全日本及び三千世界のみづら愛好家のみなさま、こんばんは。
こちらは筆者逆名がみづらへの愛を叫ぶ「みづら祭」フロントページです。
長くなりそうなので(作者が楽しみを引き延ばしたいので)、
小出しで出来るだけ頻繁に更新できればと思っております。
そこで、こちらのご案内と序章の記事に
目次(リンク)を設けていくことにしました。
なお、もくじの下のほうに、
(できるだけ)わかりやすくみづらについてまとめてみました。
そもそもみづらって…?という方はご一読くだされば幸いです。
【番外編】
◇唐輪-牛若丸の髪型
◇らくがき詰め合わせ(おじさん多め)
◇らくがき詰め合わせ【みづらも詰め詰め】
◇わたしの好きなみづらランキング とらくがきまとめ
という感じのことを書けたらいいなと思っております。
また、twitterではフライングでポンポン自説をつぶやいております。
まとまった論考ではありませんが、とりあえずの下書きメモとして。
【装束小ネタ】みづら篇~『角髪』表記について、美豆良と総角について
【装束小ネタ】みづら篇~古代美豆良表現の変遷、続・美豆良と総角、謎の『ひさごはな』
そもそもみづらって…?という方はご一読くだされば幸いです。
・埴輪のみづら
・鷹匠埴輪
・鷹匠埴輪
・万葉集のみづら
・古代の整髪具
・謎の「ひさごはな」~端境期の髪風
■童子みづら
・中古小児の髪風
・あげみづら、さげみづら
・幼年期の髪型として
・漢字とみづら~『総角』『角髪』ということ ・文学の中のみづら~『あげまき』と『みづら』
・日記史料のみづら
・殿上童と舞童 附、幼君
・装束書のみづら~おしえて!まさすけさん
・みづらの似合う装束様々
◇御引直衣(童形)
◇梅の花手折り挿頭して(半尻-童形狩衣)◇御引直衣(童形)
【番外編】
◇唐輪-牛若丸の髪型
◇らくがき詰め合わせ(おじさん多め)
◇らくがき詰め合わせ【みづらも詰め詰め】
◇わたしの好きなみづらランキング とらくがきまとめ
という感じのことを書けたらいいなと思っております。
また、twitterではフライングでポンポン自説をつぶやいております。
まとまった論考ではありませんが、とりあえずの下書きメモとして。
【装束小ネタ】みづら篇~『角髪』表記について、美豆良と総角について
【装束小ネタ】みづら篇~古代美豆良表現の変遷、続・美豆良と総角、謎の『ひさごはな』
少しずつ進めていくつもりですので、
進行中にも御意見御感想、リクエスト等、頂けましたら幸いです。
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【凡例】
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【凡例】
ふだん筆者はなるべく「みずら」と新仮名を使うようにしていますが、
今回は万葉仮名を多用したり、表現の揺れについても見ていくことになりそうですので、
記事内本文では歴史的仮名遣い「みづら」の表記で統一させて頂きます。
少し考えましたが、タイトルも「みづら祭」に改めさせて頂きます。
…どちらも好きなんですが、決めておかないと混用必至ですので(汗
少し考えましたが、タイトルも「みづら祭」に改めさせて頂きます。
…どちらも好きなんですが、決めておかないと混用必至ですので(汗
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■序~ここだけ読んでもわかるかもしれない、みづらのうわつら
とりあえず、まず「みづら」って何?というところをざっとお話ししておきます。
【みづら(みずら)】は、古代日本における結髪のひとつです。
大別して、
甲)埴輪などから再現された、古代男性の結髪
乙)古代以降、皇族や貴族の子弟の元服前の結髪
の二種です。
古墳時代と平安時代の間に、両種の中間となる髪型が存在した可能性は小さくないと思っていますが。
なお、みづら祭中は、便宜上、
甲型みづらを「古代みづら」
乙型みづらを「童子みづら」
と呼ばせて頂きます。一般的な名称ではありませんが御容赦下さい。
