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深度三,三三糎の心の海から湧き出ずる、逆名(サカナ)のぼやき。
 
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当ブログに掲載した装束関連記事の目次です
【2013/11/15最新】

【個別に目次が立ててあります】
みづら祭の序 (附目次)
袈裟・法衣の目次

【装束の領(襟)について】
領(えり)のはなし~中国篇
領(えり)のはなし~古墳壁画・埴輪に見る女性装束篇

【冠・烏帽子・幞頭(ぼくとう)について】
冠と烏帽子メモ+らくがき
唐代の幞頭とそのバリエーショ

太子の幞頭拝見します!ほか

【いろいろ】(新↑↓古)
有職文様・かさね色目の参考資料について
わたしの好きなみづらランキング とらくがきまとめ
らくがき詰め合わせ【みづらも詰め詰め】
らくがき詰め合わせ(おじさん多め)
袍(うえのきぬ)/【追加補足】狩衣のこと/萎装束と強装束/冠下の髷/江戸時代の幼児の髪型 (Twitter再録)
御引直衣(童形)

Twipicらくがきまとめ+(唐輪-牛若丸の髪型)
*みづら祭*中古小児の髪風(あっさり編)
『新・平家物語 静と義経』
TOP絵更新・童女の汗衫

【洋装】
『ローマ法王の休日』から、祭服いくつか

洋ものらくがき


【Twipic】http://twitpic.com/photos/sakana6634
【pixiv】http://pixiv.me/sakana6634
イラストはtwipicにupしてからブログに掲載することが多いです。
また、全てではありませんが、pixivにもupしています。画像はこちらの方が見やすいかも。
 ただし、腐ネタやオリジナル創作も含みます。

【Togetterまとめhttp://togetter.com/id/sakana6634
色々ぶつぶつとつぶやいているねたのログ。
しっかりした論考ではない単なる自説開陳の場合も多いです。
これまでの装束関係まとめ

装束小ネタ~院政期の流行、強装束と置眉)
【装束小ネタ】うえのきぬ ざっくり。
袈裟・法衣雑感まとめ
【装束小ネタ】女性装束篇~裳のはなし他
【メモ】養蚕について(宮中養蚕・山蚕など)
【装束小ネタ】みづら篇~『角髪』表記について、美豆良と総角について
【装束小ネタ】みづら篇~古代美豆良表現の変遷、続・美豆良と総角、謎の『ひさごはな』



【紹介とサムネイルつき目次】
タイトルとサムネイルをクリックすると掲載記事へ飛びます。

まとまっているものはこちらから。

みづら祭の序 (附目次)
 古代の髪型「みづら(美豆良)」について。
埴輪などの古代のみづらと、平安以降の童子のみづらは区別しています。
みづらの説明 
 
 
 
袈裟・法衣の目次
 
僧侶の着用する袈裟・法衣について。インド~中国~日本での変遷など。
※筆者の贔屓は平安仏教です。
 袈裟の変遷(1)
      




【領(えり)のはなし】
 装束の領に注目してみたもの。

領(えり)のはなし~中国篇
日本の時代装束のルーツでもある、中国の服飾を調べてみました。
漢服・胡服について大雑把にまとめています。
 

領(えり)のはなし~古墳壁画・埴輪に見る女性装束篇
古墳時代の日本・朝鮮半島の装束の一例(想像図)
 
このシリーズは取り敢えず狩衣や束帯あたりまでは行きたいです。



【冠・幞頭・烏帽子関連】

冠と烏帽子メモ+らくがき
 自分が描くときのTIPSです。
 

唐代の幞頭とそのバリエーショ
 唐代の幞頭(ぼくとう)の被り方や巾子の形のバリエーション。
 日本古代の参考にも。
 

太子の幞頭拝見します!ほか
 聖徳太子図とされる肖像にみる幞頭。これが冠のもとになります。
  


【個別の装束ネタ、らくがきなど】
下に行くほど古いです。
わたしの好きなみづらランキング とらくがきまとめ
  

らくがき詰め合わせ【みづらも詰め詰め】
  
らくがき詰め合わせ(おじさん多め)
  

袍(うえのきぬ)/【追加補足】狩衣のこと/萎装束と強装束/冠下の髷/江戸時代の幼児の髪型 (Twitter再録)
  

御引直衣(童形)
天皇の日常の料である御引直衣について。主に童形なのは幼主好きだから…。
 

Twipicらくがきまとめ+(唐輪-牛若丸の髪型)
よく牛若丸(遮那王)が描かれるときに結っている唐輪(からわ)という髪型についてなど。
 

*みづら祭*中古小児の髪風(あっさり編)
みづら祭の一環ですが、みづら以外や生育儀礼についても触れています。
増補改訂中古小児の髪風 

『新・平家物語 静と義経』
吉川英治原作/島耕二監督/淡島千景主演の映画を観ての感想とらくがき。
 
ちなみに、溝口健二監督/市川雷蔵主演の『新・平家物語』のイラストは
【ツッコミ大河】武官装束の清盛とか

【ツッコミ大河】は2012年度NHK大河ドラマ『平清盛』への辛口感想…というか、好意的に観る気力もなくなった時点で憤慨をぶちまけているものです。作品ファンの方がご覧になる場合はどうかご了解下さいますように。
 主に法衣ネタツッコミが多いので(というかもうそこだけは本当に口を開かざるを得ないくらい辛かった)『袈裟・法衣の目次』のほうにリンクをまとめてあります。

TOP絵更新・童女の汗衫
 
汗衫(かざみ)、意外にアクセスがあります。


洋装
『ローマ法王の休日』から、祭服いくつか
映画『ローマ法王の休日』を観て書いた、法皇と枢機卿の衣装(祭服)
Habemus Papam 

洋ものらくがき
  
洋装はあしとかちちが描けるのでいいですね
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twitterでつぶやいてはいたものの、こちらに書き忘れてた装束小ネタのまとめです。

【うえのきぬ ざっくり。】

 
※本来「うえのきぬ」は『袍』を表す言葉ですが、ここでは『表衣』の意味で狩衣水干直垂も載せています。
 とくに、腋(わき)や裾の違いにご注目。


◆闕腋袍と縫腋袍
 上段に並んでいるのが、平安初~中期頃までの官袍。身頃も袖も細身で、腋は微妙にくれているようです。(有職故実大辞典図版より)
 中段が院政期頃につくられた強装束から現行の官袍。
 腋が切れてストンとしてるのが武官が着用した闕腋(ケッテキ・わきあけ)で、腋が繍い合わされて裾まわりにオプションが付くのが縫腋(ホウエキ・もとおし)です。
 縫腋袍の裾まわり(襴/らん)は、裾に身頃より幅が長い生地を縫いつけ、余った部分を腋で襞にしています。これは、足まわりを隠しつつ動きやすくするため。次の【萎/強装束】にも書きますが、のち蟻先という形式に姿を変えました。襞になった襴を伸ばして外側に出し、糊を付けて四角く張り出させました。
 現行装束では糊は取れていますが、スタイルとしては強装束以降のものです。上辺を少し斜めに折り込んで縫い、下辺は縫い合わせていません。
 今でも、平安密教の流れを汲む法衣は入襴です。
 小直衣といって、狩衣のように肩まわりも腋も割れていながら入襴の、不思議な装束もあります。
 なお武官の闕腋袍はもともと襴が無く、襞のついた半臂を重ね着て腰回りを隠しました。
 強装束のころの闕腋では、後身頃の裾が長くしてありますが、縫腋も実際は後ろだけが長く(時代を追って少しずつ長くなっていた)それを腰のあたりで端折っています。
 束帯袍と衣冠・直衣袍では、この端折り方(はこえ)がちょっとだけ違います。
 一応、律令で定められた服色で塗りました(線が見にくくなるので明るめにしましたが)
 四位の深緋・五位の浅緋・七位の浅緑・初位の浅縹。
 平安ものの映像は黒い束帯(束帯も本来は深紫)が多めですが、実際は結構カラフル。時代が下ると色数減るけど…。画面に黒袍しか出ないってことは、一握りの上層部である公卿とか大臣とかしか描いていないということで。緋袍や縹袍や禁色許された蔵人の麹塵袍がうろうろしてたっていいと思うんだけどなあ。


