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深度三,三三糎の心の海から湧き出ずる、逆名(サカナ)のぼやき。
 
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昔から、気になっていたことがありまして。

「貴族」

っていう言葉、古典テキストではあまり見覚えがない。

実は古語辞典を引いても出ていない。
(手元のは三省堂全訳読解古語辞典)

いつから使われていた言葉なんだろう?

ということで辞書などで調べてみました。

kizouitsu.jpg


◆「現代語から古語を引く辞典」(三省堂/2007)
で「貴人」を見ると、
貴人(きじん・きにん・あてびと・うまひと)
上(かみ)
上方(かみざま)
上つ方(うへつがた)
上人(うへひと・うへびと)
雲客(うんかく)
雲上人(うんじゃうびと・くものうへびと)
殿上人(てんじゃうびと)
上臈(じゃうらう)
上達部(かんだちめ・かんだちべ)
公達・君達(きんだち)
公卿(まうちぎみ・まえつきみ・くぎゃう)
公家(くげ)
卿(けい)
上卿(しゃうけい)
卿相(けいしゃう)
堂上(だうじゃう)

…などが載っているけれど「貴族」はない。

後は清華、貴戚、貴顕、貴種、とかが思い浮かぶし、
さらに、帝を指し、朝廷を指し、また朝臣を指すような言葉も含めるともうすこし出てくると思う。

◆広辞苑(第五版)には
【貴族】
(1)家柄や身分の貴い人、出生によって社会的特権を与えられた身分。
(2)(nobility)中世ヨーロッパの封建社会では、戦史身分として僧侶と共に領主層を構成し、土地と農民を支配した階級。
(3)比喩的に、特権を持ち高い地位にある人。

ううーん。日本の話は出てこないの?

◆新版日本史辞典(角川書店)1996初版 には
【貴族】
 本来的には一般人民から隔絶されて身分的・政治的・経済的・文化的特権及びそれに付随する栄誉や標識を与えられている世襲的の支配階級を指す語。
 日本古代においては三位以上の官人を「貴」四位・五位以上の官人を「通貴」と称し、その一族をおおむね貴族と称した。
 政治・経済・刑法において特権を有したのは、国家や王権との関係によって得たものである。なお近代では“華族”がこれにあたる。

この「貴」「通貴」は大宝令に拠るもののようなのですが、大宝令は散逸しているため、原文がなかなか出てこない。

◆取りあえず「古事類苑」
『[律疏 名例]…五位以上者、是爲通貴』(官位部八十)
は確認できましたが、律令の中で『貴族』が規定されていたような感じではなさそう…。(※「古事類苑」には『貴族』の項はなし)

というわけで伝家の宝刀(市立図書館蔵ですが)、
◆國史大辭典(吉川弘文館)を引いてみますと。
【貴族】
 日本では明治十七年(1884)と同四〇年の二つの華族令によって、公・侯・伯・子男の爵位を有する者、及びその家族が華族とされ、華族の一部分が大日本帝国憲法と貴族院法令によって貴族院議員となる権利を持ったところから、これらの支配階級を貴族と呼んだ。
 同時にこの貴族という呼称を、他の諸国民の歴史にも適用し、血統、その他しばしば必ずしも明確でない理由から他の国民大衆より隔絶され、身分的・政治的特権並びにそれに相応しい栄誉や権威を与えられている世襲的支配階級を指して貴族(貴族階級と一般的に呼んだ。
 従って、日本語で「貴族」と称されている階級の実体は、歴史的に様々である。例えば日本史の上では古代国家の支配階級の情操の者を貴族と呼ぶことが多いが、古代ギリシャの場合、ホメーロスに反映する社会では、王と同様に神々から生まれたとされる者が貴族の地位を占め、土地や家畜の所有において他より優れた都市に住むものとされ、彼らは又騎兵であった。
 前六世紀初めのソロンの改革に至る以前には、アルコン職経験者を終身会員とする貴族の会議「アレイオスパゴス会議」が作られた。これらの支配階級は、みずからのことをペリストイ(最良者)エウゲネス(よき先祖をもつ者)クレーストイ(有徳者)などと呼び、一般的市民をポネーロイ(悪人)ペネーテス(貧民)デーモティコイ(大衆)と呼んで、自己の地位を正当化した。
 一方、古代ローマでは、共和制時代にプレブス(平民)と対立したパトリキウス(貴族)があった。パトリキウスの起源については、比較的早期にローマに移り住んできた有力貴族であるとする説が有力で、共和制期前半には身分的・政治的に特権的な地位を独占し、しばしばプレブスの抵抗を受けた。
 パトリキウスと並んで共和制中期からノビレスと呼ばれる支配階級が現れた。ノビレスはパトリキウスがプレブスの上層を抱き込み両者が手を組んで政権を掌握したもので、過去にコンスル(執政官)を出したことのある家柄から成ったから、結党的な官職貴族ということが出来る。
 ローマ帝政期になると、ノビレスは皇帝の高官としての勤務による貴族へと変質してゆき、パトリキウスの血統も一世紀末には殆ど絶えた。これらローマにおける貴族も大土地所有者であった。 [弓削達]

 ……後半のギリシャ・ローマの記述って必要だったのでしょうか…。まあそれはおいといて。

 この記述によると、『貴族』とは、
明治時代の『華族』が
『貴族院議員』となったため、
貴族との俗称が生まれ、
それが他の国の世襲的支配階級にも
適用された。


ということで、

 …明治からか…。



ああそんなことじゃないかと思ってた(若干被害妄想気味に)
もっとも「貴族院」の名がどこから来たのかは「貴族院」の項には書いていなかった。

恐らく明治期に一般化した名称を、史学のほうで使い出した、ということなんだろう。
(本当はその辺の経緯をもう少し知りたいけど…)


おまけ。
同じく国史大辞典から
【公家】
 朝廷の官人の総称。武士が政権を握って武家と呼ばれたのに対し、天皇を取り巻く朝廷の官人、特に上層の廷臣の総称となり、公卿とほぼ同じ意味に用いられた。公家は、律令官人社会の上層部に系譜を引き、平安時代以降漸次藤原摂関家を中心として形成され公家文化あるいは公家風と呼ばれる風俗習慣を生んだ。
 江戸時代廷臣の家格が固定してからは、昇殿を許された家柄、即ち堂上家の廷臣を指し、少数の源氏・平氏・菅原氏などの諸家を除き、殆ど藤原氏諸家によって占められ、明治十七年(1884)の華族令では、原則として子爵以上の爵位を授けられた。
 なお公家は「こうけ」あるいは「おほやけ」と読み、天皇の指称としても長く用いられた。本来君主の家、又は朝廷を意味したが、転じて天皇を指す語となり、特に上皇の存在が常態化してからは、「院」に対する称ともなった。内裏・うち・みかど・天朝なども、天皇に対する同類の用語である。 [橋本義彦]