なお筆者が愛して已まないのは童子みづらの方ですが
いとしの童子みづらの父祖たる古代みづらにも、それなりの孝養を尽くさせて頂く所存です。
さてさて
古墳や埴輪の存在は、長く忘れられていました。
江戸後期以降各地で発掘(というか発見というか盗掘というか)の例が記録されるようになり、
出土品と『古事記』『日本紀』などの研究結果をすりあわせて
「推定」されたものが、いまの古代みづらのイメージです。
スタイルとしてこういうものがあった、という事実があっても、
それが本当に「みづら」と呼ばれていたかものなのかどうか、特定するのは難しい。という…。
(なお、埴輪があまり知られていなかった時代の浮世絵、神楽などの図像を見てみると、
被髪、もしくは平安以降の公家・武家装束か、その時代の服装で描かれていたりします。
神功皇后などはまるで巴御前のようです。)
埴輪の様子から、『髷が大きい方が、権力に近かったのでは』という推測もなされていますし
『上位階級は下げ美豆良』という説もありますが、
明らかに上位階層に属する、上げ美豆良の盛装男子埴輪もありますので、絶対ではないように思えます。
童子みづらも、いつ頃から行われていたのか、厳密にはわかりません。
(実は、平安時代以前に元服の習慣が確立されるまで、成人年齢がいつだったかは曖昧です)
平安初期にはすでにスタイルが確立していた童形の聖徳太子像はみづら髪なので、
これを描かれた当時の幼児の髪型だということもできる、かもしれません。
平安時代には、『童殿上(わらわてんじょう)』といって、貴顕の童子が、
顔見せをかねて元服前から帝の御許へお仕えすることが行われていました。
帝の御座所である清涼『殿』へ、特別に『上』がる許可が与えられたから『殿上童(てんじょうわらわ)』、ということは、
おとなの『殿上人(てんじょうびと)』とかわりません。
童子みづらは、このような殿上童の髪型でもあります。
※なお、儀式、宴などの際のアシスタント役や賑やかしのために、臨時で殿上を聴(ゆる)されたり、
舞童に選ばれると舞装束にみづらを結ったりもしました。
上流貴族の子弟、またはこうした臨時の晴装束に合わせる髪型なので、
童装束も、ちょっと位が低めの水干や長絹などに合わせることはありません。
結った残りの髪を下に垂らした「さげみづら」が通常用で、
晴の儀式には「あげみづら」といって、下げ髪は隠してしまいます。
あげみづらは、元服前の幼い帝の髪型でもありました。
【童子の下げみづらの結い方】 雅亮装束抄を元にしています。
なお、みづらの「あげ・さげ」ということは、
童子みづらに対して、上のような約束ごとのもとで用いる区別で(装束書などに記載)、
古代みづらに対して云う場合は、おそらく各所でめいめい便宜上使われるもので、
きちんと規定する史料はありません。
ざっと見て、このくらいの説明がなされているようです。
ただ、規定がないのですから、どれも間違っているというわけでもなくて、
下がっている部分があれば「さげみづら」ということに特に差し支えはないと思います。
●表記について
万葉仮名では『美豆良、美豆羅、美都良』などと書かれ、
漢字では『鬟、髻』と表記します。
(鬟は輪の形に結った髪、髻は、元取(もとどり)で、髪を結った部分や、結髪の総称的な表現です)
漢語の『総角(そうかく)』は、中国の子供の髪型、いわゆるお団子頭。
転じて、幼児期、少年時代の意味をもつことばです。
これが日本に輸入され、『日本書紀』に始めて見ることが出来ます。
総角を訓読して『あげまき(阿介萬岐)』といいます。
記紀に『結(レ)髪』ということばを『かみあげ』と訓む例があることから、
もし『あげまき』に感じを宛てるなら、『結巻』または『結纏』と書くのが適当ではないでしょうか。
『揚巻』という書き方は、上げて巻いて、という理髪の様子を具体的に表したものですが、
相当後(おそらく、江戸時代)のものじゃないかと思います。具体的な根拠はいまのところないのですが(汗)
なお、あげまき髪には飾り結びをする事がありました。
その結び方のひとつを特に『総角結び』と呼ぶようになります。
