『魍魎の匣』アニメ化で、悲嘆に暮れている悪友がいるので(笑)私も昔のことを思い出していた。
高校時代。
2課程での共用だった図書室は、埃っぽくて狭くて、天井ぎりぎりにまで本が詰まった、窮屈な秘密結社のアジトみたいだった。
十年来の腐れ縁の第一印象は、実は余りよく覚えていない。とにかくほぼ初対面で、京極ネタで異様に盛り上がりまくったというインパクトが強すぎたのだった。
当時、京極作品は、まだ知る人ぞ知るコアなものだった。しかし、あの山を登り切り、その頂上で大きなカタルシスを感じてしまった者はきっと皆、『凄い事が起こっている』とおののいていただろう。
重厚にして軽妙、高尚にして洒脱、斬新鮮烈なテーマと懐古感を催させる様式美。悪ノリありありでこれでもかと繰り出される京極堂の論述。内容そのもの、そして魔術的なレトリックそのものが、乾いた地に注がれた甘露だった。
あの頃、わざわざあの厚く難解な京極本を手にとって読破してハマッたような人間は、大体がマイナー志向のヒネた理屈屋だった。理屈屋は大体疎まれるので大概が孤独である。孤独な理屈屋は議論(と銘打った自説の披露)に抗い難い魅力を感じつつ、結局は、深夜の自室でひとり悶々と謎の暗黒舞踏に興じているものだ。
だからこそ同好の士に遭遇するともの凄く浮き足立ち、熱狂する。
凡そマイノリティというものは、もしくは己をマイノリティだと思い込みたがる井中の蛙は、得てして排他的だが、一度胸襟を開いてしまうと結束力は強固である。そして波にノッてしまうともの凄く始末が悪くなる。
そうして私達は始末の悪い高校生活を送った。
十年ひと昔。
姑獲鳥も魍魎も、『古典』として扱われつつあるように思う。余りに著名になり、そこからインスピレイションを受けた作品は数多に上り、既にオマージュ群の域さえ脱してひとつの地盤を形成している。あの凶器兼書籍という物体を生み出した講談社ノベルスは、以後スター作家を輩出しながらも、良質の国産ミステリが読めるレーベルとは異質のものに堕した。 京極以前と京極以後では、良しにつけ悪しきにつけ、国産ミステリそのものが明らかに変質した。
作品のもつ威力を思えば、当然の帰結だったと言えるかも知れない。おそらく数十年後には、いまの江戸川乱歩作品などのような扱いを受けているだろう事は、当時でも十分予測し得た。
だからこれは、あくまで、個人的な感傷に過ぎないのだろう。
しかしついにアニメ化である。
キャラ原案はCLAMPである。
思い切りメジャー狙いだ。
十年経っても遮光カーテン引いた部屋の片隅でうごうご暗黒舞踏してる、マイナー志向の人間にはきつい。
噫。
私達の愛したほの暗く渦巻く熱狂は、今はもう遠い。
──といっても、私は、実写版がダメだったので、手足が長かろうがホリックに見えようが、榎木津が色白美形であり阿部寛でなく、木場修が強面であり宮迫でなければ、もう何でもいいような気さえする。
けどギアスでCLAMPにハマッた若い子がキャラデCLAMP原案だから見るっていうのはなんか無性に暴れたくなる気がする。
ていうか実写の後にアニメやるのは確信犯だと思う。絶対評点が甘くなるから。
いやー、ねえ、もう、アニメ作るくらいなら、4枚組で原作に忠実なCDドラマとか作って下さいよ。ドラマ無理なら佐野史郎の朗読で良いです。