ふむふむ、「公家・おほやけ」がなどが天皇を指すことは知っていたけど、「院」に対応する指称だったのかあ。

さすが国史大辞典。ありがとう。

なお他に見た日本史用語大辞典(柏書房)、日本歴史大辞典(河出書房新社)には「貴族」の項はなし。

◆ちなみに「大言海」には太平記から引いた「貴族」の使用例がひとつ載っていたので、太平記から。
「承久より以来、儲王摂家の間に、理世安民の器に相当り給へる貴族を一人、鎌倉へ申下奉て、征夷将軍と仰で、武臣皆拝趨の礼を事とす。」
(太平記/巻第一/後醍醐天皇御治世事 付 武家繁昌事)

さらにおまけ。

◆『華族』は(清華の別名として)「官職要解」に載ってましたので引用。
「清華 また華族(かしょく)ともいった。大臣大将を兼ねて、太政大臣に進む家柄をいう。『源平盛衰記』に「徳大寺左大将実定は(略)華族の家に伝わり給へり。」と見える。久我・三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門などの家である。
 清華の文字は、『北史』李彪伝に「才、等を抜くを以て清華を望む」と見える。華族は『文選』巻四十六任彦昇の王文慧集序に「公、華宗より生る」とある李善の注に「魏志に、曹植、上疏して曰く、華宗貴族、必ずこの挙に応ず」とかいてあるのによったのである。」
「新訂 官職要解」(和田英松著・所功校訂/講談社学術文庫)
 
 ※なお「摂家」(摂政関白になる家柄)の方が「清華」より上。

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■[正倉院展]菩提僊那の直筆署名 文書初出展(読売新聞)

というニュースを朝、目にしまして。
え……。こんなすごいニュースを会期末目前にして知るなんて…。
まあ、芸術的な工芸品でもないこういう『文書』の扱いがささやかなものになってしまうのは仕方ないと思いますが、これがネットでも初出らしいので、やっぱりちょっと、ああ、まあ、内容も別に面白い訳じゃないし、でも、うおおお…。
こりゃすごい すごいです。
出家したい人の推薦状にあった署名らしいのですが。
筆蹟から、実直な人柄が窺えるって…Vv
こんなものが見つかるなんて、嬉しいですね~。

血が騒いだので、以前書いたものを引っ張り出してきてみました。
仏哲や林邑楽をメインに据えて書いたものからの抜粋なので、色々ばっさりやっちゃってますが。
菩提僊那の人物像がちょっとでも見えたらいいな~と思います。



■婆羅門僧正(菩提僊那)について
 
○その出生と呼称
 婆羅門僧正菩提僊那(ぼだいせんな、ボーディセーナ/仙那とも)は南天竺の人と伝えられる。生年についての記述はないが、『南天竺婆羅門僧正碑』には、
 
『以天平寳字四年歳次庚子二月二十五日夜半。合掌向西。辞色不亂。如入禮樂。奄爾遷化。即以同年三月二日。闍維於登美山右僕射林。春秋五十七。』
 
 と、没年と享年が記されているので、天平宝字四(760)年から逆算してみると、生年は703年(唐では中宗の嗣聖二〇年、又は則天武后の長安三年、日本では文武天皇の大宝三年)となる。
 その名が示す如くバラモン階級の出身であり、天平勝宝二(750)年に僧正位に叙されているので、婆羅門僧正と呼ぶ。これは勿論日本での尊称である。菩提僊那は僧号であるが、梵音に漢字を振ったものと思われる。俗姓は婆羅遲(バーラドヴァージャ)といった。
 『扶桑略記』と『大安時菩提伝来記』には迦毘羅衛城(カピラヴァストゥ)の出身とも云い、迦毘羅衛は北天竺であるから南天竺出身という記述とは矛盾が生じる。(『扶桑略記』には注をしてこの事を疑っている。)天竺の地理に明るい筈もない日本人が誤って南天竺と記したものなのか、釈迦の生誕地である迦毘羅衛を菩提僊那のそれに当てたものか、判然としない。
 
○主な現存資料
 菩提僊那に関する史料は、おおよその成立年代順に、
 
  1. 『南天竺婆羅門僧正碑并序』(770年頃)
  2. 『続日本紀』各記事、(~797年頃)
  3. 『日本往生極楽記』(~1002年頃)
  4. 『扶桑略記』(平安時代後期)
  5. 『東大寺要録』(1106年)所収の『開眼師伝来事』に引かれる
  6. 『大安寺菩提伝来記』と
  7. 『元興寺小塔院相承記』、
  8. また『日本高僧伝要文抄』(1249~51年)
  9. 『元亨釈書』(1322年)
…が挙げられる。 一部テキストを、「続き(史料)」に載せる。
 中でも最も詳細な記述があるのは『南天竺婆羅門僧正碑』である。
これによれば、菩提僊那は若くして天竺諸地方にその高徳を知られていたが、唐は五台山(現在の山西省北東部)に現れた文殊菩薩の徳を慕って入唐を決意したという。
 仏哲を伴った菩提僊那の入唐後の様子については、詳しい記述は見られないが、『東大寺要録』第四巻《大和尚伝》*一に、鑑真が来朝し、一時東大寺へ留まった時の記事として次のように見える。
 
「後有婆羅門僧正菩提亦来参問云。某甲在唐崇福寺住経三日。闍梨在彼講律。闍梨識否。和上云憶得也。」
 
 晩年の菩提僊那が東大寺の鑑真の元を訪れて、「某甲(わたくし)が唐の崇福寺に滞在して三日目に、阿闍梨(ここでは高僧の敬称)があちらで律を講じて下さいました。御記憶でしょうか」と聞き、鑑真は「憶えていますよ」と答えた、という。
 どうやら菩提僊那は、長安の崇福寺に止宿していた事があるようである。ただしその期間などはやはり詳らかでない。
 入唐の時期についての記述もないが、ただ、『僧正碑』には、
 
「于時聖朝通好發使唐國。使人丹治比眞人廣成。學問僧理鏡。仰其芳譽。要請東歸。僧正感其懇志。無所辞請。以大唐開元十八年十二月十三日。與同伴林邑僧佛徹唐國僧道璿隨船泛海。及于中路。忽遭暴風。波濤注日。陰曀迷天。計命忽若贅旒、去死尚其一分。擧船惶遽不知所為。乃端仰一身入禪観佛。少選之間風定波息。衆咸嘆其奇異。以天平八年五月十八日。得到筑紫太宰府。(中略)同年八月八日到於攝津國治下。」
 
 という記述があって、これを見ると、《大唐開元十八年(730)年十二月十三日》に遣唐使等の招きに応じて遣唐廻船に乗った、かのようであるが、丹治比真人広成を正使とする第九次遣唐使団が日本の難波津を出発したのは天平五年(733)年、唐歴でいうと開元二十一年で、明らかに齟齬がある。これでは、菩提等が遣唐使との遭遇を待たず、自力で海へ漕ぎ出したという事になってしまうのだ。
 しかし、それならばこの《十二月十三日》という具体的な日付は何処から来たのであろう。
 思うに、《大唐開元十八年十二月十三日》とは、菩提達が入唐したか、五台山あるいは長安に着いた日付と見るのが妥当なのではあるまいか。そう考えると、菩提達は六年ほど唐に滞在し、その間に遣唐使丹治比広成や理鏡と邂逅したことになる。天竺から遠路はるばる唐へやって来て、すぐに日本へ渡るというのも慌ただしい話である。当時菩提僊那は未だ二十後半~三十代前半であった。学ぶべき事も意欲も、尽きることはなかっただろう。日本行きが決まってから、遣唐使達から日本語を学ぶ機会などもあったかも知れない。
 