源氏物語の巻名『総角(あげまき)』は、髪型ではなく結び目のこと(お香の包みの飾り結び)です。
総角は『あげまき』であって、『みづら』とは訓みません。
『総角』と童子みづらとは同じ髪型ですが、『総角』は、髪型のスタイルとしてよりも、
童子そのものの、あるいは少年期の比喩的な名称として使用される例の方が多く見受けられます。
また、当然、成人男性の古代みづらは、総角とは呼びません。
『角子』『角髪』という表記については、筆者は『総角』からの派生だと考えています。
よって、これらを「みづら」と訓むことには否定的な立場です。
また、平安後期ごろからは、『みづら』の音便変化による『びづら、びんづら(鬢頬の字を宛てる)』が、
実用的な言葉として日記史料などに見られるようになります。
…と、ここまでで、大体のことはお解り頂けたんじゃないかと思います。
記事ではこれらのことに詳しく触れていこうと思いますが、もうこれでいいよっていう方も
一応、イラストはつけるつもりでおりますので、それだけでもちゃちゃっとみてやっておくんなさいw
【みづら祭 これまでの参考資料】(2013/11/15現在)
【みづら・結髪・装束関連】
▲「日本結髪全史」(江馬務/東京創元社)1960再版改訂
▲『美豆良考』「江馬務著作集第四巻」所収(江馬務/中央公論社)1976
▲『美豆良考』「江馬務著作集第四巻」所収(江馬務/中央公論社)1976
▲「日本の美術23 結髪と髪飾」(橋本澄子編/至文堂)1968
▲「古代人の化粧と装身具」(原田淑人/刀水書房)1987
▲「古代人の化粧と装身具」(原田淑人/刀水書房)1987
▲「原色日本服飾史」(井筒雅風/光琳社出版)1998増補改訂
▲「黒髪の文化史」(大原梨恵子/築地書館)1988
▲「有職故実図典-服装と故実-」(鈴木敬三/吉川弘文館)1995
▲「有職故実大事典」(鈴木敬三監修/吉川弘文館)
▲「倭人の絹 弥生時代の織物文化」(布目順朗/小学館)1995
▲「衣服で読み直す日本史 男装と王権」(武田佐知子/朝日選書601)1998
▲「倭人の絹 弥生時代の織物文化」(布目順朗/小学館)1995
▲「衣服で読み直す日本史 男装と王権」(武田佐知子/朝日選書601)1998
▲「宮廷の装束」展図録(高倉文化研究所/京都国立博物館)1999
▲「よそおいの民俗誌 化粧・着物・死装束」
(国立歴史民俗博物館編/慶友社)2000
▲「日本の色辞典」(吉岡幸雄/紫紅社)2000
▲「素晴らしい装束の世界-いまに生きる千年のファッション-」(八条忠基/誠文堂新光社)1995
▲「平安文様素材CD-ROM」(八條忠基/マール社)2009
▲『雅亮装束抄』 「新校羣書類従 第五巻 公事部(二)・装束部(一)」(内外書籍株式會社)1932 所収。
▲『法中装束抄』『法体装束抄』
新校群書類従 第六巻装束部(二)」(内外株式會社)1932 所収。
▲「倭名類聚鈔 元和三年古活字版二十巻本」(中田祝夫解説/勉成社)1978
▲「伊勢の神宮 御装束神宝」(南里空海/世界文化社)2014
【埴輪・考古学関連】
▲「古代史復元(7) 古墳時代の工芸」(白石太一郎編/講談社)1990
▲「歴史発掘(4) 古代の装い」(春成英爾/講談社)1997
▲「古代史復元(7) 古墳時代の工芸」(白石太一郎編/講談社)1990
▲「歴史発掘(4) 古代の装い」(春成英爾/講談社)1997
▲「埴輪と絵画の古代学」(辰巳和弘/白水社)1992
▲「埴輪の楽器 楽器史からみた考古資料」(宮崎まゆみ/三交社)1993
▲「人物埴輪の研究」(稲村繁/同成社)1999
▲「はにわ人は語る」(国立歴史民俗博物館編/山川出版社)1999
▲「王の墓と奉仕する人びと」(国立歴史民俗博物館編/山川出版社)2004
▲「ものが語る考古学シリーズ(6) 人物はにわの世界」(稲村繁、森昭/同成社)2002
▲「日本の美術445 黄金細工と金銅装 三国時代の朝鮮半島と倭国(日本)」
(可田貞編/至文堂)2003
▲「人物埴輪の文化史的研究」(塚田良道/雄山閣)2007
