twitterでつぶやいてはいたものの、こちらに書き忘れてた装束小ネタのまとめです。
【うえのきぬ ざっくり。】
肩がぱっくり開いているのが特徴ですが、袖の縫合部分が少なくしてあるのは、動きやすさと、パッと袖を脱いでしまえるように。もうひとつは、肩部分は破れやすいものだから、いっそ綺麗に取れて縫い直しもしやすいように、こういった形になったのではないでしょうか。
◆togetterでのまとめ
【装束小ネタ うえのきぬ ざっくり。】http://togetter.com/li/539180
【追加補足】
【萎装束と強装束】
大きく見せる為に重ね着も多くして、更に糊を張った「打衣」で内側からも形を整えました。懐が膨らんだので、石帯はまともに締められなくなり、セパレート式になってしまいました。他にも裾や下襲が二部制になる等の改変がなされました。
ほんと強装束って…一貫してるというか…なんでこうなっちゃったかねえ…。
でも院政期の世も末っぷりをよく象徴していて、個人的にぜんぜん、ファッションとして、好きでは、ないのですが、やっぱりこの時代としてはこうだなあ、と思います。
だから去年の大河の装束が、張ったりしないでむしろやわらかくしたがってたのは残念です。ストーンウォッシュよりまず糊付けだろうよ…。
また、現行装束では、糊付けは激しくないものの、型としては院政期以降のもので、摂関期は今見られるものとはまったく別であった、ということは心に留めておく必要があると思います。
…なにせ国宝源氏物語絵巻すら、強装束の時代に描かれてるから…モリモリなんだぜ…。
◆togetterでのまとめ
【装束小ネタ~院政期の流行、強装束と置眉)】http://togetter.com/li/503819
◆冠下の髻(もとどり)
TSHならやってくれるかもしれないし見てみたいなあ。
◆江戸時代のお子さんの髪型一例。
一部を残して剃る。残し方によって名前もある。
額に残す「前髪」
頭頂部だけ「芥子(けし)・けしぼん」
頭頂部の左右2箇所「唐子・ちゃんちゃん」
耳の上だけ「奴(やっこ)」後頭部だけ「盆の窪」等
これらを何種か組み合わせる。
生後七日目に胎髪を除き、幼児期は短くしておくことは古代から続いていたが、剃刀の普及によって、鋏で短く剪る→剃刀で剃るようになった。
子供は熱を発しているものと考えられており、その熱を発散させるためという理由で剃っていたらしい。
【参考資料】
【うえのきぬ ざっくり。】
※本来「うえのきぬ」は『袍』を表す言葉ですが、ここでは『表衣』の意味で狩衣水干直垂も載せています。
とくに、腋(わき)や裾の違いにご注目。
◆闕腋袍と縫腋袍
上段に並んでいるのが、平安初~中期頃までの官袍。身頃も袖も細身で、腋は微妙にくれているようです。(有職故実大辞典図版より)
中段が院政期頃につくられた強装束から現行の官袍。
腋が切れてストンとしてるのが武官が着用した闕腋(ケッテキ・わきあけ)で、腋が繍い合わされて裾まわりにオプションが付くのが縫腋(ホウエキ・もとおし)です。
縫腋袍の裾まわり(襴/らん)は、裾に身頃より幅が長い生地を縫いつけ、余った部分を腋で襞にしています。これは、足まわりを隠しつつ動きやすくするため。次の【萎/強装束】にも書きますが、のち蟻先という形式に姿を変えました。襞になった襴を伸ばして外側に出し、糊を付けて四角く張り出させました。
現行装束では糊は取れていますが、スタイルとしては強装束以降のものです。上辺を少し斜めに折り込んで縫い、下辺は縫い合わせていません。
今でも、平安密教の流れを汲む法衣は入襴です。
小直衣といって、狩衣のように肩まわりも腋も割れていながら入襴の、不思議な装束もあります。
なお武官の闕腋袍はもともと襴が無く、襞のついた半臂を重ね着て腰回りを隠しました。
強装束のころの闕腋では、後身頃の裾が長くしてありますが、縫腋も実際は後ろだけが長く(時代を追って少しずつ長くなっていた)それを腰のあたりで端折っています。
