全日本及び三千世界のみづら愛好家の皆様、こんにちは。
ひきつづきみづら祭を開催中です。
今回から数回に分けて、埴輪のみづらをお絵かきしてみよう、という…
まあ…写真を見て妄想するだけというと…身も蓋もないのですが…w
と、とりあえず一回は古墳時代の装束全身を描いてみようかな、ということで
比較的プレーンなところから。
鷹匠埴輪(群馬県伊勢崎市出土/大和文華館所蔵)。
この埴輪 鷹がそっぽ向いちゃってるんですよねw
着ているのは衣褌(きぬはかま)。
筒袖、左前の上衣に帯を締めて、褌(ズボン)を履き、
帯には短めの倭刀を佩いて、弓を射るときに腕を守る防具、鞆(とも、革張りのドーナツ状のもの。
弓弦が当たるといい音がした)を下げています。
…なのかなー。弦巻かもしれないけど…。
そういえば、鞆をまともに装着した図って見たことがないのです。
のちに儀礼化して、武官が形ばかり帯から下げていたりはするのですが、
腕につけているところって、どんな感じなんでしょう。
「高鞆(たかとも)」とか「鞆音(ともと)」とか、ことばが好きなので、いつか見てみたいなあと思うんですが。
褌は膝下に結ぶ足結(あゆい)で長さを調節します。
兜はちょっとわからなかったので、鉢金風にしてしまいました…。
お供の子は、鷂(はいたか)です。
大物狙いの大鷹狩ではなく、小さな禽獣を狙う小鷹狩では、
鷂や雀鷂(つみ)の雄・悦哉(えっさい)、長元坊などの「小鷹」を使います。
埴輪の鷹が小さめなので、小鷹から選んでみました。
鷹の埴輪は単品でも見つかっていますが、どれもかわいいですね。
みづらは……
ちまき……w
ではなくてw
結ぶものの手がかりが何もないので、無難にまとめました。
長く垂れるものだと、元はある程度しっかり結わないと…。
今回はみずらについては、あまり書くことがないので(しっかりしろ)
「狩りと王権」(斎宮歴史博物館発行)から、
日本における鷹狩りのおおまかな流れをまとめてみます。
◆中央アジアが起源とされ、いまのアムール地方やウラジオストクなどから中国・朝鮮に伝わった。
沿海州産の鷹は「海東青」と呼ばれて、中国で珍重された。
◆騎馬民族の狩猟法なので、馬がいなくちゃ始まらない。鷹狩りも馬と一緒に輸入されたもよう。(4~5世紀ごろ?)
鷹は短い距離を全速で飛ぶので、瞬発力のある足で追いかける必要がある。
◆日本書紀では、鷹狩りを伝えたのは百済王族の酒君ということになっている。
◆日本では馬そのものが珍しく、従って鷹狩りを行うのも支配者の特権であった。
食料や皮の調達、害獣駆除のためではなく、示威、軍事演習を兼ねたレジャー。
◆律令制下では、兵部省の管轄に「主鷹司」があり、河内・摂津・大和に「鷹養戸」が置かれていた。
◆奈良時代に入ると、貴族が自分の邸内で鷹を飼うこともなされた。
大伴家持は、飛んでいった鷹を惜しんで夢を見たことを、長歌に作っている。(万葉17-4011)
◆平安初期、桓武・平城・嵯峨朝あたりが帝による鷹狩のピークで、桓武さんは自ら鷹の世話をしたり、
嵯峨さんは鷹の飼い方本(新修鷹経)を書いたり、鷹狩り用の別荘(河陽院)を造らせたりした。
◆禁野での狩り、無届けの鷹狩りが禁止され、鷹狩りが帝の専有になる。
◆一時絶えて、光孝天皇によって再び行われるようになった頃には、天皇の出御自体がおおごとという時代。
日帰りの狩りでも「野行幸」という一大行事になっていた。野行幸は宇多・醍醐でピークを迎え、
この頃の事を取材して源氏物語「行幸」にも描かれるが、次第に衰退する。
◆白河さんによっていっときだけ復興される。
◆武家が政権を執るようになると、ふたたび為政者の狩が行われるようになり、鷹狩りも江戸幕府で盛んに行われた。
日本での鷹狩りって、最初から権力と結びついていたんですねい。
そういえば、弟切草の名前の由来になったのも、平安時代の鷹匠兄弟の話でしたね。
次回も埴輪のみづらになると思います。
◆◇みづら祭の目次はこちら◇◆
参考文献:
「日本の美術No.23 結髪と髪飾」(至文堂)
「狩りと王権」(斎宮歴史博物館 平成7年特別展図録)
「もっと知りたい はにわの世界~古代社会からのメッセージ」(若狭徹/東京美術)
「原色日本服飾史」(井筒雅風/光琳社出版)
ひきつづきみづら祭を開催中です。