▲「もっと知りたい はにわの世界~古代社会からのメッセージ」(若狭徹/東京美術)2009
▲「狩りと王権」(斎宮歴史博物館 平成7年特別展図録)1995
▲【武者塚古墳・同2号墳・武具八幡古墳の調査】(筑波大学遺跡リポジトリ)報告書の日付は1986年。
▲『埴輪集成図鑑』(帝室博物館編)1944 国立国会図書館デジタルコレクション
【生育儀礼関連】
▲「王朝の風俗と文化 塙選書22」(中村義男/塙書房)1962
▲「平安王朝の子どもたちー王権と家・童」(服部早苗/吉川弘文館)2004
▲「女と子供の王朝史-後宮・儀礼・縁 叢書・文化学の越境(13)」(服部早苗編/森話社)2007
▲「平安時代の儀礼と歳事」
▲「平安時代の信仰と生活」
▲「平安時代の環境」
ー平安時代の文学と生活(山中裕・鈴木一雄編/至文堂)1994
▲「源氏物語図典」(秋山虔・小野町照彦編/小学館)1997
▲「異形の王権 平凡社ライブラリー10」(網野善彦/平凡社)1993
【唐輪(稚児)関連】
▲「中世寺院の社会と芸能」(土谷恵/吉川弘文館)2001
▲「続日本の絵巻20 当麻曼荼羅縁起・稚児観音縁起」
▲「続日本の絵巻24 桑実寺縁起・道成寺縁起」
(共に、編集・解説:小松茂美/出版:中央公論社)
▲「新日本古典文学大系43 保元物語・平治物語・承久記」(岩波書店)
▲平治物語絵巻 三条殿夜討巻「ボストン美術館 日本美術の至宝」特別展図録(2012)
【古楽・芸能関連】
【古楽・芸能関連】
▲「日本音楽大事典」(平凡社)1989
▲「邦楽百科辞典」(音楽之友社)1984
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COMMENT
はじめまして
2012/11/16(Fri)11:42
私が高校生の頃、このみづらが異常に好きで、
下手なりにイラストなんかも描いてた時期もありましたが 今日、はじめてこの髪型が「みづら」というものを知りました。 今住んでる住宅地域に古墳群があり子ども向けの公開講座をするのですが、 その案内チラシを作成しているのですが、 装束の検証をばしていたところです。 いまでもやっぱりすき。 |
はじめまして!
2012/11/16 18:58
いらっしゃいませ。
みづら好きの方にお立ち寄り頂けて何よりです~。 お子さん向けの公開講座、いいですね~。 ふるさとの史跡に触れて、歴史に興味を持って貰えたら嬉しいですね。 …ついでにみづら好きっ子も増えるといいな~なんて(笑) |
平安時代の男性の髪型について
2024/07/17(Wed)22:43
NHKの歴史探偵で平安時代の宮中の祭りのVRが作成されて放映されていました。女性の髪型はそれで良かったのですが、男性の髪型や子供の髪型はいい加減に扱われていました。
平安時代の子供男性の髪型はみづらであると貴女のサイトで書いてありますが、成人男性は如何でしょうか? 平安時代も正装はみづらだと聞いたこともありますが、いかがでしょうか? また、その証拠はあるでしょうか? |
Re
2024/07/18(Thu)06:26
コメントありがとうございます。
当該番組を見ていないのですが、成人男性について「平安時代も正装はみづら」などという話はこれまで聞いたこともない珍説ですね。 童形の最上位として童形天皇の御袍や礼服に逢わせるのは上げみづら(総角や双童髻の名称も)ですが、 成人男性は元服後はずっと頭上一髻に冠帽ですし、最上位の礼服(らいふく)も、元々は中国から輸入されたものなので、当然、髻を結って冠を被ります。 この冠帽制は、髪を結わず垂らすこと、また、結っていても髻を露わにすることを蛮風とする慣習から来ており、そのため髻を冠や頭巾で覆うものです。 日本では次第に武家や庶民層で露頭に移行して行きましたが、公家では烏帽子冠を被り続けました。 成人の公家男性はみづらを結わない、というより、冠帽制定着後、元服式で理髪加冠した後は、髻を露出することが有り得なかったのです。 つまり、冠や烏帽子、頭巾を被っていたことが、成人公家男性がみづらを結わなかった根拠とも言えます。 |