束帯袍と衣冠・直衣袍では、この端折り方(はこえ)がちょっとだけ違います。
一応、律令で定められた服色で塗りました(線が見にくくなるので明るめにしましたが)
四位の深緋・五位の浅緋・七位の浅緑・初位の浅縹。
平安ものの映像は黒い束帯(束帯も本来は深紫)が多めですが、実際は結構カラフル。時代が下ると色数減るけど…。画面に黒袍しか出ないってことは、一握りの上層部である公卿とか大臣とかしか描いていないということで。緋袍や縹袍や禁色許された蔵人の麹塵袍がうろうろしてたっていいと思うんだけどなあ。
◆狩衣
狩衣は、闕腋袍(別名’襖/あお)の流れを汲み、もとは布衣(ほうい・ほい。ここでは絹以外の植物性の生地=布で作られた衣の意)と呼ばれた庶民服でした。…といっても当初は結構な一張羅だったと思われますが、生地や色、文様に決まりのある武官の闕腋袍を『位襖/いあお』と呼んだのに対して、貴人の狩りや野行幸に用いられたため『狩襖』とも呼ばれました。のち、官人の日常着としても使用が広まって形式化されました。
肩がぱっくり開いているのが特徴ですが、袖の縫合部分が少なくしてあるのは、動きやすさと、パッと袖を脱いでしまえるように。もうひとつは、肩部分は破れやすいものだから、いっそ綺麗に取れて縫い直しもしやすいように、こういった形になったのではないでしょうか。
ということは、狭い筒袖から段々と広袖になってきた過程で、こういった改変が為されたと考えるべきでしょう。筒袖で肩が割れていたって、サッと腕は抜けないんじゃないかなーと思うので…。
袖についた括り紐も、キュ~~ッと引っ張って袖先を絞るためのものですから、ある程度の広さができた頃からのものなんでしょうね。
もともと服制外の装束で、厳然たる決まりがあった訳ではないので、布衣の名の通り、本来は絹地ですらなかったものが、殿上人の平常服にまでなれば当然、絹織物や文様入りが作られ出して、室町頃には、本来女性の唐衣くらいにしか使われなかった二倍織物(二色で文様を織り出すもの)まで使われるようになりました。
◆水干
水干は、狩衣をより動きやすくしたもので、襟を折り込んでV字に着たり(垂領/たりくび)するために、襟先に長い紐が付き、布の合わせ目の補強として菊綴が付き、裾は袴に入れて着たので短く仕立ててあります。裾を出して着ることもありましたが、狩衣より短くなります。
これも当初は庶民の簡素な服装から下級官人の着るものになり、平安末期ごろから、下級官人である武士の台頭により装束の地位も向上し、だんだん華美になりました。もっとも華やかだったのは童子用の水干です。袖の紐を二重にしたり身頃を半分ずつ色違いにしたり、グラデーションに染めたり刺繍したり筆で絵を描いたりしました。
◆直垂
直垂も、庶民服から武士の装いとして採用されたために地位を獲得した装束です。腋は縫われていません。それ以前の表衣と決定的に違うのは、襟を折り込むまでもなく垂領に着る「方領/ほうりょう」であることです。いまの所謂『着物』と同じ。まさにこれこそ上古以来の(公家の)装束との決別でした。
(※内衣(小袖)や女性の表衣については、もっと早い段階で方領になっていました。)
◆togetterでのまとめ
【装束小ネタ うえのきぬ ざっくり。】http://togetter.com/li/539180
【追加補足】
『倭名類聚鈔』(源順・撰 承平年中-931~938成立)衣服類の項目。
- 袍
- 縫掖
- 缺掖
- 半臂
- 汗衫
- 襴衫
- 襖子
- 裲襠
- 背子[附領巾]
- 裙裳[附裙帯]
- 衵
- 袿
- 衾
- 裘
- 單衣
- 袷衣
- 袴
- 大口袴
- 奴袴
- 布衣袴
- 襌
- 襁褓
の、計二十二項。
一見見慣れない装束名のようですが、
『縫掖』は文官の縫腋袍(ホウエキ/もとほしのはう)、
『缺掖』は武官の闕腋袍(ケッテキ/わきあけのはう)
で、「束帯」は平安中期に確立した袍着用のスタイルの名であって、衣自体はこう呼びます。