 さて、上記のような理由から、私は菩提僊那の入唐・来朝年について次のように比定するのが妥当と考える。
  • 菩提僊那等入唐、或いは五台山または長安への到着…大唐開元十八年(天平二(730)年)十二月十三日、菩提僊那二十七歳。
  • 第十次遣唐使(正使丹治比真人広成、副使中臣名代)発遣。…天平五(733)年。菩提僊那三十歳、唐にて広成、遣唐留学僧理鏡から日本へ招かれる。
  • 遣唐廻船に乗船し、太宰府を経て難波津へ到着…天平八(736)年、菩提僊那三十三歳。
 
 『僧正碑』では、この航海の様子を
 
「船泛海。及于中路。忽遭暴風。波濤注日。陰曀迷天。計命忽若贅旒、去死尚其一分。擧船惶遽不知所為。乃端仰一身入禪観佛。少選之間風定波息。衆咸嘆其奇異。」
 
 ──と述べており、彼等が嵐に遭った事は確かだったようである。
 ちなみに、この時の遣唐廻船は第四船まであったが、海難に遭って第三・四船は流され、判官平群真成らを乗せた第三船は漂流の末、崑崙国に流れ着いたと『続日本紀』は記す。
 崑崙とは、唐宋時代に於いてマレー半島・インドシナ半島などの地域の総称として使用されていた地名である。一行は在地民の襲撃に遭い、また病に冒されるなどして次々に斃れ、捕らえられて王の前に引き出された時、生存していた者は平群真成と水夫数名に過ぎなかったという。数年収監されたあと、商人の手引きによって脱出、唐との国境まで逃げて唐に救援を求めた。当時、中央には阿倍仲麻呂(朝衡)がおり、彼等の帰国の為に様々な差配をしたため、平群真成らは帰国を許されて、渤海使に同船して日本への帰国を果たした。この時平群真成が捕らわれた国は林邑であったとする説が有力だが、林邑の人である仏哲が日本へ辿り着き、平群真成が林邑へ漂着したとは、奇縁なことである。
 さて、第一・二船に乗っていたと思われる菩提僊那と仏哲は、九死に一生を得て太宰府へと辿り着き、難波津では太宰府からの報せを受けた行基から歓迎を受けた。
 
○行基との交誼と日本での処遇

 太宰府を経て摂津国難波津へ到着した菩提僊那を、天平随一の高僧行基が迎える場面が、殆どの資料に描かれており、特に『扶桑略記』以降『元興寺小塔院相承記』『菩提伝来記』『日本往生記』の資料においては、初対面の行基と菩提僊那は、最初は梵語で会話をし、次には和歌を詠み合っている。
 書き記されている歌は、次の二首である。(※[]内は筆者注)
 
「(前略)唱二倭歌一曰。
靈山能。尺迦乃彌摩部二。知岐利天子。眞如久知世須。阿比美都留賀奈。
[靈山の。釈迦のみ前に。ちぎりてし。眞如くちせず。逢ひ見つるかな。]
異國聖者即答和曰。
迦毘羅恵邇。等毛邇知岐里之。加比阿利天。文殊美賀保。阿比美都留賀奈。
[※迦毘羅恵に。ともにちぎりし。甲斐ありて。文殊みかほ。逢ひ見つるかな。]」
 
 資料によって表記の異同はあるが、大体この様である(引用は『日本往生極楽記』から)。
 実はこの贈答歌のエピソードは『太平記』『今昔物語』『源平盛衰記』『沙石集』などにも引かれ、謡曲『巻絹』にも出てくる。歌意は、前生に於いて釈迦の元に共に修行をし、来世での邂逅を言い交わした、その契りが今果たされた、というほどのものであろう。
 もし仮に、これを史実として見た場合の話ではあるが、外国語の学習においては、日常会話よりも詩作の方が遙かに難易度は高い筈である。和歌の贈答となるとなかなか、日本語初心者には難しいだろう。となると、唐で既に相当の語学力を培ったということだろうか…。
 もっとも、これがありきたりの漢詩の贈答でないところが、宿世の縁というもののあらわれとしては相応しいわけである。
 また、本当にこの時和歌を詠み交わしたかどうかはともかく、東大寺開眼会に際して菩提が詠んだ歌は確かに残っている。(『乃利乃裳度。波那佐岐邇多利。計布與利波。保度介乃美乃利。佐加江多萬波舞。/法のもと。華開きにたり。けふよりは。仏の御法。栄たまはむ。』東大寺要録所収)
 
 行基(666~749年)という人は、八世紀頃から畿内を中心に遊行し、仏法を説くと共に、多くの寺院開基に携わり、池溝や橋梁の建設、布施屋(租税の運搬者や旅行者の為の無料宿泊所)設置などの社会事業に力を尽くして、民から大変敬われた高僧である。その影響力の強さから養老元年、僧尼令によって弾圧されたが、のち東大寺及び大仏の建設においては、その人望を活かして勧進を推し進めることとなった。
 菩提達の来朝時、行基は六八歳という高齢であったが、自ら菩提僊那を迎えに出て、初対面でまるで旧知の間柄のように打ち解けあったという。
 
「…主客相謁。如舊相知。白首如新。傾蓋如舊。於是見矣。…」(『僧正碑』)
 
 日本への道すがら、菩提等が同道の理鏡等から行基の業績を聞き知っていた事は容易に想像できる。その高徳の僧に温かく迎え入れられて、菩提もはるばるやって来た甲斐があったと感じたのではなかろうか。
 また、老境にあって大事業を担う行基にも、波濤を越え来たった若き天竺僧の志が、さぞや尊く有難く思われたことだろう。
 
 都に入る頃には、この目出度い話を聞き付けた大衆が婆羅門見物に訪れ、道を埋め尽くしたという。
 聖武天皇も感激し、勅して菩提僊那等を奈良大安寺に住まわしめた。
 
 現在は盛時の面影はないけれども、大安寺は奈良の昔には南都七大寺の一つに数えられ、東大寺に並んで南大寺とまで称された名刹であった。寺伝では、聖徳太子が建立した熊凝精舎を、舒明天皇十一年(六三九年)に、太子の遺言によって百済大寺として移築したのがこの寺の始まりであるとしている。のち、高市大寺、大官大寺、大安寺と移築の度に名を変えた。
 菩提僊那の大安寺への居住については、『扶桑略記』には「大安寺東僧坊南端小子坊留住」とあり、『元亨釈書』には「教舘大安寺東坊」とある。
 当時の伽藍配置は、『南都七大寺の歴史と年表』に詳しい。大安寺伽藍には他の南都寺院とも違う特色があった。それは、通常は講堂を囲んで三方に配置される僧坊(僧侶達の生活空間)が、更に金堂を囲む回廊の外側にまで伸びており、しかも一列でなく、複数列に重なっていることである。
 つまりこれは、大安寺に居住した僧侶の数が大変多かったことを示している。菩提僊那や仏哲が居住した当時は880人を越える学僧が居たという。
菩提もこの大所帯の内に一室を構えたのである。恐らく同行の仏哲も彼の弟子として、東坊の南端に住まいしたものと思われる。