◆狩衣
 狩衣は、闕腋袍(別名’襖/あお)の流れを汲み、もとは布衣(ほうい・ほい。ここでは絹以外の植物性の生地=布で作られた衣の意)と呼ばれた庶民服でした。…といっても当初は結構な一張羅だったと思われますが、生地や色、文様に決まりのある武官の闕腋袍を『位襖/いあお』と呼んだのに対して、貴人の狩りや野行幸に用いられたため『狩襖』とも呼ばれました。のち、官人の日常着としても使用が広まって形式化されました。

 肩がぱっくり開いているのが特徴ですが、袖の縫合部分が少なくしてあるのは、動きやすさと、パッと袖を脱いでしまえるように。もうひとつは、肩部分は破れやすいものだから、いっそ綺麗に取れて縫い直しもしやすいように、こういった形になったのではないでしょうか。
 ということは、狭い筒袖から段々と広袖になってきた過程で、こういった改変が為されたと考えるべきでしょう。筒袖で肩が割れていたって、サッと腕は抜けないんじゃないかなーと思うので…。
 袖についた括り紐も、キュ~~ッと引っ張って袖先を絞るためのものですから、ある程度の広さができた頃からのものなんでしょうね。
 もともと服制外の装束で、厳然たる決まりがあった訳ではないので、布衣の名の通り、本来は絹地ですらなかったものが、殿上人の平常服にまでなれば当然、絹織物や文様入りが作られ出して、室町頃には、本来女性の唐衣くらいにしか使われなかった二倍織物(二色で文様を織り出すもの)まで使われるようになりました。


◆水干
 水干は、狩衣をより動きやすくしたもので、襟を折り込んでV字に着たり(垂領/たりくび)するために、襟先に長い紐が付き、布の合わせ目の補強として菊綴が付き、裾は袴に入れて着たので短く仕立ててあります。裾を出して着ることもありましたが、狩衣より短くなります。
 これも当初は庶民の簡素な服装から下級官人の着るものになり、平安末期ごろから、下級官人である武士の台頭により装束の地位も向上し、だんだん華美になりました。もっとも華やかだったのは童子用の水干です。袖の紐を二重にしたり身頃を半分ずつ色違いにしたり、グラデーションに染めたり刺繍したり筆で絵を描いたりしました。


◆直垂
 直垂も、庶民服から武士の装いとして採用されたために地位を獲得した装束です。腋は縫われていません。それ以前の表衣と決定的に違うのは、襟を折り込むまでもなく垂領に着る「方領/ほうりょう」であることです。いまの所謂『着物』と同じ。まさにこれこそ上古以来の(公家の)装束との決別でした。
(※内衣(小袖)や女性の表衣については、もっと早い段階で方領になっていました。)

◆togetterでのまとめ
【装束小ネタ うえのきぬ ざっくり。】http://togetter.com/li/539180



【追加補足】
『倭名類聚鈔』(源順・撰 承平年中-931~938成立)衣服類の項目。

  • 縫掖
  • 缺掖
  • 半臂
  • 汗衫
  • 襴衫
  • 襖子
  • 裲襠
  • 背子[附領巾]
  • 裙裳[附裙帯]
  • 單衣
  • 袷衣
  • 大口袴
  • 奴袴
  • 布衣袴
  • 襁褓
の、計二十二項。
一見見慣れない装束名のようですが、
『縫掖』は文官の縫腋袍(ホウエキ/もとほしのはう)、
『缺掖』は武官の闕腋袍(ケッテキ/わきあけのはう)
で、「束帯」は平安中期に確立した袍着用のスタイルの名であって、衣自体はこう呼びます。
『襴衫』は和名が「奈保之能古呂毛(なほしのころも)」つまり直衣。
『襖子』は「阿乎之(あをし)」で、狩襖=狩衣やその原型と思われます。
また『布衣袴』の項に、「狩[※けものへん+葛]衣、加利岐沼、謂衣則袴可知之」とあり、『布衣(ほい・ほうい)』=『狩衣』の語もあったことが解ります。
水干の名はまだここには見えません。



【狩衣のこと】

◆狩衣着用の古い事例すこし。
【雁衣鈔】より、天慶六(943)年、蹴鞠での着用例
『吏部王記云。天慶六年二月廿九日。溫明殿前ニテ有[二]蹴鞠事[一]。當世得[二]其名輩[一]數十余人。布衣。烏帽子ヲ著セリ。[イロ庭上之事故如此歟]』
(群書類従所収)
 最後の注は、殿上ではなく庭でのことなのでこのような軽装も許されたのだろう、という意味でしょうか。
【日本紀略[淳和]】より天長六(829)年の紫野行幸での着用例
『天長六年十月丙辰、幸[二]泥濘地[一]、獵[二]水羅鳥[一]、御[二]紫野院[一]、山城國獻物、日暮雅樂寮奏[二]音聲[一]、侍臣并狩衣、[○下略]』
(古事類苑所収)
『侍臣并狩衣』の『狩衣』は、狩衣を着た鷹匠などを示すか。
【西宮記[臨時四]】より、延喜年間(901~923)野行幸での着用事例
『野行幸
天皇白橡[延喜御宇、天皇[二]右近馬●[一]、改[二]服直衣[一]、]公[一に王]卿如[レ]例、衛府着[二]弓箭[一]、鷹飼王卿、大鷹飼、地摺狩衣・綺袴・玉帶・鷂飼、青白橡袍・綺袴・玉帶。巻纓有[二]下襲[一]、着[レ]劔者有[二]尻鞘[一]、王卿鷹飼入[レ]野之後、着[二]行縢(騰サ下同)餌袋[一]、或王卿已下鷹飼、着[二]供奉装束[一][二]従乗輿[一]、云々、四位已下鷹飼、着[二]帽子[一]、臂[レ]鷹令[レ][レ]犬、列[一に引][二]立安福・春興殿前[一]、又王卿已諸衛及鷹飼等、装束随[二]遠近[一]相替、鷹飼入[レ]野之後取[二]大緒[一]、大鷹飼者結[二]懸腰底[一]、小鷹飼又同[レ]之、荒涼説就[二]記文[一][レ]註、
(中略)
延長[一に喜]年、大原野行幸時、衛府公卿以下、皆著[二]腹纏[一]、諸衛督將佐以下、著[二]狩衣、胡籙、腹纏、小手、行[一]、』
 (史籍集覧所収)
 腹纏=はらまき。前掛けのようなもの。胡籙=やなぐい。行縢=脛に巻くはばき。
(※鷹飼の狩装束参考 風俗博物館→http://www.iz2.or.jp/gyoko/ukai.html

 野行幸の頃の記述は、狩衣の本来の用途である狩猟用装束としての様子が偲ばれますね。


◆『布衣始』について
 天皇は在位中は冠のみ着用で、烏帽子を着けることはなく、つまり烏帽子とセットになる狩衣を着ることはありません。直衣着用の際は冠直衣(引直衣・上直衣どちらでも)です。
 退位して上皇となった後には、身軽な装いも可能になります。
 上皇の烏帽子・夜装束着用の初見は、『御堂関白記』の三条上皇の例だそうです。
 上皇が狩衣を着始めることを『布衣始』といいます。ただしこの言葉は平安時代にはまだ見られず、鎌倉時代、土御門上皇のときに初見されるとのことです。この後は布衣始の儀として儀礼化されました。
(※ちなみに似たような言葉で『直衣始』がありますが、こちらは三位以上の公卿が、勅許を得て直衣で参内し始めること、またその際に行う儀式のことです)
 以上、布衣始めについては、こちらを参照させて頂きました。
→『布衣始について』近藤好和(日文研リポジトリ)記事詳細 
[PDF] http://202.231.40.34/jpub/pdf/js/IN4201.pdf