『襴衫』は和名が「奈保之能古呂毛(なほしのころも)」つまり直衣。
『襖子』は「阿乎之(あをし)」で、狩襖=狩衣やその原型と思われます。
また『布衣袴』の項に、「狩[※けものへん+葛]衣、加利岐沼、謂衣則袴可知之」とあり、『布衣(ほい・ほうい)』=『狩衣』の語もあったことが解ります。
水干の名はまだここには見えません。
【狩衣のこと】
野行幸の頃の記述は、狩衣の本来の用途である狩猟用装束としての様子が偲ばれますね。
水干の名はまだここには見えません。
【狩衣のこと】
◆狩衣着用の古い事例すこし。
【雁衣鈔】より、天慶六(943)年、蹴鞠での着用例『吏部王記云。天慶六年二月廿九日。溫明殿前ニテ有[二]蹴鞠事[一]。當世得[二]其名輩[一]數十余人。布衣。烏帽子ヲ著セリ。[イロ庭上之事故如此歟]』
(群書類従所収)
最後の注は、殿上ではなく庭でのことなのでこのような軽装も許されたのだろう、という意味でしょうか。
【日本紀略[淳和]】より天長六(829)年の紫野行幸での着用例『天長六年十月丙辰、幸[二]泥濘地[一]、獵[二]水羅鳥[一]、御[二]紫野院[一]、山城國獻物、日暮雅樂寮奏[二]音聲[一]、侍臣并狩衣、[○下略]』
(古事類苑所収)
『侍臣并狩衣』の『狩衣』は、狩衣を着た鷹匠などを示すか。
【西宮記[臨時四]】より、延喜年間(901~923)野行幸での着用事例『野行幸天皇白橡[延喜御宇、天皇[二]右近馬●[一]、改[二]服直衣[一]、]公[一に王]卿如[レ]例、衛府着[二]弓箭[一]、鷹飼王卿、大鷹飼、地摺狩衣・綺袴・玉帶・鷂飼、青白橡袍・綺袴・玉帶。巻纓有[二]下襲[一]、着[レ]劔者有[二]尻鞘[一]、王卿鷹飼入[レ]野之後、着[二]行縢(騰サ下同)餌袋[一]、或王卿已下鷹飼、着[二]供奉装束[一]扈[二]従乗輿[一]、云々、四位已下鷹飼、着[二]帽子[一]、臂[レ]鷹令[レ]牽[レ]犬、列[一に引][二]立安福・春興殿前[一]、又王卿已諸衛及鷹飼等、装束随[二]遠近[一]相替、鷹飼入[レ]野之後取[二]大緒[一]、大鷹飼者結[二]懸腰底[一]、小鷹飼又同[レ]之、荒涼説就[二]記文[一]可[レ]註、(中略)
延長[一に喜]年、大原野行幸時、衛府公卿以下、皆著[二]腹纏[一]、諸衛督將佐以下、著[二]狩衣、胡籙、腹纏、小手、行縢[一]、』
(史籍集覧所収)
腹纏=はらまき。前掛けのようなもの。胡籙=やなぐい。行縢=脛に巻くはばき。
腹纏=はらまき。前掛けのようなもの。胡籙=やなぐい。行縢=脛に巻くはばき。
(※鷹飼の狩装束参考 風俗博物館→http://www.iz2.or.jp/gyoko/ukai.html)
野行幸の頃の記述は、狩衣の本来の用途である狩猟用装束としての様子が偲ばれますね。
◆『布衣始』について
天皇は在位中は冠のみ着用で、烏帽子を着けることはなく、つまり烏帽子とセットになる狩衣を着ることはありません。直衣着用の際は冠直衣(引直衣・上直衣どちらでも)です。
退位して上皇となった後には、身軽な装いも可能になります。
上皇の烏帽子・夜装束着用の初見は、『御堂関白記』の三条上皇の例だそうです。
上皇が狩衣を着始めることを『布衣始』といいます。ただしこの言葉は平安時代にはまだ見られず、鎌倉時代、土御門上皇のときに初見されるとのことです。この後は布衣始の儀として儀礼化されました。
(※ちなみに似たような言葉で『直衣始』がありますが、こちらは三位以上の公卿が、勅許を得て直衣で参内し始めること、またその際に行う儀式のことです)
以上、布衣始めについては、こちらを参照させて頂きました。
【萎装束と強装束】
【摂関期頃の文官束帯(萎装束)と、院政期に流行した強装束の文官束帯(絵巻等の図像からの想像図)】
摂関時代はまだ唐風(胡服)の名残をとどめて細身で、柔らかく身に沿う。院政期(鳥羽天皇の頃から)は糊を張りまくって、肩や袖を直角的に見せるのが流行りました。
バキバキ!!
