序文がくどくなりましたよ~w
北院御室(第六世仁和寺門跡・守覚法親王)の『左記』
序文だけですが読み下してみました。
この部分には源平合戦のときを生きた人の感慨が綴られていて、『平家物語』などを読むのにも良い資料だと思います。
高雅な文章ですが、乱世を嘆き、関わりの深かった平家の滅亡を儚み、また、甥でもある安徳帝を悼むくだりには痛切なものがあります。
ルビのかわりに()内にふりがなつけてみたけど、却って読みにくい気も…。
■群書類従巻第四百四十四・釈家部二十
『左記』 北院御室
此四五年の間、君臣和に乖(そむ)き、上下に亂起る。茲(ここ)に因て亡國の怨音有り、世に治世の安思無し。或は東關(※関東)の雲外、烏合の群悉(ことごと)く秋霜に集まる。或は西海の波上、魚鱗の陣皆曉月に争ふ。血を以て路を洗ひ、尸(しかばね)を以て巷を埋む。
鬼と爲りて塚に哭(な)くの魂、鱗を伴て水に没すの類、幾千萬を知らざるもの歟(か)。
平氏者(は)、昔戚里(せきり)の臣と為りて、栄華を首(こうべ)に被(こうむ)り、源家者、今固城の将と爲りて、植柳を尾に得たり。彼を満たし抱けども、必ず理は溢れ、此を塞ぎ採れども、亦た運は通ふ。
盛衰昇沈の習、有爲無情の哀。
心よりの想を記せば、膓(はらわた)斷ち涙灑(そそ)がぬこと莫(な)し。抑(そも)先帝(※安徳)の御事、緒懐を攄(の)べんと欲すれば、更に筆語に絶す。
夫(そ)れ天神七代は、國常立尊(くにのとこたちのみこと)を以て元と爲し、地神五代は、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと※神武天皇父)を以て昆(※子孫)と爲す。此を乾坤十二代と名づく。爾より以来、御裳を濯(そそ)ぎし河の御流、人皇既に八十一代に当る。厥(その)際位を相争ひ、國を奪はむと欲するの日、萬乗に捨し九重之居に出づ。古今度々に及ぶと雖も、龍顔の忽ち鯨波に溺るを未だ聞かず。去比(さるころ)に、長楽寺聖人、彼(※安徳)の御菩提を爲奉(したてまつ)る。佛事を餝(かざ)るの儀有りて、結縁(けちえん)を為し潜(ひそ)みて件の道場に詣づ。仏前に奇恠(きかい)の箱一合有り。聖人に尋問するの処、先帝御衣(おんぞ)を爲たりとの由答ふ。聞くに、御着帯より御在位に至るまで、御祈勤行のこと、朝暮に懈(おこたり)無し。寤寐(ごび)の間も忘れじ。当初御加持等、累年の懇志也。外土に遷幸の後、亦偏(ひとえ)に御帰洛の事これを祈り奉ると雖も、皇運早くに盡(つ)く。佛力及ばずの謂(いい)也、此時殊に思ひ識(し)らされ侍りぬ。今御衣を見奉るに、彌(いよいよ)夢中の夢に啼き、倍(ま)して恨上の恨に添ふ。就中(なかんづく)仙洞御祈事、寝食を遺して之に向ひ、心肝を摧(くだ)いて之を労(つと)む。半ばに至孝之則を存し、半ばに護持の宜を重くする故也。之に依りて頭載に年の雪重く、眉低に齢の霜冷し。去年の追討使上将範頼義経帰参の後、世間静謐と云々、御祈等之れ結願す。暫く閑栖(かんせい)休息に属す。
凡そ今度滅亡せし平家一族の中、旧好浅からぬの輩少々侍る。
経正但馬守は、故御所覚性御時に祗候之童也。手に四絃を繰り、心に六義(りくぎ)を学ぶ。然間(さるあいだ)に紅顔(こうがん※少年)にして青山(※琵琶)を下預(げよ)せらる。理髪(※元服)の後、多歳の程、彼御琵琶身を離さず。ただ居易の南華篇に相同じ。然りと雖も、寿永之秋、俄に禁中之雲上を辞して、外境の月前へ赴かんと欲す。時において経正青山を持参し返上し畢(おわ)んぬ。
亦経盛忠度等、和歌会衆の為に毎月企参(きさん)の好士(こうし)也。彼等の旧作懐紙、皆以て仁性(にんしょう)律師に仰せて経料紙と爲すもの也。倩(つらつら)予の身の上を思へば、憖(なまじい)に刹利(せちり※クシャトリヤ)の種を禀(う)け、繼薗(けいえん)の貴流を酌むと雖も、拙く澆漓(ぎょうり)の末に生き、悲しく汚道の烈塵に留まる。殘涯は知り難し、終焉は何時なりや。草に宿れる露命の若し、秋又秋を送る。華に戯る蝶夢の如し、春猶(なお)春を迎ふ。後来世の事、何を視何を聴かんや。
爰(ここ)に聊(いささ)か思ふ所有るに依りて、密に義経を招き合戦の軍旨を記す。彼源廷尉(ていい※検非違使の唐名)直(ただ)の勇士に匪(あら)ず也。張良の三略、陳平の六奇、其の芸を携へ其の道を得たりし者か。
已上(いじょう)染筆の條々、本意に非ずと雖も、時に哀しみを催さる。端々に書き付け畢んぬ。此書は真俗を記すの類也。真俗の内に左右と號して今記を立つる耳(のみ)。