今回から数回に分けて、埴輪のみづらをお絵かきしてみよう、という…
まあ…写真を見て妄想するだけというと…身も蓋もないのですが…w
と、とりあえず一回は古墳時代の装束全身を描いてみようかな、ということで
比較的プレーンなところから。
鷹匠埴輪(群馬県伊勢崎市出土/大和文華館所蔵)。
この埴輪 鷹がそっぽ向いちゃってるんですよねw
着ているのは衣褌(きぬはかま)。
筒袖、左前の上衣に帯を締めて、褌(ズボン)を履き、
帯には短めの倭刀を佩いて、弓を射るときに腕を守る防具、鞆(とも、革張りのドーナツ状のもの。
弓弦が当たるといい音がした)を下げています。
…なのかなー。弦巻かもしれないけど…。
そういえば、鞆をまともに装着した図って見たことがないのです。
のちに儀礼化して、武官が形ばかり帯から下げていたりはするのですが、
腕につけているところって、どんな感じなんでしょう。
「高鞆(たかとも)」とか「鞆音(ともと)」とか、ことばが好きなので、いつか見てみたいなあと思うんですが。
褌は膝下に結ぶ足結(あゆい)で長さを調節します。
兜はちょっとわからなかったので、鉢金風にしてしまいました…。
お供の子は、鷂(はいたか)です。
大物狙いの大鷹狩ではなく、小さな禽獣を狙う小鷹狩では、
鷂や雀鷂(つみ)の雄・悦哉(えっさい)、長元坊などの「小鷹」を使います。
埴輪の鷹が小さめなので、小鷹から選んでみました。
鷹の埴輪は単品でも見つかっていますが、どれもかわいいですね。
みづらは……
ちまき……w
ではなくてw
結ぶものの手がかりが何もないので、無難にまとめました。
長く垂れるものだと、元はある程度しっかり結わないと…。
今回はみずらについては、あまり書くことがないので(しっかりしろ)
「狩りと王権」(斎宮歴史博物館発行)から、
日本における鷹狩りのおおまかな流れをまとめてみます。
◆中央アジアが起源とされ、いまのアムール地方やウラジオストクなどから中国・朝鮮に伝わった。
沿海州産の鷹は「海東青」と呼ばれて、中国で珍重された。
◆騎馬民族の狩猟法なので、馬がいなくちゃ始まらない。鷹狩りも馬と一緒に輸入されたもよう。(4~5世紀ごろ?)
鷹は短い距離を全速で飛ぶので、瞬発力のある足で追いかける必要がある。
◆日本書紀では、鷹狩りを伝えたのは百済王族の酒君ということになっている。
◆日本では馬そのものが珍しく、従って鷹狩りを行うのも支配者の特権であった。
食料や皮の調達、害獣駆除のためではなく、示威、軍事演習を兼ねたレジャー。
◆律令制下では、兵部省の管轄に「主鷹司」があり、河内・摂津・大和に「鷹養戸」が置かれていた。
◆奈良時代に入ると、貴族が自分の邸内で鷹を飼うこともなされた。
大伴家持は、飛んでいった鷹を惜しんで夢を見たことを、長歌に作っている。(万葉17-4011)
◆平安初期、桓武・平城・嵯峨朝あたりが帝による鷹狩のピークで、桓武さんは自ら鷹の世話をしたり、
嵯峨さんは鷹の飼い方本(新修鷹経)を書いたり、鷹狩り用の別荘(河陽院)を造らせたりした。
◆禁野での狩り、無届けの鷹狩りが禁止され、鷹狩りが帝の専有になる。
◆一時絶えて、光孝天皇によって再び行われるようになった頃には、天皇の出御自体がおおごとという時代。
日帰りの狩りでも「野行幸」という一大行事になっていた。野行幸は宇多・醍醐でピークを迎え、
この頃の事を取材して源氏物語「行幸」にも描かれるが、次第に衰退する。
◆白河さんによっていっときだけ復興される。
◆武家が政権を執るようになると、ふたたび為政者の狩が行われるようになり、鷹狩りも江戸幕府で盛んに行われた。
日本での鷹狩りって、最初から権力と結びついていたんですねい。
そういえば、弟切草の名前の由来になったのも、平安時代の鷹匠兄弟の話でしたね。
次回も埴輪のみづらになると思います。
◆◇みづら祭の目次はこちら◇◆
参考文献:
「日本の美術No.23 結髪と髪飾」(至文堂)
「狩りと王権」(斎宮歴史博物館 平成7年特別展図録)
「もっと知りたい はにわの世界~古代社会からのメッセージ」(若狭徹/東京美術)
「原色日本服飾史」(井筒雅風/光琳社出版)
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