【萎装束と強装束】

 
摂関期頃の文官束帯(萎装束)と、院政期に流行した強装束の文官束帯(絵巻等の図像からの想像図)
 摂関時代はまだ唐風(胡服)の名残をとどめて細身で、柔らかく身に沿う。院政期(鳥羽天皇の頃から)は糊を張りまくって、肩や袖を直角的に見せるのが流行りました。
バキバキ!!
 これを強(こわ)装束といい、旧来の柔らかいものを萎装束・打梨などと呼ぶようになりました。
 今回は強装束がどんだけ強いかという小ネタです。
 ただ、摂関期の方はほんとうに資料が少なくて、大いに想像入ってますので御注意ください。
 でももう少し萎え装束の研究が進んで、図版が教科書に載ってくれたりしたらいいなあ…。国語便覧の源氏物語なんかの横に。


◆冠
 摂関期の巾子は幞頭の名残でまだ太く大きく、高巾子というと『神さびた』ものだったそうです。幞頭参考→唐代の幞頭とそのバリエーション(過去記事)

 摂関期頃の纓(頭の後ろから垂れる)の先は円く、巾子の根本から垂れていましたが、院政期の纓の先は四角く、纓自体も糊が張られて硬く反りかえるようになり、巾子の元に差し込んで立てる穴が作られました。江戸時代には更に反る位置が高くなり、帝の料はついに垂直に立つ立纓(りゅうえい)になりました。(※明治天皇御影などをご参照あれ)
 ここでは文官しか描いていませんが、武官の纓はもともとくるっと巻く(巻纓)で、反り返り具合で時代がわかったりはしませんが、巻く位置は高くなっています。


◆袍
 まず、院政期の領(えり)は高いです。当時は現行のものより首周りが狭かったようなので、まさに、ハイカラです。ただ、高すぎて首が回らないので、首後ろは高く、喉元は低くと傾斜を付けていたようです。現行束帯でも少しカーブしています。領にはもともと、畳んだ和紙を入れていました(この部分を、頸上《くびかみ》を首紙とも書く由縁か)。かなり下った江戸後期になってしまいますが、『武家名目抄』には頸上に木を入れていたともあります。

 大きく見せる為に重ね着も多くして、更に糊を張った「打衣」で内側からも形を整えました。懐が膨らんだので、石帯はまともに締められなくなり、セパレート式になってしまいました。他にも裾や下襲が二部制になる等の改変がなされました。
 摂関期に比べて院政期は身頃の幅が広くなり、袖も広くなり、糊付けしてシャキーーン!!と菱形になっています。
 文官の料である縫腋袍は動きやすくするために裾に襴を入れましたが、院政期には襞を延ばしてしまい「蟻先」という謎の四角部分がくっつくことになります。
 下襲の裾(きょ)も時代毎に長くなっていました。この下襲の裾などに「おめり」が施されるようになったのも院政期です。裏地を少し大きく裁って折り返し、表の縁取りとしました。これは女性装束にも行われたもので、かさねの色目を引き立てるものでした。
 なお強装束では着付けが大仕事になり、着付け専門家「有職師」が生まれることにもなりました。
 どんだけ…。


◆男性の置眉
 貴族男性の涅歯点眉の始めについては「海人藻芥」に
『凡彼御代(※鳥羽院)以前ハ男眉ノ毛ヲ抜キ鬢ヲハサミ金(※鉄漿)ヲ付ル事一切無之』
 などとあります。
 これも、強装束の流行と同時期、同じ流れとみて良いでしょう。
 元服前後の若年は位置高く、太い八の字。上臈は上先端が丸く太く、下に細くしてぼかす。下臈は下端を跳ね上げる(ちょうど髭マークのような)。歳が長じると位置を低く、八の字から少しずつ水平にしていきます。最終的には横一文字に。
 平家の公達も置眉はしていたようです。
 公家=(丸い)まろ眉というのは、ほんとうはもっと後になってから。これにはおそらく、時代劇に出てくる江戸期の公家のイメージなんかが影響しているものと思われます。

 ほんと強装束って…一貫してるというか…なんでこうなっちゃったかねえ…。
 でも院政期の世も末っぷりをよく象徴していて、個人的にぜんぜん、ファッションとして、好きでは、ないのですが、やっぱりこの時代としてはこうだなあ、と思います。
 だから去年の大河の装束が、張ったりしないでむしろやわらかくしたがってたのは残念です。ストーンウォッシュよりまず糊付けだろうよ…。
 また、現行装束では、糊付けは激しくないものの、型としては院政期以降のもので、摂関期は今見られるものとはまったく別であった、ということは心に留めておく必要があると思います。
 …なにせ国宝源氏物語絵巻すら、強装束の時代に描かれてるから…モリモリなんだぜ…。
 
◆togetterでのまとめ
【装束小ネタ~院政期の流行、強装束と置眉)】http://togetter.com/li/503819



◆冠下の髻(もとどり)

 図像資料に出来るだけ忠実に書くと結構おもしろいことになってしまう。しかしほんとにこんなに細かったのかナー。
 貞丈雑記(江戸時代)の画を見ると髻が太くなっています。これは、ちょんまげの影響かなあ。
 もっとも、冠を導入した当初は、むしろ貞丈雑記の方に近いか、これも唐風に倣っておだんごに近いものだったんじゃないでしょうか。
 髻は百会(脳天)で結うので、髪が真上に引っ張られます。
 冠も烏帽子も内部で髻に固定される仕組み。
 髻が高いって事は冠の巾子もある程度高かったってことなんじゃないかな。
 なので、とくに冠を描く場合は、一度髻を立てて、髻を内蔵してる巾子の位置を確認してみるといいと思います。
強装束も男性の置眉もこの冠下髷も、「史実通りにやるとギャグ」っていういい例なので、ドラマとかではさすがに、ここまでやってくれとは言えないし、私だって絵的にどうかって聞かれると笑います。
TSHならやってくれるかもしれないし見てみたいなあ。



◆江戸時代のお子さんの髪型一例。


一部を残して剃る。残し方によって名前もある。
額に残す「前髪」
頭頂部だけ「芥子(けし)・けしぼん」
頭頂部の左右2箇所「唐子・ちゃんちゃん」
耳の上だけ「奴(やっこ)」後頭部だけ「盆の窪」等
これらを何種か組み合わせる。
生後七日目に胎髪を除き、幼児期は短くしておくことは古代から続いていたが、剃刀の普及によって、鋏で短く剪る→剃刀で剃るようになった。
子供は熱を発しているものと考えられており、その熱を発散させるためという理由で剃っていたらしい。


【参考資料】
▲「素晴らしい装束の世界-いまに生きる千年のファッション-」(八条忠基/誠文堂新光社)1995
▲「原色日本服飾史」(井筒雅風/光琳社出版)1998増補改訂
▲「有職故実図典-服装と故実-」(鈴木敬三/吉川弘文館)1995
▲「有職故実大事典」(鈴木敬三監修/吉川弘文館)
▲「日本結髪全史」(江馬務/東京創元社)1960再版改訂
▲「時代衣裳の縫い方-復元品を中心とした日本伝統衣服の構成技法」(栗原弘・河村まち子/源流社)1984
▲「王朝の風俗と文学」(中村義雄/塙選書22 塙書房)1962
▲「倭名類聚鈔 元和三年古活字版二十巻本」(中田祝夫解説/勉成社)1978
▲「新校羣書類従 第五巻 公事部(二)・装束部(一)」(内外書籍株式會社)1932
▲「史籍集覧 編外 西宮記」(近藤瓶城編/近藤出版部)1932
▲「古事類苑 服飾部」(神宮司庁古事類苑出版事務所 編 /神宮司庁)1914  
 →国立国会図書館デジタルアーカイブス

映画「パシフィック・リム」見てきました~。
なんだか私の周りでは異常に評価が高かったのですが
これはおもしろいわー。

なんというか、この年になると、もともとの性格もあるんだけど
素直に作品を楽しむっていうのがなかなか出来ない。
途中で手を止めて考察しちゃったり、重箱の隅つつきだしたり。
そういうのは正直疲れてるんだけど、もう習い性になっちゃってて、やめられないんだよね。