 来朝してからさして間もなく、天平八(736)年から大安寺に居住した。以来菩提僊那入滅の天平宝字四(760)年まで、二十四年ほどを我が国で過ごしたことになる。

 当時の大安寺は、単なる寺院に留まらず、渡来の賓客の受け入れ先として、外務省や迎賓館的な機能を持ち、さらに、渡来僧が教鞭を執る外語大学という一面を具えていた。
 菩提僊那も、この学びの苑の師のひとりであった。彼は華厳経を肝要として常に諷誦し、密呪も善く伝えたという。
 
 「僧正諷踊華嚴經以為心要。尤善呪術。弟子承習。至今傳之。」(『僧正碑』)

 また、菩提と仏哲は悉曇(サンスクリット)も伝えた。これ以前の日本では、悉曇は経典や断片的な文章、仏教美術の一部として伝わってはいたが、本場の高度な悉曇学をネイティブである天竺人に教わることが出来たというのは、当時の学僧にしてみれば法悦ものの歓びであったに違いない。云うまでもなく、漢字で書かれた経典は中国で翻訳されたものであり、日本人にもとても有り難いものではあるが、原典で釈尊のことばを直に読むことが出来たとしたら──。
 いやはや、これもまさに、盛時の奈良が絢爛たる国際都市であったことの象徴ではなかろうか。
 
 ──今回発見され、正倉院展に出品されている文書は、このような大安寺における菩提僊那の活動を偲ばせる、貴重な物である。

 「本朝高僧傳」には仏哲がもたらした密部経典の中に『悉曇章一巻』を挙げている。これは安然の『悉曇藏』、玄昭『悉曇略記』(共に平安前期~中期)に引かれて、江戸時代までは写本が残っていたようである。
 また、日本人が悉曇を学習するときに、梵字の字音配列に倣って対応する音の配置表をつくり、それが「あいうえお」の五十音配列になった、ということがよく言われる。
 高楠順次郎は「この配列法は梵語を実際に学習した人の案であるという点は確かである。そこでこの五十音図はインドの知識を表白せる奈良朝の産物の第一に置くべきものである」と云っている。(高楠順次郎全集9・教育新潮社S53)
 この説が正しければ、インドに於いて高度に発展していた悉曇学が、正しく日本に将来されたことで、現在の私達にも馴染み深いものが生まれたということである。
 勿論直接的に菩提僊那や仏哲が造ったという訳ではないかも知れないが、彼らの存在が、確かに日本人の血肉になっているのだと思うと、深い感慨が胸を満たすのである。


さて、菩提僊那といえば、やはり大仏開眼導師の役を担ったことで知られる。
最後に、そのあたりの事情と、開眼会の様子を少し見ておこう。
 
○開眼導師の大任
 聖武天皇の大仏建立の悲願は、行基等の尽力の甲斐もあっていよいよ実を結ぼうとしていた。大仏開眼会において盧遮那仏に点睛を施す開眼導師は、本来は天皇が自ら勤める筈であったのだが、病を得てそれも叶わなくなり、大仏鋳造の功労者である行基も己の死期を悟っていた。
 そこで行基は、自らの最も信頼する僧にその任を委ねた。
 それが菩提僊那である。
 実際、行基は開眼会を見ることなく天平勝宝元(749)年に薨じ、同年、聖武天皇も孝謙天皇に譲位して太上皇となっている。太上皇の病状を慮って開眼会の日取りも早められた。
 天平勝宝三(751)年四月二十二日、詔が下って菩提僊那は僧正となった。
 次に挙げるのは、上皇から菩提僊那へ宛てた、開眼導師を依頼する文章である。
 
「皇帝敬請
菩提僧正
以四月八日。設斎東大寺。供養盧舎那仏。敬欲開无辺眼。朕身疲弱。不便起居。其可代朕執筆者。和上一人 而巳。 仍請開眼師。乞勿辞摂受敬白。」
(『東大寺要録』巻二 供養章三)
 
 或いは鑑真の渡海がすんなりと成功していたならば、菩提僊那が開眼の筆を執ることはなかった、とも考えられる。(勿論法会の講師あたりには名を連ねていたに違いはないが。)鑑真が苦難の末に来朝を果たしたのは、開眼会の翌年、天平勝宝五(753)年のことだったのである。しかし、行基の指名、天竺婆羅門種という出自、大安寺での教授実績などから鑑みて、この時開眼の師に相応しい人物は、やはり菩提僊那以外にあり得なかったのだろう。
 また、菩提僊那が重んじた華厳経の教主こそ、かの盧遮那仏であった。
 
 いずれにせよ、菩提僊那が開眼会に相当の意気込みで臨んだことは想像に難くない。
 当日の開眼供養会の模様は、『東大寺要録』に詳しい。長くなるので適宜略して訳す。
 
「天平勝宝四年九日、太上天皇、太后、天皇は、東大堂の布板殿に座した。
 大堂宇の内側は種々の造花や美しい刺繍の幡で飾られ、堂の上からは種々の花びらが振り散らされた。
東西には刺繍の布、八方には五色の布が懸け渡されていた。
僧侶達が南門から参入してきた。
(略)
次に開眼師僧正菩提法師が、輿に乗り白蓋を捧げられて東門から入場し、迎えられた。
(略)
開眼師が進み出て前を払い、筆を取って開眼した。亦、筆には繩が着けられ、参集した人等にも開眼せしめた。すぐに講師と読師が共に高座へ登り、華厳経が講じられた。衆僧や沙祢達を、南門から左右に頒かれて参入させた。
(略)
大安寺薬師寺元興寺興福寺の四寺が、種々の珍しい宝を献じた。
亦、種々の楽が賑やかに参入してきた。
(略)
左大臣など十六人が鼓を打った。
妓女六十人が鼓を打った。
度羅楽を行う四つの寺の者達が道を二往復した。
堂の前に左右に頒かれて立ち、左大臣以下鼓を打っていた者達は着席した。
次の者達に順々に奏楽をさせた。
大歌女、大御舞三十人。久米舞、大伴氏二十人・佐伯氏二十人。跳子百人。唐古楽一舞、唐散楽一舞、林邑楽三舞、高麗楽一舞、唐中楽一舞、唐女舞一舞。施袴二十人、高麗楽三舞、高麗女楽。
法会の行道(行列)に動員された人々は、次のようなものがいた。
梵音を唱える係の僧侶二百人、維那(首座)一人、
錫杖を打ち鳴らす係二百人。
唄の係十人、散華(花弁を撒く係)十人、
定者(香炉を持つ役の童子)二十人
衲(僧侶)三百三十人 甲(武官)三百四十人
開眼師、供養師、読師、咒願師、都講師、維那師の六人。
或る本には、衆僧沙弥九千人。巳上都合一万二十六人という。」
(『東大寺要録』巻二 供養章三)
 
