがありました。
   (節会で舞ったり、勝負事の点数係をしたり、竜頭鷁首に乗ったり)
   この際は下げみづらを結いました。
  ◆女児は女童(めのわらわ)、女房見習いとして、母や姉などについて出仕。
   宮中であったり、主家筋の奥向きであったり。(※下級女官の女孺とはまた別)
   正装の場合、両耳の上でひと房ずつ結んだこともあったようです。
  ◆大寺院へ行儀見習いへ出されて「兒(ちご)」に。
   基本的に垂髪ですが、鎌倉時代以降は『唐輪』という髪型に結う姿も見られます。
   兒も法会などで舞を奉納する場合は舞装束に下げみづらを結いました。
■十一~三歳頃から遅くても十六、七歳■
  ◆理髪加冠(加笄)
   元服の儀です。男児は髻を結います(余分な髪は切る)
   この時女児は仮に髻を作り(髪上げ)、笄を挿します。
   これは上代の結髪風俗の名残です。
          また、裳を着け始めます(裳着)

(おまけ)
◆女子は十六歳ほどで、鬢批(びんそぎ)をします。
額髪(長く伸ばした前髪が顔の横に掛かっているもの)を、
肩から胸の高さで左右ひと房ずつ剪り揃えるものです。
許嫁者がいる場合はその男性が、居ない場合は父兄や後見人が鋏を入れました。
これより先に結婚している場合は、結婚後に鬢批をします。

ざっくりまとめると、こんな感じだと思います。
つづきに参考資料。


◆◇みづら祭の目次◇◆
また大河。
今回はちょっと重傷で

五節の舞についてぶつぶつ言いながら見てたら
予告に

古代みづらを結った舞童

が出てきた。
申し上げるまでもなく逆名はみづらが好きです。
いちばん好きなのが下げみづらで
そもそも装束関連のしらべもののおもしろさを知ったのは、舞楽装束からでした。
高校生の時、蘭陵王の資料が欲しくて図書館に行き
「原色日本服飾史」に出逢って
童舞の迦陵と胡蝶に一目惚れをしたのでした。

そういう経緯があるので、童子みづらと古代みづらが
一緒くたにされてしかも童舞に使われるなんて見るに耐えません。
しかも NHK 大河ドラマ で。
別に日本人として常識だとか思っているわけではないけど
辞書を引けば、古代男性のみづらと子どものみづら
別物だというのは載っている事だし ものによればちゃんと図版もあります。
資料がなかったとかで逃げられるようなことでもない。

もうこうなると視聴率の低さが救いです。
とくに舞楽についてあまり御存知でない方には御覧になって欲しくない。
あれが普通だと刷り込まれちゃったらと思うとつらい。


で、ぐるぐるしまくって、でも、逃げたって解決しないからと
みづら祭で今後予定していた「中古小児の髪風」を前倒しにして書くことにしました。
祭の中の流れとしては、同時代のお子さんの髪型の中で、みづらがどういう位置づけであったかを見ていくのが狙い。
というあたり。
で、この作業に取りかかってからはだいぶ棘が抜けて楽になりました。

肝心の記事はまだあと少しというところですがw

お陰さまで、録画でですが舞の部分を見ることができましたw

結果、

童舞じゃなくて、なぜか童舞に似た何かに扮装した滋子だったという…
なんかみづらがどうこうっていう問題じゃなかった。もう。

滋子!!!!
なんで滋子ばっかりこんな目に遭うんですか!?
なんで滋子ばっかりへんなものを着せられるんですか!?
そういう役回りなんですか…(泣)

で、舞なんですが、何かよく解らない杖を持って舞っている。
みたことないけどなんなんだろう、と思ってたら、舞終わって
「大酒飲みが」「彼の国の王がつくった」とか台詞である。
つまりこれって
胡飲酒(こんじゅ)っていう設定なのか。
でもなんか、知ってるものと大分違う………。。。

いや、装束が左舞の色で天冠つけていたから迦陵か、と思ったんだけど、羽はない。
それであと童舞の選択肢としては、陵王や還城楽などの走舞なのか。
童舞で走舞の類を舞うときは、通常つける面や牟子(頭巾)を省略して天冠に代える。
しかし、走舞だとすると、裲襠をつけていないのがおかしい。
(それに裲襠の色や模様で曲目が判断できない)
大体これ、着ている袍自体、舞装束ではない。
似た生地を持ってきてはみたらしいが、文が間違っているし、織模様と刺繍との違いもある。

仕立ても、これは蟻先のある縫腋の袍、衣冠の仕立て。
ふつう舞装束は武官の闕腋の袍に倣ったつくり。雅楽寮の伶人は衛府の官も兼ねる。
辛うじて下襲の裾は引いているけれど…。

大河 平清盛 滋子の胡飲酒

面がなく持物が違って裲襠もないと何が何だかほんとうにわからなくなる。

それでも胡飲酒だという。

でも振りも胡飲酒じゃないよね…。
酔っぱらいの踊りなので、大きく伸びをしたり、おっとっと、てな鷹揚な感じ。
しかし滋子は謎の道路標識を持って、戦時下の御婦人がもんぺ姿で竹槍突いてるような感じ。