この映画は素直に楽しめました。
まあ、怪獣VS巨大ロボ映画っていっちゃえばおしまい、ほんとにおしまい。
すごくシンプル。でも、溢れる愛と作り込みは異常。
これぞ王道。
ハリウッド的な安直さかと思いきや、
怪獣もロボも詳しくなくても楽しめるし、詳しかったらもっと楽しめる。
シンプルかつ、奥深いのです。

感想を見て観る気になったもののひとつに、恋愛要素が薄めっていうのがあり。
メインカップルを不自然にくっつけようとするの、大体げんなりする邦画ではよくあるんだけど(中にはわざわざキャラクターの性別を原作と変えてまで恋愛要素入れてくる。これはほんっとうに最悪)
ロボット(=作中では『イェーガー』)の操縦は2人ひと組で行うので、パイロット同士の濃密な関係も見所なのですが
一応メインの男女いるんですけど、確かに恋愛要素は薄めで
その代わり、親子、夫婦、兄弟、師弟、同僚などなど色んな絆が見られる。

私の贔屓は、父子!
歴戦の強者な父ハークと、男手一つで育てられた息子チャック。
こいつが才気煥発高慢ちき。才能鼻に掛けてすんごい生意気。CV浪川はまりすぎ。
でもブルドッグ可愛がってたり、一目見てこいつ根は良い奴だっていうオーラが滲み出ちゃってて…
…実際良い子です。
あれよね、ほんとはパパが大好きで誇りなんだけど、越えられない壁だから。
ずっと反抗期かおまえ。
お父さんもかっこいいの、たまに育児に悩んだりしてるけど。
そんな二人がバディ。たまりませんわ。



かわいいよーかわいいよー。
※赤子は本編には出てきません
↓おまけのだっこひも。

もいっちょおまけで主人公のローリーとマコ。

ローリーが難しくて描けば描くほど似ないので色塗るの諦めた。
ううう~~ん。結構好きなんだけどなあ。

もう一回見に行きたい、今度は字幕で。
でもTSHとかもあるしなあー。うーん。

【9/5らくがき追加】

めおとロシア


みつごチャイナ

【09/18追記】

Stacker Pentecost
ペントコストさん。

Tendo Choi
テンドーさん。
ドーナツとかマグカップはうろ覚えですが。
今回は、日本と朝鮮の古代装束の領について。

hekigahaniwa_josei.jpg
 
 埴輪などの領を見ていて、盤領ではないのだが、方領とも言いにくいような気がしていた。方領(小袖類、いまの所謂『着物』の領のような)に似ているが真っ直ぐではない。首周りが丸く、襟が折れたり曲がっているからだ。
eri_kyokuryou.jpg

 で、古代日本と深い繋がりを持つ、古代朝鮮の装束について見てみると、『曲領』という言葉があったので(本来用途とは違う可能性もあるが)『曲がった領』という意味を頂いて、日本の埴輪や古墳壁画の装束の説明にも使ってみることにした。
 図にするとこうなる。→
 
 方領が斜めに下りていかずに、曲がっているのがお解り頂けると思う。
 
 まあ、ささいな違いではあるのだけれども、浴衣とVネックのカーディガンくらいは違うかな…と思う。
 何故、ここにこだわるかというと、和様の方領(直領)の装束の出現時期というものについて考える時、礼服として取り入れられた感服の方領か、この曲がった領のどちらか、或いは両方から派生したと考えるのが自然だと思われるから、そこのとこは細かく見ていきたいのだ。
 
 まず、高句麗時代の『双楹塚古墳』の壁画(5世紀末)から見てみよう。
 双楹塚古墳は、世界遺産高句麗古墳群のうちの一つで、現在の北朝鮮南浦特級市に位置する。内部に特徴的な二本の八角柱があるため『双楹』と呼ばれる。
 ここでピックアップしたのは群像中の一人で、次に挙げる女性埴輪と比較するために、頭上結髪・鉢巻き状の布・上衣下裳のものを選んだ。
hekiga01.jpg
 
 『襦』と呼ばれる筒袖の短衣で、後の『チョゴリ』の原型といわれる。Y字になった襟が、内側にカーブを描いて曲がっている。胸の中央で裁断され、衽はなく、襈(セン/襟や袖、裾にめぐらせた別色の布や刺繍の縁飾り)の分だけで重なっているように見える。
確認しづらいが、おそらく左衽である。
袖に隠れた腰の帯は別の人物像から推測した。
 赤い襈のある内衣が襟元と袖に見えている。
 下半身には裳をまとう。別の絵には、丈を長くした袍を着たり、腰裳(裙)を付けたり、裳の下から筒袴が覗くものもある。
 髪型は、二本の三つ編みを頭上に巻き付けた『オンジンモリ』で、成人女性の結髪である。三つ編みにしないでそのまま巻き付けることもある(絵からは編んでいるかどうか確認できなかったが、三つ編みにした)。少女時代は三つ編みを垂らし、大人になると結い上げる。この風俗は長く続いた。
 頬の赤い丸は頬紅だろうか、丹だろうか。日本の埴輪にも、頬が赤く塗られたの女性埴輪がある。ぱっと思い浮かぶのは、群馬県太田市、塚廻り4号墳のほっぺちゃんだ。


 
 次に、日本の女性埴輪(6世紀)から見てみよう。群馬県横見から出土し、現在は東京国立博物館所蔵となっている盛装した女性の埴輪である。e国宝で高精細画像を見ることが出来る。→【e国宝】
 
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 この衣は、襟元は丸首で、中央で交わり、胸紐で一回結び、左へ斜めに流れ、脇でもう一度紐を結んでいる。
 帯の表現は無いが、横から見ると腰から下げ物をしているらしいので、省略されているか、これが腰帯の結び目なのかも知れない。
 胴体の下部から鱗模様(或は青海波)、腕には一部縦縞が刻まれているのが確認できる。女装で青海波というと、采女装束なども思い浮かぶ。鱗模様は胸あたりまでなので、織り模様ではなく筆で描いたり摺り入れたものかも知れない。縦縞は模様ではなく、生地の表現の可能性もある。
 肩口に線が入るのは、生地の切り替えか、袖無しの上衣の下に長袖を着ているという表現なのか、または襷掛けか、襈なのかも知れない。
 袖は細めの筒袖で、手珠が見える長さ。
 襈は襟にはなく、袖口と裾につく。或はこれらも模様か、内衣の袖裾ともとれる。
 同様に、絵では腰裳(裙)と裳、下裳の組み合わせとしたが、一枚の裳の模様や切り替えともとれる。
 アクセサリーも豊富で、まずかずら(鉢巻き。縵+草冠)、大小の耳環で耳が重そうだ。首、手首にも珠飾り。
 頭上で結い上げた髪はいわゆる『古墳島田』で、元結の前頭部左寄りに櫛を挿す。
 かなりの盛装で高位の女性と思われるが、いわゆる袈裟状の布や襷、鈴や鏡といった付属品が見られないので、巫女ではない可能性もある。
 なお彩色はほとんど想像というか妄想でやってしまったが、これが合っているかどうかはともかくとして…土色や生成、紅といった簡素な色合い以外で塗るのは結構勇気が要ったけれど、同時にとても楽しかった。

 
 次も日本、高松塚古墳壁画女子群像(7世紀末~8世紀初)から。かなりよく知られたものだが、改めて見てみると、腰帯の位置がかなり低かったりと面白い。顔部分など欠落が激しいので、他の人物像などを参考にして加筆した。

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 描かれているのは女官とされており、『日本原色服飾史』に、朝服の袍と書いてあるのに倣って、ここでも袍とした。ということはもう少し裾を長くしても良かったのかも知れない。
 襟首は狭く、喉元で紐を結んでいる。内衣は着ていたとしても襟元からは見えない。
 腰に紐はなく、かなり低い位置で帯で結んでいる。曲がり方は高句麗の例に近くゆるやかである。
 襟に飾りはないが、折り返しか同色の布でつけられている。下部には襴の切り返しがあり、確かにのちの官袍への発展を窺わせる。
 襟口に別の色が見えるが、襈か、内衣の袖口かのどちらかであろう。
 袍の裾から見える襞は、襈或は内衣とは別の色なので、腰裳(裙)かと思われる。美しい縞模様の裳裾には、細かい襞の裾飾りか、下裳の裾が覗く。
 髪型は前髪をひと房結って後ろへ流し、まとめて結い、毛先をあげてもう一度結っている。元結にはきっと櫛を挿したのだろう。『束髪』と書いたが、単に束ね髪といった意味で、『日本結髪全史』でも便宜上つけられたものである。時代はかなり下るが、江戸前期の菱川師宣の画にはよく似た結髪が描かれている。