バキバキ!!
これを強(こわ)装束といい、旧来の柔らかいものを萎装束・打梨などと呼ぶようになりました。
今回は強装束がどんだけ強いかという小ネタです。
ただ、摂関期の方はほんとうに資料が少なくて、大いに想像入ってますので御注意ください。
でももう少し萎え装束の研究が進んで、図版が教科書に載ってくれたりしたらいいなあ…。国語便覧の源氏物語なんかの横に。
今回は強装束がどんだけ強いかという小ネタです。
ただ、摂関期の方はほんとうに資料が少なくて、大いに想像入ってますので御注意ください。
でももう少し萎え装束の研究が進んで、図版が教科書に載ってくれたりしたらいいなあ…。国語便覧の源氏物語なんかの横に。
◆冠
摂関期の巾子は幞頭の名残でまだ太く大きく、高巾子というと『神さびた』ものだったそうです。幞頭参考→唐代の幞頭とそのバリエーション(過去記事)
摂関期頃の纓(頭の後ろから垂れる)の先は円く、巾子の根本から垂れていましたが、院政期の纓の先は四角く、纓自体も糊が張られて硬く反りかえるようになり、巾子の元に差し込んで立てる穴が作られました。江戸時代には更に反る位置が高くなり、帝の料はついに垂直に立つ立纓(りゅうえい)になりました。(※明治天皇御影などをご参照あれ)
ここでは文官しか描いていませんが、武官の纓はもともとくるっと巻く(巻纓)で、反り返り具合で時代がわかったりはしませんが、巻く位置は高くなっています。
◆袍
まず、院政期の領(えり)は高いです。当時は現行のものより首周りが狭かったようなので、まさに、ハイカラです。ただ、高すぎて首が回らないので、首後ろは高く、喉元は低くと傾斜を付けていたようです。現行束帯でも少しカーブしています。領にはもともと、畳んだ和紙を入れていました(この部分を、頸上《くびかみ》を首紙とも書く由縁か)。かなり下った江戸後期になってしまいますが、『武家名目抄』には頸上に木を入れていたともあります。
大きく見せる為に重ね着も多くして、更に糊を張った「打衣」で内側からも形を整えました。懐が膨らんだので、石帯はまともに締められなくなり、セパレート式になってしまいました。他にも裾や下襲が二部制になる等の改変がなされました。
摂関期に比べて院政期は身頃の幅が広くなり、袖も広くなり、糊付けしてシャキーーン!!と菱形になっています。
文官の料である縫腋袍は動きやすくするために裾に襴を入れましたが、院政期には襞を延ばしてしまい「蟻先」という謎の四角部分がくっつくことになります。
下襲の裾(きょ)も時代毎に長くなっていました。この下襲の裾などに「おめり」が施されるようになったのも院政期です。裏地を少し大きく裁って折り返し、表の縁取りとしました。これは女性装束にも行われたもので、かさねの色目を引き立てるものでした。
なお強装束では着付けが大仕事になり、着付け専門家「有職師」が生まれることにもなりました。
どんだけ…。
◆男性の置眉
貴族男性の涅歯点眉の始めについては「海人藻芥」に
『凡彼御代(※鳥羽院)以前ハ男眉ノ毛ヲ抜キ鬢ヲハサミ金(※鉄漿)ヲ付ル事一切無之』
などとあります。
これも、強装束の流行と同時期、同じ流れとみて良いでしょう。
『凡彼御代(※鳥羽院)以前ハ男眉ノ毛ヲ抜キ鬢ヲハサミ金(※鉄漿)ヲ付ル事一切無之』
などとあります。
これも、強装束の流行と同時期、同じ流れとみて良いでしょう。