 夥しい数の善男善女が、大仏の膝元に参集した訳である。
 この国家事業は、多くの民衆の苦痛を伴ってもいた。それだけに、是が非でも成功させなければならないものだった。一万人の注視の中で、大役を果たした菩提僊那の握った筆は、或いは、些か震えていたかも知れないなどと想像を逞しくする。
 菩提は無事この偉業を成し終え、「東大寺四開基」に名を連ねた。
 これより八年後の天平宝字四年に婆羅門僧正菩提僊那は入寂。
 菩提の墓が今も残る大和国霊山寺は、故郷天竺の霊鷲山に地形が似ていると菩提が言ったことから、彼の地に因んで名付けられたという。

かれは仏となって西方浄土へ還っていったのだろうか。


***************************** 

参考文献
▲高楠順次郎『奈良朝の音楽殊に「林邑八楽」について』「高楠順次郎全集 第九巻」所収。(教育新潮社、1978年刊)
▲田中於菟彌『林邑僧仏哲について』「酔花集 インド学論文・訳詩集」(春秋社1991年刊)所収。
▲富田春生『雅楽の中の仏哲』「南方文化」第十一輯(天理南方文化研究会1984年11月刊)所収。
▲太田博太郎『南都七大寺の歴史と年表』(岩波書店1979年)

引用史料については「続き」に。
大河の後白河さん御落飾記念ということで『上皇御落錺部類』から引いてきました。
といってもいつ録画見るかわからないし、たぶん剃髪シーンなんか一瞬だろうし、自力でおいしいとこを調達…。
 
『兵範記』の引用部分には特に仔細が書かれていますね~。
もう少し法衣について詳しく書いてあれば嬉しかったのですが。

 御剃髪の次第をまとめると、
 
○上皇が御簾内から外の御座につく。
○剃手の僧が御髪を左右二つに分け、紙縒(こより)で縛る。
○御衣(このときはまだ俗服の布袴)の襟をくつろげ、湯帷子を肩に掛ける。
○二人いるうち、上位の剃手がまず左の御髪から剃る。下位の剃手がお湯を懸けて濯ぐ。
 この時、頭頂部をわずかに剃り残す(周羅髪)。
 (剃っている間、梵唄あり)
○紙縒で束ねた二房の御髪は檀紙に包んで、左右を書いた名札を付ける。
○下位の剃手がお髭を剃る。
○剃り終わると上皇は御簾内に戻り、布袴を脱いで法服を召す。
○お召し替えの間にささっとその場をお片付け。
○再びお出ましになった上皇の周羅髪を、戒師が剃り除く。
○法名を定める。(『行眞』は後白河さんが前から決めていたもの)
○戒師が袈裟を授け、法皇は捧げ持ち一拝、一度戒師に返す
○戒師が法皇に袈裟を着せ懸けて、威儀の緒を結ぶ。
○戒師が念珠(菩提樹の実と水晶のもの)を授ける。
○沙弥十戒、菩提戒を授ける。
○法名を授ける。
○法皇が御簾内の御座に戻る。
 
という感じのようです。
後略のあとはまだ御修法が続くのですが、今回は御落飾の部分メインということで。
なお『逆修』とは、生前から自身の冥福の為に供養を行うことです。
 
名が省略されているので付け足し。
当時の大臣は
摂政 藤原基房
太政大臣 藤原忠雅
左大臣 藤原経宗
右大臣 源雅通
です。

凡例:()傍注、(イ)異記、[]割注
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上皇御落錺部類
 
後白川天皇
 
《百練抄》
嘉應元年六月十七日。太上天皇御出家[御歳四十三。]御戒師前大僧正寛忠。法名行眞。自今日被始御逆修。
 
《玉葉》
嘉應元年六月十七日壬寅。時々雨降。今日上皇御出家也。所被始御逆修也。限以五十ヶ日云々。一向被逐保延鳥羽院例也。下官自去正月依所勞籠居。雖尚不快。依爲天下之大事相扶出仕。午前着直衣。[隨上臈冠。]參法住寺殿。候公卿座。先是内府。新大納言[隆季]等在此座。自餘公卿徘徊便所云々。大和國。左府候御前座。已有御出家云々。彼(イ仍)兩人早參。仍被召御前。余内府等遅参故無召云々。頃之少将光能來臨[人々多參御所方。仍招光能。]問云。御布施歟。答云。未事訖。令申御參之由畢(イナシ)事始畢(イナシ)。於着座者。只今不可然同事也。御布施之時可申之由。有其仰云々。卽光能來云。事畢云々。仍余内府已下參御所方。[其所当方御懺法堂也。經□殿南□參也。]先五位院司光長取被物。授大和國戒師布施。次事了。此中有装束二具。前大納言實定。新大納言隆季取之。是保延之例也。奉行成頼卿進云。永治之時於御装束者。大納言上臈取之云々。實定隆季暫相讓之間。左府早可進之由示實定。仍先取之。次隆季取之。次泰經[五位也。]取被物櫃。左府須上臈。次第取了。[相國左府竝歸着御前座了。]次顯方[五位]傳被物。余取之。唄下臈法印憲覺也。着座次第了。次内府已下剃手上臈尊覺取了。内府又着座。次實定已下公顯之布施取了。次各從僧等參進取布施等了。次僧退下。次公卿退各着便所。次打僧集會鐘。次僧等參集。次光能來仰可始之由。之相國示也。成頼云。先例以鐘聲公卿參着也云々。而相國尚入來可仰之由示也。仍仰之。卽相國已下參上着座。次僧侶參。次堂童子二人。[一方也。]盛隆兼光着座。次唄。次分花筥。次散花。次説法。未事了。余依所勞更發退出了。今日攝政早參早出云々。是日來發心地所勞。今日發日和勞之故云々。今日戒師。[三井寺長吏前大僧正覺忠。]唄。[法印公舜。法印憲覺。]剃手。[法印尊覺。法印公顯。]
 
御逆修僧名
 (三)法印禪智。
 (三)憲覺。[但護摩師也。不着座。]
 (三)尊覺。(山)實寛。
 (三)公顯。(山)僧都隆憲。(山)法眼顯智。(三)觀智。
 (山)律師良明。
 (三)法橋實慶。
 (山イ重)尊量。智秀等也。
 
 攝政太政大臣奉行。左府。余。内府。
公卿。
 大納言公保。 隆季。
 實房。 中納言邦綱。
 宗家。 資長。
 兼雅。 成親。
 忠親。 時忠。[此不露見也。]
 参議資賢。 成賴。[奉行。]
 宗盛。 實綱。
 前大納言實定。 前中納言光隆。
 光忠。 非参議俊成。
 俊盛。 實家。
 定隆。 朝方。
 
今日先有御奉書。使成賴(イ卿)。作者俊經。淸書朝方。次御隨還祿。廳官取之云々。將曹以下仰可令候本府之由。重近兼賴等被仰可令候召繼所之由云々。保延之度。此條不被仰。追仰(イ三字ナシ)歟云々。隆季卿語也。隆季又語云。今日御隨等不帶劔云々。未知其故。又内府不帶。
 