■まとめ
  というわけで、「まっすぐじゃないよ、埴輪とかの襟はまっすぐじゃないよ!立て襟っぽく見えるけどそうでもないし」という筆者の主張は伝わりましたでしょうか。
 もうひとつ気になることといえば、埴輪の衣服には高い確率で付いている、襟の紐。これが、古代朝鮮には見付けられなかったという点です。今のチョゴリは襟の帯紐が特徴的だから、むかしからあるんだと思ってしまってたのですが。紐をつけるのが、当時の日本でなされたことなら、その意味は?気候、生活環境、生地の事情?ひも大好きだったとか(笑)結ぶ、ということが呪術的行為であったから?色々考えられそうです。
 また、古代から朝鮮で(中国でも)これでもかこれでもかと飾られた襟や袖の飾り縁、襈が日本では見られなくなっていくのも気になるところです。
 
 あ、三人並べても、長袖ロングスカートしか共通点なさそうだと思ったそこのアナタ!前回記事に使った深衣のお嬢さんと比べてみて下さい。↓ やっぱり直領とはちょっと違うでしょう。袖も、肩口が細いんですよね。筒袖や日本の大袖は四角ですが。
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 また、古代朝鮮国家は、ツングース系などの北方騎馬民族にルーツのひとつがあるとされ、遠くシベリアのアルタイ文化との共通点が指摘されています。
siberia.jpg(図)サカ(スキタイ)の遺物から。イシク遺跡の黄金のベスト、チャストゥイエ古墳群の壺絵の男性。
 とりあえず襟元はY字ですねー。
 
 確かに朝鮮半島との繋がりは感じるんだけど(とんがり帽子とか)日本との繋がりは、少なくとも服飾面ではあまり…。まだ掘り下げる必要があるのかな。
 日本人騎馬民族由来説というのもありますが、個人的には直接にではなく、騎馬民族の子孫である朝鮮の人達の影響を受けているんじゃないかと思います。

 似ているところも違うところもあるねえ、って並べてみるだけでも楽しいですよね。
 前回のように、朝鮮の服飾文化もまとめられるといいのですが、まだ力不足でして(ハングルがさっぱりだから…)いや!いつかは!


【おまけ追加】未使用らくがきから、古代女性の髪型
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古墳島田は、丸型と角型があります。位置は頭上が多いですが、後頭部に結ったものも。すこし前髪を立てて、のちの結髪のように前髱(まえつと)を作っているように見えるものも。
授乳してる女性の絵は、『乳飲児を抱く埴輪』(ひたちなか市黄金塚出土)を参考にしました→【ひたちなか市の文化財の紹介】
巫女や、位の高い女性とされるものより、髷が小さく結う位置も低くて、庶民の女性の髪型とか、子育て中(分娩後とか?)はこんな風に結いやすく楽な髪型にしていたのかも、と窺えて貴重な例です。高松塚のものとも似ています。


■附:『曲領』について

古代朝鮮…よりもっと古い国に関する記述として、「魏書」に
 
『言語法俗大抵與句麗同、衣服有異。男女衣皆著曲領、男子擊銀花廣數寸、以為飾。』
(魏書/東夷傳/濊)
 
濊国の『男女の衣は皆曲領である』とある。濊(ワイ)とは、紀元前2世紀頃から中国東北部に存在したとされる、高句麗・夫餘(百済の前身、扶餘とも)のもとになった種族のひとつで、近しい種族の貊(ハク)とともに濊貊と書かれることが多い。ツングース系との説がある。
 
「舊唐書」音楽志には、高麗楽・百済楽の記述中に、
 
『高麗樂、工人紫羅帽、飾以鳥羽、黃大袖、紫羅帶、大口袴、赤皮靴、五色縚繩。舞者四 人、椎髻於後、以絳抹額、飾以金璫。二人黃裙襦 、赤黃袴、極長其袖、烏皮靴、雙雙並立而舞。樂用彈箏一、搊箏一、臥箜篌一、豎箜篌一、琵琶一、義觜笛一、笙一、簫一、小篳篥 一、大篳篥一、桃皮篳篥一、腰鼓一、齊鼓一、檐鼓一、貝一。武太后時尚二十五曲、今惟習 一曲、衣服亦寖衰敗、失其本風。
 百濟樂、中宗之代、工人死散。岐王範為太常卿、復奏置之、是以音伎多闕。舞二人、 紫大袖裙、章甫冠、皮履。樂之存者、箏、笛、桃皮篳篥、箜篌、歌。
此二國、東夷之樂也。』
(舊唐書/音樂志/東夷之樂)
 
 とあって、高句麗・百済の楽人が上衣として『襦』を着用したとあるが、
楊雄「方言」には、
 
『襦、西南蜀漢、谓之曲領、或谓之襦。』(方言/巻第四)

 とあって、襦とは曲領である、とする。
 但し、「釋名」には
 
『曲領 在内、以中襟領上、横壅頸其状曲也。』
(曲領、内に在り、以て襟領の上に中す、横に頸を壅ぐ、其の状、曲なり)

とあって、内衣であると書いてある。或は、「宋書輿服志」などに
 
『其制、曲領大袖、下施橫襴、束以革帶、幞頭、烏皮鞾。 』(宋書/輿服五)
 
 とあって、職官の公服における盤領の同義語としても使わている。
 或はまた宋代以降の官服には『方心曲領』という、大きな円に小さな四角をつけ、円の部分を首から掛ける特殊な襟飾りがある。
 更に、詳細は不明だが、日本の武官礼装に用いる肩当てのようなものが『曲領』と云うらしい。
 
 よって、この用法は誤りかも知れないが、ここでは盤領・方領と区別するために敢えて使用した。


 
【参考資料】
 
▲「韓国服飾文化の源流」(金文子・著/金井塚良一・訳/勉誠出版)1998
▲「韓国服飾文化史」(柳喜卿・朴京子/源流社)1982
▲「日本結髪全史」(江馬務/東京創元社)1960再版改訂
▲「原色日本服飾史」(井筒雅風/光琳社出版)1998増補改訂
▲「古代の装い 歴史発掘(4)」(春成秀爾/講談社)1997
▲「人物埴輪の研究」(稲村繁/同成社)1999
▲「ものが語る考古学シリーズ(6) 人物はにわの世界」(稲村繁、森昭/同成社)2002
▲「もっと知りたい はにわの世界~古代社会からのメッセージ」(若狭徹/東京美術)2009
 
字典
▲【漢典】http://www.zdic.net/
原文テキスト検索・出典
▲【中央研究院 漢籍電子文獻】 http://hanji.sinica.edu.tw/
▲【中國哲學書電子化計劃】http://ctext.org/fang-yan/zhh

 
中国/日本の装束について調べていると、よく「盤領袍」「方領衫」などという分類名を見かける。ので、まとめてみた。
今回は、中国の漢服と胡服の領はどんなものかを見ていこう。
 