元服前後の若年は位置高く、太い八の字。上臈は上先端が丸く太く、下に細くしてぼかす。下臈は下端を跳ね上げる(ちょうど髭マークのような)。歳が長じると位置を低く、八の字から少しずつ水平にしていきます。最終的には横一文字に。
平家の公達も置眉はしていたようです。
公家=(丸い)まろ眉というのは、ほんとうはもっと後になってから。これにはおそらく、時代劇に出てくる江戸期の公家のイメージなんかが影響しているものと思われます。
ほんと強装束って…一貫してるというか…なんでこうなっちゃったかねえ…。
でも院政期の世も末っぷりをよく象徴していて、個人的にぜんぜん、ファッションとして、好きでは、ないのですが、やっぱりこの時代としてはこうだなあ、と思います。
だから去年の大河の装束が、張ったりしないでむしろやわらかくしたがってたのは残念です。ストーンウォッシュよりまず糊付けだろうよ…。
また、現行装束では、糊付けは激しくないものの、型としては院政期以降のもので、摂関期は今見られるものとはまったく別であった、ということは心に留めておく必要があると思います。
…なにせ国宝源氏物語絵巻すら、強装束の時代に描かれてるから…モリモリなんだぜ…。
◆togetterでのまとめ
【装束小ネタ~院政期の流行、強装束と置眉)】http://togetter.com/li/503819
◆冠下の髻(もとどり)
図像資料に出来るだけ忠実に書くと結構おもしろいことになってしまう。しかしほんとにこんなに細かったのかナー。
貞丈雑記(江戸時代)の画を見ると髻が太くなっています。これは、ちょんまげの影響かなあ。
もっとも、冠を導入した当初は、むしろ貞丈雑記の方に近いか、これも唐風に倣っておだんごに近いものだったんじゃないでしょうか。
髻は百会(脳天)で結うので、髪が真上に引っ張られます。
冠も烏帽子も内部で髻に固定される仕組み。
強装束も男性の置眉もこの冠下髷も、「史実通りにやるとギャグ」っていういい例なので、ドラマとかではさすがに、ここまでやってくれとは言えないし、私だって絵的にどうかって聞かれると笑います。貞丈雑記(江戸時代)の画を見ると髻が太くなっています。これは、ちょんまげの影響かなあ。
もっとも、冠を導入した当初は、むしろ貞丈雑記の方に近いか、これも唐風に倣っておだんごに近いものだったんじゃないでしょうか。
髻は百会(脳天)で結うので、髪が真上に引っ張られます。
冠も烏帽子も内部で髻に固定される仕組み。
髻が高いって事は冠の巾子もある程度高かったってことなんじゃないかな。
なので、とくに冠を描く場合は、一度髻を立てて、髻を内蔵してる巾子の位置を確認してみるといいと思います。
TSHならやってくれるかもしれないし見てみたいなあ。
◆江戸時代のお子さんの髪型一例。
一部を残して剃る。残し方によって名前もある。
額に残す「前髪」
頭頂部だけ「芥子(けし)・けしぼん」
頭頂部の左右2箇所「唐子・ちゃんちゃん」
耳の上だけ「奴(やっこ)」後頭部だけ「盆の窪」等
これらを何種か組み合わせる。
生後七日目に胎髪を除き、幼児期は短くしておくことは古代から続いていたが、剃刀の普及によって、鋏で短く剪る→剃刀で剃るようになった。
子供は熱を発しているものと考えられており、その熱を発散させるためという理由で剃っていたらしい。
【参考資料】
▲「素晴らしい装束の世界-いまに生きる千年のファッション-」(八条忠基/誠文堂新光社)1995
▲「原色日本服飾史」(井筒雅風/光琳社出版)1998増補改訂