《兵範記》
嘉應元年六月十七日壬寅天陰。今日太上皇令遁世給。御年四十三。追鳥羽院例。此四五ヶ年雖有御願。于令遅引。宿善期至。令逐素懐給也。於法住寺御所御懺法堂有其儀。兼奉仕御装束。其儀。御懺法堂西面母屋并南(西カ)面兩面廂懸御簾。鋪設莊嚴具見指圖。
院司修理大夫俊成卿。左少將光能朝臣。兼日奉仰致其沙汰。且隨御所便宜。且准保延七年例所奉仕也。
今朝左中弁俊經朝臣持參御報書草。院司右中弁長方朝臣奏聞。[入莒。]卽令皇后宮權大夫朝方卿淸書。御覧了又給長方朝臣。納朴函以檀紙四枚。[各重二枚。]褁立押合。前後結中如常。表褁了又進上。次修理大夫賜之。令院司權中納言成親卿被獻内裏。判官代藤原光章給莒主典代大藏少輔基兼於中門外又給函相從。權中納言引率判官代主典代逐電参内。於大内頭中將相逢奏御報書。次内乱納御厨子。次權中納言以下歸參。報書使進發之後。長方朝臣賜御隨身祿。左右將曹秦兼任兼國各六丈絹四疋。府生秦賴文中臣延武各同絹三疋。番長秦公景兼宗各同絹二疋。主典代等取之。近衛六人各手作布二段。廳官取之。修理大夫仰云。各可候本府。次將曹以下退出。
御報書事。永治例。右少弁朝隆奉行。左中弁顯業朝臣草之。右少弁朝隆淸書。院司權中納言家成卿爲御使。
 今度作者淸書御使。併爲彼子息。吉例相叶。自然之前表也。
今度御報書有裹紙。其上巻禮紙二枚。又巻一枚。次入莒以檀紙四枚[各重二枚。]裹之。結中如常。巳刻。攝政殿太政大臣。[忠。]左大臣[經。]右大臣。[兼。]内大臣。[雅]以下。納言。前納言。參議。散三位廿六人參入。依召殿下令參御前給。有御對面。次殿下令退出給。日來令煩發心地給。已有御氣色云々。
午刻。前大僧正覺忠。[香染法服令着衲袈裟。]法印公舜。同憲覺。尊覺。公顯。[已上四人宿装束平袈裟。大僧正以下作五人宿房遠。又依別仰自去夕參宿近邊。大僧正令宿熊野御精進屋鄺給。參上御所之間。乗手輿。從僧歩行。]參上暫被候西廊。
未尅。上皇自東廊御所渡御西面御所。[御装束布袴。]先御坐母屋簾中。次太政大臣。左大臣。依召候御前座。次被召僧徒。前大僧正爲戒師。公舜。憲覺爲剃除。此外法橋實慶。阿闍梨眞圓。同源猷。爲勤雜役祗候北廂障子外。[大僧正以下于役人併八人。皆爲園城寺門徒。叡慮之所及凡夫難知云々。]次戒師從僧參三衣莒置掖机上。次戒師(三字ナシ)。上皇出御御簾外御座。次於南面御拜。[永治例云々。]次戒師着説戒座灑水。次三禮唄。次打磬表白。次請和尚文。[在答。]〔請阿闍梨文。在答。〕次御拜。先太神宮。次八幡。次鳥羽院陵。次待賢門院御墓。各向其方兩段再拜云々。[先例多召人笏。今度被用元御笏云々。]次流轉三界中頌。次髭毛爪皮文。次善哉大丈夫頌。次歸依大世尊文。次雜役僧等持参雜具御脇息。實慶法橋打敷。眞圓阿闍梨御手洗。源猷水瓶。又實慶御髪剃莒。又眞圓御湯帷御手巾等。又源猷。[已上置御座邊并打敷上。]此後雜役三人僧相替勤之。次上皇取御髪中。次剃手結分左右御髪。[用紙捻。]次令開御衣襟給。[頗袖下以御湯帷令引懸御肩上給。]次上臈剃手尊覺奉剃左御髪。下臈剃手公顯奉懸御湯。此間下臈唄師憲覺唱唄。次剃除了。左右御髪褁檀紙付札。[件札兼書儲云光能朝臣所作歟]。次下臈剃手奉剃髭鬚。[御剃髪之間。和菊奉懸之。]次法皇入簾中。脱俗服令着法衣給。次供御手水。此間僧徒撤雜具投具。御髪暫置御同厨子。次法皇取御袈裟出御。次戒師奉除周羅髪。[件周羅髪頂三五莖殘者見戒律作法云々。]次定御法名。行眞。次戒師置袈裟袖上。頌文。大哉解脱服。以御袈裟奉授法皇。以左右手令受給。次捧御袈裟一拜卽返給。戒師如此三反了。法皇令着給。[永治寛遍法眼奉結御袈裟緒。今度尊覺法印結之。]次召御念珠。[菩提子水精装束念珠。戒師被獻云々。]次遇哉値佛者偈。次奉授沙彌十戒。次説戒相。次神分。次廻向。次令授菩提戒給。被授申御法名。[行眞。]日來被案撰哉。次法皇入御簾中次戒師復本座。次巻南廂御簾。次給布施。
先戒師。
 綾被物一重。
  太政大臣取之。判官代盛隆傳之。
 布施二裹。[絹裹白布各七反。]
  民部卿光忠。治部卿光隆取之。
 布袴御装束一具。[裹白絹裹。當日着御之御装束也。脱御之後帖之裹調也。]
  皇后宮大夫實定取之。
 直衣御装束一具。[同裹。]
  權大納言隆季卿取之。
 鈍色装束一具。
  権大納言實房卿取之。
 長絹二裹。[各五疋。]綿二裹。[各百兩。]
  已上四裹權中納言邦綱以下取之。
次唄師二口。
 各綾被物一重。
  左大臣。内大臣取之。[判官代光長奉經傳奉之。]
 布施一裹。[各白布五段。]
  参議散三位取之。
 鈍色装束一具。
 長絹一裹。[五疋。]綿一裹。[五十兩]。
  已上納言已下取之。
次剃手二口。
 被物以下色目同前。
  公卿侍臣次第取之。
次事了。戒師以下退下。
此間以蔵人頭右中將實守御願逐了之由被申大内。[修理大夫奉仰。於渡殿邊仰之。]
 寛平法皇御遁世之日。以院司中納言被奏聞。萬壽上東門院御遁世日。以藏人頭被申大内。永治依吉例。以頭中將教長被申大内。今度依彼二代吉例。被用頭中將也。
次被始御逆修。
【後略】
 