◆今回の要点◆

■中国の時代装束(と、それに影響された日本など周辺諸国の装束)の領(襟)は、大きく二つの型に分けることが出来る。
   ・方領(四角く細長く、真っ直ぐ伸びた襟)
    これには、交領・直領(対領)・短領 がある。
   ・盤領(丸く曲がり首まわりを囲む襟)
    盤領、衿幅が広くなった大円領、立領 がある。
 ■方領は漢服の伝統の型、盤領は胡(北方騎馬民族)の風俗の影響を受けたものである。
   ・漢服の特徴→右衽の方領襟ぐりや袖はゆったりしている。裾が長く足を出さない。「上衣下裳」といって、上衣に裙(裳。スカート)を巻き、幅広の布の帯を締める、もしくは袍などの長衣。優雅だが活動的ではない。
   ・胡服の特徴→左衽の襟の詰まった盤領が多く、袖は細めの筒袖。「上褶下袴(褲)」といって、裾は腰から膝丈で、股のある袴(ズボン)を穿いた。また、盤領袍もあった。衿は盤扣(紐ボタン)で留める。漢服の袍よりは細身である。脛巾を巻いたり革の長靴(ブーツ)を履いて革のベルトを締める。騎馬に適した動きやすい服装。
 ■胡服は春秋戦国時代から漢服に少しずつ影響を与えていた。
  北魏の初め、官服に胡風の盤領袍が採用され、隋唐以後の王朝もこの風に倣った。
 ■漢人は右衽(右前)の装束を着、左衽(左前)は蛮夷の風としていた。
  そのためもとは左衽だった胡服も、漢人に受け入れられるとき右衽に直された
 
 これだけ書いても済むことではあるのだが、折角だから漢服と胡服のあらましもまとめてみようと思う。
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◆漢服について
 漢服とは、中原を統べ『華夏』を自称した人々、いわゆる『漢族』が伝統的に着ていた衣服である。
 
 漢服の特徴は、男女共に、襟(衿、領)があり、裾・袖のゆったりとした衣に、帯を締めることにある。
 襟は方領、右衽(ウジン)で、多く袖は古くは太めの筒袖、のち大袖、裾は末広がりで膝下丈~地につくほど長く、下に裙子(巻きスカート。裳/ショウ)や袴(股のあるはきもの。ズボン)を穿き、足は隠す。
 
◆漢服の方領eri_01_01.jpg
 漢服の領はどれも方領(方=四角)で、左右の衽(おくみ)を交叉させる『交領』、交領の襟を短くし、紐で留める『短領』、そのまま真っ直ぐに垂らす『直領』(または対領)などがあった。また、襟を広く(太く)したのを『大衿』という。衿は別布で仕立てられたり、綾織の縁飾りや刺繍で飾られた。
 また、内衣の襟を広くして首周りをやわらかく包んだり、義衿をつけることもあった。絵画などで、上衣の襟から溢れるようにはみ出している白い内襟がよく見られる。
 大きく分けて、襟付きの『衣』(丈は腰から膝当たりまで)に『裙裳』を合わせて帯を締める『上衣下裳』(「衣裳」の由縁)つまりツーピーススタイルと、『袍』『深衣』など長衣を着るワンピーススタイルがある。
 
eri_01_02.jpg◆【深衣】
 深衣は、春秋戦国時代からあった装束である。ひとくちに云うと、上衣と裙を腰で縫い合わせたもので、腰から下の幅を広くして(衿または衽を延ばしたとも表現されます)腰に巻き付けるように着る。深く覆う衣、という意味でこう呼ばれ、一枚の衣でも裾にたっぷりと余裕を持たせることが出来た。 これは、股のある(両足を別々に包む)袴がまだ無かった頃に、足を露わにしないために施された工夫である。そのため、股つきの袴を穿くようになった男性は深衣から袍にうつり、魏晋時代には引き続き裙を穿いた女性だけが好んで着るようになっていた。
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◆【袍】
 袍も太古の舜王の時代からあったと云われるほど古いものとされた。その字義は『体を包む衣』、裾の長い上着というほどの意味で、様々な型があった。深衣も広義では袍に含まれる。また、長衣の衫を上衣として着ることもあった。袍と衫の違いは、袍が筒袖、衫が大袖であるという点。袍衫というときは、だいたい大袖の袍という意味のようだ(ややこしい)。
 また、上衣の下に着る内衣は、長袖の衫半袖の半臂襟や袖のない裲襠(リョウトウ)などを用いた。

eri_01_12.jpg◆【上衣下裳】~礼服・襦裙
 上衣下裳の方が長衣より格式は上とされ、帝王が用いる『冕服(ベンプク)』や諸官の『冠服』などの礼服(ライフク)はこの様式である。
 挿絵の『玄端(ゲンタン)』も礼服のひとつで、冕服の等級が下がったもの。現代中国で古式の結婚式や卒業式などにも用いられている。
 だいたい膝までの丈の上衣に大帯と紳を締め、蔽膝(ヘイシツ。前掛け)を垂らし、帯鉤や帯から下げる飾り(佩飾)を用いる。礼服以外では、『襦裙(ジュクン)』が一般的であった。下に衣を着て、丈の短い襦を掛けた上から裙を巻いて帯で締める。
 上衣下裳は男女ともによく用いられたが、とくに女性では着方が時代によって大きく変わった。挿絵の唐代の女官は、裙を胸まで引き上げ、ここでは衫を着て帯で締め、襟は大きくハート形にくつろげて、首に飾った宝飾品を見せている。唐代の多彩な流行ファッションのうちの一例である。
 襦裙の上から紗(うすもの)で仕立てた半臂(ハンピ。半袖)や衫(サン。長袖)などを羽織ったが、帯で留めることも、そのまま羽織って裾の両端を結んだりすることもあった。また、披帛(ヒハク。披領、帛巾、ストール)を肩や首に掛けたりもした。
 上衣下裳にせよ長衣にせよ、全体的にくつろいで余裕があり、ひらひらと風に翻る袖や裾はきわめて優雅だが、反面ずるずると動きにくそうで、確かに軍装には不向きであったろうと思われる。
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◆漢服の伝統は引き続き…
 隋唐を経て男性の官服は盤領袍になったが、普段着としては漢服も着られていたようである。
だが、ひらひらと袖裾をなびかせる漢服の伝統を守っていったのは主に女性だった。
 唐代の女性服では肌を露出した着方も流行したが、宋代に入ると露出度は低くなった(というより、元に戻ったと云おうか)この頃の女性が着ていたのは襦裙を基本としたもので、宋代の女性服の特徴は『背子(ハイシ)』である。男性も着たが女性の着用例の方が多かった。対襟で、筒袖と大袖があり、帯やボタンで留めずにふわりと羽織るもので、丈は膝下、膝上、くるぶしまでと、何タイプかあった。カーディガンのようなものだろうか。袖のないものを『背心』といった。
 また、裏地付きで綿入りの上着(袷)もつくられ、衫はこれに対して夏用の単衣(裏地がない)の
薄物とされるようになった。裙の下に下着としてズボン(褲)や膝丈のドロワーズのようなもの(膝褲)を穿いたり、纏足した足を保護する絹の靴下もあった(纏足は唐末からの風俗)
 明代になっても少しずつ形は変わっていったが、それまでの襦裙と基本的には変わらなかった。清代になると、八旗(満州族の貴人)以外の漢人の女性は引き続き漢服を着ていたが、すこしずつ満州族の風俗と混じり合って変化していった。
 その後は西欧化や国家体制の変化に押されて姿を消していくことになるが、日本と同じように、結婚式や卒業式など、人生の節目で伝統衣裳を着ることは行われている。

 
次に胡服について見ていこう。
 
eri15.jpg◆胡服について
 胡人とは、前述した通り、華夏の民から見た異民族のことであるが、胡服とは、具体的には匈奴や鮮卑、突厥などの北方騎馬民族の衣服を指す。戎服などとも記された。北魏の初めに朝廷の官人の制服に定められて以降、各王朝の官服は代々、胡服の系譜を引くことになった。
 
 胡服の典型的な特徴として、上衣の丈は短く、裾は膝から脛あたりまで、袖は細い筒袖、男性は足を別々の場所に入れる穿き物(褌、褲、袴などと呼んだ)を穿く。漢服に比べると活動的なつくり。
 革のブーツ(六枚の革を合わせてつくることから、『六合靴/鞾』という)を履き、革の帯を締めた。
 もともと、革帯には穴を開けて、小刀や小物入れや筆入れや火打ち石や護符などを下げていたが、この穴を補強するために、玉(ギョク)や金属の飾り板(銙)を付けた。のち盤領袍が漢服になると、官位によってこの革帯の銙の素材や数に差を付けた。
 