▲「有職故実図典-服装と故実-」(鈴木敬三/吉川弘文館)1995
▲「有職故実大事典」(鈴木敬三監修/吉川弘文館)
▲「日本結髪全史」(江馬務/東京創元社)1960再版改訂
▲「日本結髪全史」(江馬務/東京創元社)1960再版改訂
▲「時代衣裳の縫い方-復元品を中心とした日本伝統衣服の構成技法」(栗原弘・河村まち子/源流社)1984
▲「王朝の風俗と文学」(中村義雄/塙選書22 塙書房)1962
▲「倭名類聚鈔 元和三年古活字版二十巻本」(中田祝夫解説/勉成社)1978
▲「新校羣書類従 第五巻 公事部(二)・装束部(一)」(内外書籍株式會社)1932
▲「史籍集覧 編外 西宮記」(近藤瓶城編/近藤出版部)1932
▲「王朝の風俗と文学」(中村義雄/塙選書22 塙書房)1962
▲「倭名類聚鈔 元和三年古活字版二十巻本」(中田祝夫解説/勉成社)1978
▲「新校羣書類従 第五巻 公事部(二)・装束部(一)」(内外書籍株式會社)1932
▲「史籍集覧 編外 西宮記」(近藤瓶城編/近藤出版部)1932
▲「古事類苑 服飾部」(神宮司庁古事類苑出版事務所 編 /神宮司庁)1914
→国立国会図書館デジタルアーカイブス
→国立国会図書館デジタルアーカイブス
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ちょっぴり腐ってる小ネタ。
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深い時間なので余談ぶっちゃけますが、これ絵は以前に装束擬人化(なのかこれ)考えてたときに描いてたものなので、ポーズが妙なのです(^0^;)
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一見似てるって云われるけど本人達は似てねえと思ってる、スポーツ系イケメン(狩衣)
ちょっと地味な秀才(直衣
狩衣超モテる
狩衣にはヤンキーに染まりかけてる水干という弟がいる
兄は水干が無骨な直垂とデキているんじゃないかと勘ぐっている
水干の下にショタい童水干がいる。 -
【狩衣と直衣】
直衣「狩衣と俺は似てなんかない!
狩衣「だよな、お前が似てるのは兄貴の束帯と衣冠だもんな。構造ほぼ同じ」
衣冠「雑袍…(冷笑)」
直衣「くっ」
狩衣「おいあんたこいつの兄貴だろ…!?」 -
【狩衣と水干】
狩衣「水干…お前最近…直垂と仲いいらしいな。やめとけ、あんな武張った奴」
水干「何だよ、自分だって狩猟用だった癖に!そんな固そうな唐織物製なんかになりやがって…俺は昔の兄ちゃんが好きだった!」(遁走)
狩衣「おい水干!」 -
【水干と直垂】
(承前)
水干「って兄ちゃんが云うんだ」
直垂「…だが水干、お前自身も近頃、大分華美になってきているようだぞ。 その肩身違い、袖括の飾り結び」
水干「え…っ」
直垂「似た者兄弟、だな。 帰って兄上と仲直りして来い」
水干「…ああ。ありがとな直垂…」 -
【直衣と小直衣】
小直衣「兄上、ぼく本当にうちの子なのかな。腋もこんなにざっくり割れちゃってて…ほんとは狩衣先輩の家の子なんじゃ…」
直衣「莫迦云うんじゃない。確かに混乱はあるが、狩衣みたいな軽装と区別するために出来たのがお前だ。江戸からは正式に帝の御料なんだぞ。自信を持て!」
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