**********************************************
 
底本:
『上皇御落錺部類』 所収「続群書類従 第26輯上 釈家部」(塙保己一編纂/続群書類従完成会)1926
 
[袈裟・法衣の目次]
(まだ見てないけど)大河に傀儡がでてきたそうなので、復習で読み下し。
短いので訳も。
 
 
『傀儡子記/大江匡房
 
傀儡子は、定居無く、當家無し。穹廬氈帳し、水草を遂て以て移徒するは、頗る北狄の俗に類す。
(傀儡子は、定まった住処や、しかるべき家を持たない。天幕を張り、毛織物をとばりとし、水草を追うように移住していくことは、北狄の風俗によく似たものである。)
※穹廬氈帳(きゅうろせんちょう)穹廬は、中国北方民族のテント、ゲル(パオ)。氈は毛織物、おりかも。「漢書」鳥孫公主悲愁歌中に『穹廬爲室兮氈爲牆』とあり(西域伝/鳥孫国)。
※北狄(ほくてき)匈奴など、中国北方の異民族。
***
男は則ち皆弓馬を使ひ、狩猟を以て事と為す。或は双剣七丸を弄し、或は木人を舞はせ、桃梗を闘はせ、生人の態を能くすること、殆ど魚龍曼蜒之戯に近し。沙石を變じて金銭と為し、草木を化して鳥獸と為す。
(男は皆弓を持って馬に乗り、狩猟を行って仕事にしている。あるいは、剣舞やお手玉の技を見せる。また、木の人形を舞わせたり、操り人形を闘わせたりして、生きた人間の様子を模すことは、ほとんど、書物にある散楽の『魚龍曼蜒之戯』に近いのでは、と思われる。砂利を金銭に変えたり、草木を鳥や獣に変えもする。)
※桃梗(とうこう)邪気を払うとされる桃の枝で作った人形。(戦国策/孟嘗君將入秦『今子東國之桃木、削子為人。』)
※魚龍曼蜒(ぎょりゅうまんえん)不詳だが、水槽や龍の張子などを使った大掛かりなアトラクションだった模様。(「通典」楽典/散楽『魚龍漫衍之伎常陳於殿前』)
***
□□□女は則ち愁眉に啼くを為し、折腰の歩を粧ひて、齲齒のごとく咲ふ。朱を施し粉を傅す。倡哥淫樂し、以て妖媚を求む。父母夫誡せざるを知る。丞ち行人に逢ふと雖も、振容を嫌はず。一宵の佳會、微嬖の餘、自ずから金繍服錦、金釵鈿匣の具を献ずれば、之を異に有せざるはなし。
(女は、細く愁わしげな眉、泣き跡の残るような目元をつくり、しなしなと腰を折って歩き、物憂く微笑み、紅を差し白粉を塗って、魅惑的な歌舞戯で媚を振りまく。父母や夫が戒めないことを知っているので、行きずりの者にも愛想よく微笑んでみせる。客は一夜のこころよい酒席のあとで、想いの余りに豪華な衣装や宝飾品を贈るが、女の方では、大概のものは既に同じ品を持っている。)
※淫楽…激しいリズムや速いテンポの情熱的な音曲。礼楽思想の下ではそうした曲調は亡国の調べともみなされた。ただ、これも書を引いてのものの喩えなので、彼女らの音楽が厳密にこのようだった、というわけではないだろう。
※「…漢桓帝元嘉中、京都婦女作『愁眉』『啼粧』『墮馬髻』『折腰步』『齲齒笑』。
『愁眉」者、細而曲折。『啼粧』者、薄拭目下若啼處。『墮馬髻』者、作一邊。『折腰步』者、足不在下體。『齲齒笑』者、若齒痛、樂不欣欣。…」(「捜神記」巻六)
細く折れ曲がった眉、涙を拭ったように汚した目元、馬から落ちたように崩れた髻、足がきかないようなよろよろ歩き、虫歯の痛みを堪えるように楽しくなさそうな笑い方。
…全部実行してたら凄い事になりそうですが!ここは全体で『男心をそそるような、入念な化粧と仕草』くらいに取るのがいいかと思います。
***
一畝の田も耕さず、一枝の桑も採らずして、故に縣官にも属さず。皆土民に非じ、自ら浪人と限ず。上は王公を知らずして、傍の牧宰も怕れず。課役の無きを以て一生の樂と為す。夜は則ち百神を祭り、鼓舞喧嘩を以て福助を祈る。
(耕作も養蚕もすることはなく、その為、県官の管理を受けない。皆土地に根付いた者ではなく、自らを浪人と思い定めている。雲の上の上達部はおろか、身近な国司さえ恐れない。租税を課されない人生を幸せだと思っている。夜は多くの神を祭り、鳴り物入りで踊り騒いで、幸運を祈る。)
※牧宰(ぼくさい)国司の唐名。
***
東国は美濃参河遠江等の黨を豪貴と為し、山陽の播州、山陰の馬州土黨これに次ぐ。西海黨を下と為す。其名儡則ち小三、日百、三千載、萬歳、小君孫君等也。韓娥の塵を動かし、餘音の梁を繞るを聞かば、霑纓自ら休むこと能わず。
(東国の、美濃、三河、遠江などに威勢のある一党がおり、山陽の播磨、山陰の但馬がこれに次ぐ勢力をもっている。西海の集団はこれらよりは劣っているといわれる。
名のある傀儡子は、小三、日百、三千載、萬歳、小君、孫君などである。
彼女らの歌声は、いにしえの歌姫韓娥のごとく塵を震わせ、余韻はいつまでも梁をめぐる。それを聞く者は、思わず、冠の纓(えい)を止めどなく濡らしてしまう。)
※「又有韓娥…既而去、餘響繞梁、三日不絕。」「漢有虞公、善歌、能令梁上塵起。」(「通典」樂典/歌」)残響が梁をめぐったのは韓娥、塵を動かしたのは虞公。この故事は、「梁塵秘抄」の由来でもある。
***
今樣、古川樣、足柄片下、催馬樂、里鳥子、田哥、神哥、棹哥、辻哥。満周[ィ固]、風俗、咒師、別法士の類、勝れるを計るべからず。即ち是れ天下の一物なり。誰かは哀憐せざらん哉。
(今様、古川様、足柄片下、催馬楽、里鳥子、田歌、神歌、棹歌、辻歌、満周、風俗、咒師、別法師の類は、いずれが優れているか、はかることはできない。これらは天下に誇るべきもので、哀れと思い、いつくしまない者はない。)

(了)
 
底本:『新校羣書類從 第六巻消息部』(内外書籍株式會社)
参考:『梁塵秘抄口伝集 全訳注』(馬場光子/講談社学術文庫)

【追記】語注を入れました。
大河「平清盛」十八話も見ましたが、青墓の傀儡衆は…うーん。男の芸人さんもいて、蜻蛉返りしてた人がいたのが散楽っぽかったくらいでしょうか。あとロボットダンスくらいしか覚えてないですw
そもそも今上帝が危篤って時に不破関越えてまで美濃くんだりまで御下向の宮様とか理解の範疇越えてますが。
 
穹盧って、ゲルのことなんですけど、実際の傀儡の穹盧はどんなものだったんでしょう。
しかし、漢書とか通典とか搜神記とか、これだけ短い文章にも江帥の博覧強記ぶりがサラッとあらわれてますね。
ただ、裏を返せば『漢籍から引用した雅語を並べただけで、実はあんまり実態に則してないんじゃないか?』というきらいも…。確かに『遊女記』に比べると具体性には欠けるかなという気はしますし、色々と割り引いて考えるべきなのかも知れません。
日本書紀に見る地震の記述:初見
[允恭五年(西暦416)]秋七月丙子朔己丑、地震。
五年の秋七月(ふみづき)の丙子の朔、己丑に、地震(なゐふ)る。
 