◆胡服の盤領
 襟は盤領(バンリョウ=丸襟、円領とも)が多く、他に直領や対領、衿無しのものもあり、左衽であった。盤領の襟は狭く喉元まで詰まっており、組紐や細く裂いた布などを結んで玉を作ったものと、輪を作ったものを襟に付け、玉を輪に嵌めて留める、つまりボタン式(盤扣/バンコウ)
 盤領を緩める時は、衿を折り返して着た。これを「翻領」という。
(ちなみに「円領衫」で画像検索すると、丸首Tシャツ画像が大量に引っ掛かる)
 
◆胡服への抵抗感
 日本人には中国王朝の興亡の激しさは少し分かり難いところだが、とにかく漢民族といっても多数派だった訳ではなく、いつも中原の覇者だった訳でもない。とりわけ手強かったのが北方の騎馬民族で、時には不倶戴天の敵として争い、勝って版図を広げ、敗けて覇権を奪われ、また時には宥和策をとり交易していた。
 漢人にとって、胡人が単に野蛮な異民族というだけでなく、手強い仇敵でもあったため、利便性はあってもその風俗を受け容れることには当初、抵抗があった。
 
『史記』に、春秋戦国時代の趙の武霊王(?~BC295)が、胡軍に勝つため騎射胡服を採用しようとした時の故事が記されている。
 このときの趙軍は馬が牽く戦車に載り、将兵は皆、かさばる長袍を着ていたため動きが鈍かったので、身軽な短衣に袴、革靴(または脚絆)姿で、馬上から弓を射てくる胡軍の軍装を取り入れようとしたのであった。が、武霊王は臣下の肥義に、このことが余人の顰蹙を買い嘲笑されるだろうがどう思うか、と相談を持ちかけている。
 
『…今吾れ将に胡服騎射を以て百姓(ヒャクセイ)に教えんとす、而して世必ず寡人(カジン=己の謙称)を議さんが、奈何(いかん)。』(史記/趙世家)
 
 結局、世間にどう思われてもやるぞ、と導入に踏み切るのだが、漢人に胡服への抵抗感があったこ
とがわかる。
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◆胡服の影響を受けた漢服「上褶下袴」
 この時は胡服の一部が軍装に取り入れられたのみだったが、時代を下るにつれて、動きやすい胡人の服装が漢人、主に庶民の間に広まっていった。
 魏晋以来の、褲褶(コシュウ)つまりズボン(褲、袴)に丈の短い上衣(褶)を合わせたスタイルは、軍装や旅装として定着していった。裲襠(リョウトウ)という、貫頭衣を前後身頃に分けたような、衿や袖がなく肩や腋を紐で結んで着たチョッキのような上着などが、胡服の影響を受けたものとして挙げられる。裲襠は身分の高い女性が襦裙の上から羽織ったり、身頃を金属でつくって裲襠鎧の原型にもなったり、いまのタンクトップや金太郎の腹掛けのような下着にもなった
 また、革のベルトやブーツの使用も広まった。
 
 
◆胡服、官服となる(盤領袍)
 
 漢人は周辺の他民族との衝突を繰り返しながら彼らの風俗を少しずつ受け入れてきたが、南北朝時代、鮮卑族の拓跋氏が北魏を建てると、続く東魏・西魏・北斉・北周政権下で、習俗の胡化と漢化が繰り返された。
 北魏の初め、胡服である盤領袍衫(円領、団領とも)が百官の常服・朝服に定められた。再び中原の覇権が漢人に戻った後も、隋ではこの制を改めなかった。煬帝(569~618)は外征の際、従う臣下に胡服を着させたという。
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『隋の煬帝游幸す、令臣皆戎服を以て従う』(朱子語類/礼/雑儀)

 さらに唐もこれを踏襲し、以後官服は胡風の盤領袍と定まった。このあたりの事情は、王国維(清末、1877~1927)の「胡服考」に詳しい。(※記事末尾に原文を載せる)
 
◆胡風の流行
 唐王朝は西北の突厥、東南の靺鞨を平らげ、西南の吐蕃、南の南詔を監督下におき、安寧と物質的な豊かさを手にして、歴代王朝でも稀有なほどの文化的繁栄を実現した。西胡はこの時代、仇敵ではなく貿易相手となり、抵抗感が薄れたこともあり、万事において胡風が巷間を席巻した。
 もっとも唐代の「胡」とはとにかく範囲が広く、北西の異民族はもとより、葱嶺〈パミール〉以西の諸国諸民族〈インド=梵または天竺以外〉という、西域全般を指したので、ここで紹介したものも、多彩な流行のひとつの典型に過ぎない。

 
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 挿絵の吐蕃人は、閻立本(えんりっぽん/唐初の宮廷画家、?~673)の《歩輦図》を参考にした。官服は無地あるいは官制に即した文が入れられたが、元来の胡服は連珠文と呼ばれるパターンを特徴とする。
 
 >…この絵の連珠文はやけにファンシーだが。(だからつい描いちゃったのである)
 
 
 唐代の詩人にとって、胡風の流行は格好の題材となり、多くの詩が残されたが、その中から中唐の元稹(ゲンシン/AD779~831)の詩を見てみよう。
 
「(前略)
 …胡騎煙塵起こしてより、毛毳腥羶(モウゼイセイセン)、咸洛(カンラク)に満つ。
 女は胡婦と為りて胡妝(コショウ)を学び、伎は胡音を進めて胡楽を務む。
 火鳳の聲沉(しず)みて咽絶多く,春鶯は囀を罷(や)めて蕭索長し。
 胡音胡騎胡妝と、五十年来紛泊を競う。」
(新題樂府十二首/法曲:元稹)
 
訳:『胡軍の騎馬が土煙を巻き起こして来襲してから、毛織り物と肉料理(もしくは毟った鶏の羽毛と生臭い獣肉?)が長安と洛陽の都に満ちた。
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 女は胡人の妻となって胡風の化粧や服飾を学び、楽人は胡の楽器や奏法を取り入れて胡楽を奏でる。
 火鳳の声は沈み、息も絶え絶えに咽び、春鶯も囀りを止めてしまい、もの寂しさが漂う。(火鳳舞は魏の、春鶯囀は唐の著名な歌舞の曲名。『洛陽伽藍記』『教坊記』『唐會要』などに見える。つまり、華夏伝統の楽が胡楽に取って代わられたことの隠喩である)
 胡の音楽と、胡の馬と、胡の装いとが、五十年来隆盛を競っている。』
 
また、『旧唐書』輿服志にも、

「開元の初、宮人の駕に従いて騎馬する者、皆胡帽を著し、靚粧(セイショウ)して面を露にし、復た障蔽無し。士庶の家、又相倣效(ホウコウ)し、帷帽(イボウ)の制、行い用いずして絶ゆ。俄かに又髻を露にして馳騁(チテイ)し、或は丈夫の衣服靴衫を著す有り、尊卑內外にして,斯く一貫す。(中略)太常の楽は胡曲を尚(たっと)び、貴人の御饌、供するに胡食に尽く、士女は皆胡服を衣(き)竟(お)う、 故に范陽に羯胡の乱有り、好尚の遠ざかる兆(きざし)ならんや。」(旧唐書/輿服志)
 
訳:『開元年間の初め、宮廷女官で貴人の駕の行列に加わって騎乗するものは、皆細身で尖った胡帽をかぶり、化粧をした顔を露わにしている(古い慣習では、貴い女性が外出する時は顔を覆った)。士人や庶民の階級でもこれに倣い、帷帽制は誰も行わなくなって自然と絶えてしまった。流行に乗って髻をさらして馬で駆け、夫君の服や靴を着る婦人が身分の上下を問わずいる。(中略)太常寺では胡楽を珍重し、貴人の饗宴では胡風の食事ばかりが供され、士人も女人も皆一様に胡服を着ている。こうした胡風好み、風俗の乱れが范陽での羯胡の乱を招いた。これが流行の衰える兆候となったものであろうか。』
 