それでも設定としてはそうらしい。
『平家物語』延慶本に、
「建春門院崩御の事
 同七月八日、建春門院隠れさせ給ひぬ。御歳三十五。是は贈左大臣時信の御娘なり。法皇の女御、当帝(たうだい)の御母儀(おぼぎ)なり。
 先年不例の時、御願を果たさむとて、御歩行(おんかち)にて御熊野参詣ありけり。四十日に本宮へ詣で着かせ給ひて、権現法楽の為に胡飲酒(こいんじゅ)と云ふ舞をまはせてましましけるに、俄に大雨ふりけれども、舞を止めず、ぬれぬれ舞ひければ、宣旨を反す舞なれば、権現めでさせ給ひけるにや、忽ちに天晴れて、さまざまの霊瑞ども有りけり。
 さて、御下向有りて、幾程を経(へ)ずして、去んじ春比より御身の中苦しくして、世中をあぢきなく思し食して、去んぬる六月十日、院号御辞退あり。今朝に御出家、夕に無常の道に趣き給ふ。院・内の御欺き、何れも愚かならず。天下諒闇(てんがりやうあん)の宣旨を下さる。…」

とあるのを引いてきたらしい。そういえば雨も降ってた。ご覧のように滋子が亡くなるすぐ前のお話。
滋子もう死ぬのか。そんなわけないな。またいい加減に話をちぎってきたらしい。
病をおして参詣して舞って霊験があったっていう話が意味を成さず、
胡飲酒とも思えないものに成り果てている。
滋子を舞わせたかっただけっていうのなら、頼むから装束くらいきちんとしてあげて。
ていうか、別にコスプレなんかさせなくても、普通に女装束で舞の振りしただけかもしれんのに
わざわざなんで童舞にしたん?
現行舞楽で童舞を女性が舞っている写真みていけるとでも思ったの?
しかもそういう写真、目にしているならなんでみづらが古代?

しかし、この舞装束、一回きりの使用かどうかはわかりませんが
またかなり良い生地を無駄遣い。
生地にこだわる前にもうすこし見た目のそれらしさを着にしなよ。
普通ドラマとか舞台用とか、逆じゃないですか??生地より仕立てや着付け優先にならない?
というか、世の中にはレンタルとかも存在するわけでして。
一回こっきりなら借りて来たらいいのに、本物を。
雅楽会だっていくつもあるのに。
何で専門家の意見を聞かないんだろう。
部活ノリで内輪でキャアキャアいいながら楽しくやってる空気を大人に邪魔されたくないんでしょうか?



ふう…。
うーん、まだ愚痴続くので、あとは「つづき」にw

あとは…
こちらに出しそびれていたシロモノをw
八大童子より
高野の秘宝 八大童子立像(運慶作)より 美髪さんカモンッ!!!
矜羯羅(こんがら)童子さんと恵光(えこう)童子さんの二尊です。
あーこのくるくる、このくるくるとはねはねですよw
被髪がめずらしかった時代になんだなんだこの造形は!!
運慶さんは未来志向すぎる!!時空を飛び越えてる!!
くるくるさんなんて、どこのバー●ビー・ブル●クスJr.だよというね…。
それにしても、元ネタの方は復元色で塗るんじゃなかったかな!!とちょっと後悔!
ふくふくむちむちだw つくりがリアルすぎてww
ほんとに誰の意向なんですかこれ、さすが高野六十那智八十ですねとかいうオチですか!?


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最近、拍手ボタン押して頂けることが多くて嬉しいですありがとうございます。
お礼画面に個人的萌絵ばかり仕込んであるのでお嫌いな方には返って御不快だったかとも思いますが(汗

コメントを頂戴していますので、ここでお返しさせて頂きます。
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◆> 07/28 08:20 【色々勉強に…】 さま。 ありがとうございます。もっと精進いたします!

◆> 08/05 18:31 【『左記』序文へコメント頂いた方】 左記序文についてはいづれ訳も載せようかと思っていますが、本文の方には序文のような内容が見られず(散逸か)儀式次第ばかりになるので、今のところ公開は考えておりません。

◆> 08/14 15:51 【すてきな…】さま。 お気に召したなら光栄です!

◆> 08/16 20:50 【おさげもみづらで良い.んですね..】さま。 今は髪が長いのは女性という風になっていますしね。ただ、首の後ろでなく耳の上で結ぶって言うのはちょっと不思議ではありますよね。

◆> 08/16 20:42 【角髪ってこんなに長い.んですね..】さま。 長いのです。びっくりですよね。人によっては重かったろうなあと思います。

◆> 08/22 15:14 【昨日、ツイッターでご挨拶...】さま。 うぉ~~!!こちらへも御言葉ありがとうございます!(///) どこかにはそういう方もいらっしゃるはずだと思って書いていましたので、実際みづら愛に溢れた方にかまっていただけるともう感無量であります!みづら!ラブ!

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管理人紹介
HN:逆名[サカナ]
HP漁屋無縁堂

無駄と斑の腐渣。
らくがきと調べ物が趣味の
風俗文化史好き歴史オタク。
人物志より文化史寄り。
イチ推しはみづら
(美豆良/鬟/鬢頬/総角)。

中古日本史、東洋史、仏教史(仏教東漸期の東アジア、平安密教、仏教芸能、美術、門跡寺院制度等)、有職故実、官職制度、風俗諸相、男色史。古典文学、絵巻物、拾遺・説話物。

好きな渡来僧:婆羅門僧正菩提僊那、林邑僧仏哲
好きな法皇:宇多法皇
好きな法親王:紫金臺寺御室、北院御室
好きな平氏:重盛、経盛、敦盛
好きな法衣:裘代五条袈裟
好きな御衣:御引直衣
好きな:挿頭花と老懸を付けた巻纓冠
好きな結髪:貴種童子の下げみずら
好きな童装束:半尻、童水干
好きな幼名:真魚(空海さん)
好きな舞楽:陵王、迦陵頻、胡蝶
好きな琵琶:青山、玄象
好きな:青葉、葉二
好きな仏像:普賢・文殊(童形)はじめ菩薩以下明王、天部、飛天(瓔珞天衣持物好き)

やまとことばも漢語も好き。
活字・漫画・ゲーム等、偏食気味雑食。

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