※地震の古語は、ナ(土地)ヰ(居)フる(振る、震る)地動るとも。大地震は、おほなゐ。

日本書紀に見る地震の記述:家屋倒壊
[推古天皇、法興七年(西暦599)]
夏四月乙未朔辛酉、地動舍屋悉破。則令四方、俾祭地震神。
夏四月(うづき)の乙未の朔辛酉に、地動(なゐふ)りて舍屋(やかず)悉くに破(こほ)たれぬ。則ち四方(よも)に令(のりごと)して、地震神(なゐのかみ)を祭(いの)らしむ。
 
日本書紀に見る地震の記述:大地震と津波(白鳳南海地震)
[天武天皇、白鳳十三年(西暦684)」
壬辰、逮于人定、大地震。擧國男女叫唱、不知東西。則山崩河涌。諸國郡官舍、及百姓倉屋、寺塔神社、破壞之類、不可勝數。由是、人民及六畜、多死傷之。時伊豫湯泉、沒而不出。土左國田五十餘萬頃沒爲海。古老曰、若是地動、未曾有也。是夕、有鳴聲如鼓、聞于東方。有人曰、伊豆嶋西北二面、自然益、三百餘丈。更爲一嶋。則如鼓音者、神造是嶋響也。
 
壬辰に、人定(ゐのとき)に逮(いた)りて、大きに地震(なゐふ)る。國擧りて男女(おのこめのこ)叫び唱(よば)ひて、不知東西(まど)ひぬ。則ち山崩れ河涌く。諸國(くにぐに)の郡の官舍(つかさやかず)、及び百姓(おほみたから)の倉屋(くら)、寺塔神社(てらやしろ)、破壞(やぶ)れし類、勝(あげ)て數ふべからず。是に由りて、人民(おほみたから)及び六畜(むくさのけもの)、多(さは)に死傷(そこな)はる。
 時に伊豫湯泉(いよのゆ)、沒(うも)れて出でず。土左國の田畠五十餘萬頃(いそよろづしろあまり)沒れて海と爲る。古老の曰はく、「是(かく)の如く地動ること、未だ曾(むかし)より有らず」といふ。
是の夕(ゆふべ)に、鳴る聲(おと)有りて鼓の如くありて、東方に聞ゆ。人有りて曰はく、「伊豆嶋の西北、二面(ふたつのおもて)、自然(おのづから)に益せること、三百餘丈(みももつゑあまり)。更(また)一つの嶋と爲れり。則ち鼓の音の如くあるは、神の是の嶋を造る響なり。」といふ。


*******************************

………上記まで書いていて、途中で、
今回の東北地方太平洋沖地震が、「貞観地震型」であるというコメントを読みました。
【東北沖大地震:「阪神」の180倍規模 岩板400キロずれる - 毎日jp(毎日新聞】

そこで数代端折って、『三代実録』から貞観十一年(西暦869年)の『貞観三陸地震』に関する部分を、鳥居急ぎ抄出しました。詳細な分析・考察目的ではありませんであしからず。
 
テキストデータはこちらから頂きました:「日本古代史料本文データ」http://kodaishi-db.hp.infoseek.sk/
『三代実録』…六国史の第六。延喜1年(西暦901)成立。五〇巻。藤原時平、菅原道真、大蔵善行、三統理平らが宇多天皇の勅を受けて撰進。平安初期の清和・陽成・光孝の三代約三〇年を編年体で記録。『日本三代実録』。※『三”大”実録』は誤字です。
貞観年間は、平安初期、清和天皇の御代です。

あくまで朝廷方の記録なので、実態について詳しいことが解る訳ではありませんが
数少ない記録の一つということで。


■『三代実録』巻十六貞観十一年七月
七日癸亥。地震
 
■貞観十一年九月
七日辛酉。新撰貞觀格十二卷頒行内外。』以從五位上行左衛門權佐兼因幡權介紀朝臣春枝爲陸奧國地震使。判官一人。主典一人。
(朝廷から陸奥国へ地震使を派遣した。地震が陸奥で起こったものだと解る)
 
■貞観十一年十月
十三日丁酉。詔曰。羲農異代。未隔於憂勞。尭舜殊時。猶均於愛育。豈唯地震周日。姫文於是責躬。旱流殷年。湯帝以之罪己。朕以寡昧。欽若鴻圖。脩徳以奉靈心。莅政而從民望。思使土之内。同保福於遂生。編戸之間。共銷於非命。而恵化罔孚。至誠不感。上玄降譴。厚載虧方。如聞。陸奧國境。地震尤甚。或海水暴溢而爲患。或城宇頽壓而致殃。百姓何辜。罹斯禍毒。憮然愧懼。責深在予。今遣使者。就布恩煦。使与國司。不論民夷。勤自臨撫。既死者盡加收殯。其存者詳崇振恤。其被害太甚者。勿輸租調。鰥寡孤。窮不能自立者。在所斟量。厚宜支濟。務盡矜恤之旨。俾若朕親覿焉。
 
(十月、清和天皇の詔。甚だしい地震で海水が溢れ、城宇※を圧し潰して破壊した。民に何の罪があるというのか。禍いに苦しみ、恐怖に憮然としている。予に深い責がある※。使者を陸奥へ遣わして、民夷※を問わず慰撫させる。死者を埋葬し、生存者には見舞を出す。被害の甚だしい者は、租調税を減免する。寡婦や孤児、自立できないものに手厚い支援をする。…などとある。) 

※発掘調査などで、多賀城が津波で破壊されたということがわかっている。 
※古く東洋には、大きな天災は統治者に罪や過失のあったしるし、亡国の前兆、という考え方があった。 
※当時奥羽地方には、朝廷に服従しない蝦夷(えみし)がいた。それらをも助けよということ。 
 


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(美豆良/鬟/鬢頬/総角)。

中古日本史、東洋史、仏教史(仏教東漸期の東アジア、平安密教、仏教芸能、美術、門跡寺院制度等)、有職故実、官職制度、風俗諸相、男色史。古典文学、絵巻物、拾遺・説話物。

好きな渡来僧:婆羅門僧正菩提僊那、林邑僧仏哲
好きな法皇:宇多法皇
好きな法親王:紫金臺寺御室、北院御室
好きな平氏:重盛、経盛、敦盛
好きな法衣:裘代五条袈裟
好きな御衣:御引直衣
好きな:挿頭花と老懸を付けた巻纓冠
好きな結髪:貴種童子の下げみずら
好きな童装束:半尻、童水干
好きな幼名:真魚(空海さん)
好きな舞楽:陵王、迦陵頻、胡蝶
好きな琵琶:青山、玄象
好きな:青葉、葉二
好きな仏像:普賢・文殊(童形)はじめ菩薩以下明王、天部、飛天(瓔珞天衣持物好き)

やまとことばも漢語も好き。
活字・漫画・ゲーム等、偏食気味雑食。

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