 などとある。この記事では特に女性の胡服着用について注目している。胡服を着て胡帽を被り、あるいは結い髪を露わにして、颯爽と馬に跨っていた女性達がいたようである。本来胡服は男性の服装で、夫の官服を借りて着ていた夫人もいたというが、これは朝官の妻という身分ある女性が(夫公認で?)男装していたということだから、なかなか興味深い。
 こちらの挿絵を描くときに参考にした復元衣裳の写真は、色柄からして女性向けに仕立てられたものだった。元稹の詩には「五十年来」とあり、胡服が女性達の間で普通に着られるようになって、女物も作られていたのなら、その頃には男装という意識も薄れていたのかも知れない。
 
◆盤領その後~団領袍衫・旗袍・チャイナドレスeri_01_07.jpg
 一時の爆発的なブームが収まってくると、今度は胡服にも漢服化が見られた。裾が広くなり、文官と武官とで裾の形が変わり、とくに文官の盤領袍は裾が長くなった。また襟ぐりが広くなり、内衣の襟を見せるようになった。
 宋、明と次第に襟が広くなり、円盤のような形になった。(大円領とも)明代には、袍の胸と背に「補子」という刺繍を施された布をつけ、この袍の色と、補子の色と刺繍の図案によって官位をあらわすようになった。
 李氏朝鮮の朝服はちょうどこの頃の中国の服制を採用しているので、韓国の歴史ドラマで多く見かけるのはこのような団領(團領)袍衫である。
 清を建てたのは北方騎馬民族の系譜に連なる満州族(女真族)の愛新覚羅氏であったが、このときの漢人(及び蒙古族や南方の少数民族)への同化政策は苛烈であった。剃髪易服政策は漢人の激しい反抗にあった。もっともこの場合より拒絶されたのは剃髪(辮髪)で、漢服を改めるほうはそれに比べたらまだマシということだったようだ。

eri_qipao.jpg 満服の特徴は、立領、チャイナカラーの旗袍(キホウ。チーパオ)や長袍と呼ばれる長衣だ。これも分類の上では盤領である。(喉元から真っ直ぐに分かれている型の場合は対領に分類されることもあるし、襟が「無い」と書かれることもある)紐ボタンで留めるのも、袖が長く細いのも、胡服の系譜を継いでいる。
 挿絵の旗袍は、襟ぐりの広い盤領袍の下に立襟のついた領衣を着るタイプである。領衣を着ない(立襟がなく、広い丸襟の上着だけを着る)スタイルは、女性に多かったようだ。唐代の盤領はまだ男装や一時的な流行だったが、清代になって本格的な盤領の女性服ができたことになる。衿を留める紐ボタン(盤扣)も、花を模した華やかな飾り結びで作られるようになった。
 これははじめ満州族に強制された風俗ではあったけれども、王朝が倒れ、辮髪が消えたのちも、中華民国では清式の袍が引き続き着られ、長袍に西洋式のズボンや帽子、眼鏡や革靴、ステッキなどを合わせたスタイルが紳士の間で流行した。
 旗袍もいわゆるチャイナドレスのスタイルに改良された(改良旗袍)。余談だが、中山服は清式の伝統に沿ったものというより、日本の学ラン(つまり西洋式の詰襟)を元に考案されたらしい。


おまけ的な…
◆右衽と左衽
 領の話と云えば、右前か左前かというのも、しばしば問題になる。

 おっとその前に、ややこしいので一度整理して置こう。
 右衽(右前)というのは、右の衽を上前にするということではなく、
 相手に向かって右が上前になる つまり実際は着る人の左手側の衽が上前になっている。
 これは、「右衽を先に体に付ける」「右衽を(懐の)中に入れる」から右衽、だそうだ。

 さて、漢服の領は右衽、胡服は左衽、それゆえ右衽は華夏の風、左衽は野蛮な戎夷(えびす)の風とされた。
 いわゆる華夷思想というやつである。
孔子の曰く、
 
「微管仲、吾其被髪左衽矣」 (論語)
『 管仲微(な)かりせば、吾れ其れ被髪左衽(さじん)せん』
 
春秋時代の賢相、管仲がおいでにならなければ、私は今、頃髻を放って髪を下ろし、夷服を左前に着ておったやも知れぬ」といったところ。被髪とは、冠帽や巾を被らず、髻(もとどり)を結わないこと。日本でも中古代までは被髪は成人男子にとって恥とされたが、その根も中国にあったのである。

◆なぜ漢人は右衽、胡人は左衽なのか。
 これは、「右を尊しとしたから」という説があるが、時代や地域で右左の尊重は入れ替わっており、「文官は右」「武官は左」を尊ぶ、という時期もあった(左右逆もあった)ようなので、どうも明確でない。
参考:【中国古代的尚左与尚右观念 百度文庫】

 左衽は死人の装束の合わせだから、というのは、日本でも同様だが、
 北京の病院で、お仕着せの病衣が左衽で物議を醸した、という最近のニュース記事があったので、現代中国でも生きている慣習らしい。
 ただ、いつから云われていることなのかは調査不足で解らなかった。

 または、胡人が騎射を行うとき、右肩を袒(ぬ)ぐから、左衽であるという。
 片袒にするときは、だいたい、上前をずらして肩を出す。
 つまり左衽だと、上前は右だから右袒になる。
 胡人俑の、片袒のものの写真が一点だけ手元にある、騎射ではなく馬を牽くところのようだが、右袒だ。
 【中国で復興した射礼の動画(Youtube)】を見てみると、右衽の漢服を着た射手は左袒。
 日本の弓道でも、左肩を片袒ぎにしている。
 そういえば、騎馬民族の弓手馬手は日本でいうものとは逆、というのを読んだことがあるが(「狩りと王権」斎宮歴史博物館図録)
 そうするとやっぱり袒ぐ方も逆なのだろうか。むむむ。

◆盤領袍の改良eri_01_11.jpg
 上に挙げた盤領袍の絵を再度ご覧頂くと、吐蕃と遼の袍は左衽、官服と男装の袍は右衽になっている。
 実は、胡服が官服として採用されてから、右衽に改良されたのである。
 服は導入しても左衽は受け容れられなかったのだろうか。そこまで左衽は拒絶されたのか、あるいは単に漢人には慣れていて便利だったから直したのか…。
 清代も、当初は左衽だったようなことが「中国服装史」には書いてあるが、太祖弩爾哈赤(ヌルハチ・1559~1626)、太宗皇太極(ホンタイジ・1592~1643)の肖像画や、遺品の袍の写真などを見てみると右衽、または対領になっている。太宗はくれぐれも漢人の風に染まるなと苦言を呈していた人物だが…(『太宗実録』崇徳二年四月項)。
 女真族で画像検索しても右衽しか出てこないので、明末あたりにはすでに漢化していたという事も有り得るのかもしれない。


◆おわりに
 幞頭などの記事を書いていた時、もしかしなくても首服だけ考証してもだめじゃないか?と思ったので、調べてみました。
とりあえずバストアップくらいは自信を持って描けるように…なるといいんだけど…。
 「盤領って皇帝の肖像画でも描かれているのに、漢服じゃなくて胡服だったんだ~」という点を非常に面白いと感じたこともこの記事を書く動機になった。やはり中国は多民族国家で、華夷華夷いいながらもこうして仇敵の風俗を受け容れている。面子は気にするけど実利主義という、中国のそういう処が私は好きである。

次回は日本の盤領(束帯、狩衣など)に続く予定。


ちなみにかなり今更な感じでpixivはじめました…。
簡易版まとめUPしています。(キャプションはtwitterでの装束個別紹介など)
絵だけでいい絵だけで、という方はどうぞ~。
 


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無駄と斑の腐渣。
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(美豆良/鬟/鬢頬/総角)。

中古日本史、東洋史、仏教史(仏教東漸期の東アジア、平安密教、仏教芸能、美術、門跡寺院制度等)、有職故実、官職制度、風俗諸相、男色史。古典文学、絵巻物、拾遺・説話物。

好きな渡来僧:婆羅門僧正菩提僊那、林邑僧仏哲
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好きな結髪:貴種童子の下げみずら
好きな童装束:半尻、童水干
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好きな琵琶:青山、玄象
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やまとことばも漢語も好き。
活字・漫画・ゲーム等、偏食気味雑食。

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