前回の続きです。
唐で色々と改造された袈裟ですが
日本ではまた独特の変遷を辿ります。
善哉極東ガラパゴス。華麗な変化を御覧あれ!
その4。
日本への仏教伝来当初は、唐代の褊衫裙と袈裟をそのまま用いていたと考えられます。
褊衫裙に木蘭色(もくらんじき)の七条袈裟「如法衣」を懸けた姿は、「律衣(りつえ」として
今でも鑑真和上が伝えた律宗によって用いられています。
現存唯一の左前の法衣だそうです。
さて、仏教が国家の統制下に入り、僧侶も「僧官」に叙せられて朝廷に奉仕することになります。
朝官の官服に準じて、「僧官服」とでもいうべきものがつくられました。
「袍裳(法衣)」は式正の場で用いる法衣で、褊衫と裙を、官服の袍(ただし、盤領から垂領に変わり《※》僧綱襟という高い襟が加えられている)と、
裳(当時の物は、襞付きの巻きスカートのようなもので、
動きやすさと装飾の為に上衣から裾を出して着る)に代えたものです。
袈裟は、七条以上の「大衣(だいえ)」が用いられ、のちに横被も加えられるようになりました。
袈裟を結び吊るのに使った紐の先に「修多羅(しゅたら)」という長大な飾り結びがついていて、
これを左肩から背へ垂らします。
(当初は総角(あげまき)結びをいくつか連続して結ぶなど、もっと簡易な物であったと思われる)
下具(したのぐ)は、朝官と同じく表袴、大口袴、襪(しとうず、指無しの足袋)、
沓は鼻高沓(びこうぐつ)といって、甲がすこし尖っているものを履きました。
(※盤領…あげくび、首紙を入れた細い立て襟を紐で留める領(えり)。束帯袍や直衣、狩衣など。
垂領…たりくび、前身頃の左右を垂らし、引き違えて着ること。単、小袖、直垂など。
水干は造りは盤領だが、垂領に着ることも普通に行われた)
袍裳よりもっと軽い装束の「裳付衣」も作られました。
上衣と喪が一体になり、入襴(喪のように襞を寄せる)の様子が、こちらも、平安初期の文官の袍によく似ています。
余談ですが、文官袍の蟻先ってほんと謎形状ですね。描きづらいし(笑)
その5。
僧官も国家行事へ列席することになります。
灌仏会だとか、仏教的なものだけでなく、神道に基づいた行事へも。
袍裳は位階に応じた「当色」(律令制では官一位は深紫、二位三位は浅紫、等々)で仕立てられていましたが、
神道的な色の濃い行事に際してはどうにも差し障りがあります。
平安中期頃と思われますが、
官人の「浄衣(じょうえ)」のように、清浄色である白を基調とした法衣がつくられました。
(ちなみに、本来の袈裟・法衣は、青・黄・赤・白・黒の五色の「正色」を避けた
「壊色(えじき…くすんだ色などで『染壊』する)」であるべき、とされていました)
し、白い!!!!
まばゆい!!!!
清楚!!!!!
袍裳と同型で、裏地のない単、白地無文の
生絹(すずし)、精好(せいごう)、穀織(こめおり)で仕立てたものが「鈍色(どんじき)」です。
もとは白を意味して「純色」と書いたそうで、「にびいろ」とはまた違うようです。
また、「椎鈍(しいにぶ、ついどん)」は、鈍色と同じものか、或は薄墨色のものをいうと思われます。
この法衣自体を「浄衣」と呼ぶこともあります。
五条袈裟を掛け、下には指貫袴を着けますが、
式正の場では袍裳と同じく七条袈裟に表袴、という料も用いたようです。
裳付衣の裾を長く引き、白生絹で仕立てた「素絹」は、鈍色よりは一段軽い参内用の装束で、
袈裟は五条袈裟、袴は指貫と決まっています。
なお、折角長く仕立てた裾を、簡便の用のためにまた切りつめてしまったのが「半素絹(切素絹)」
これは結局は型が裳付衣に戻ったことになるので、ほぼ同一視されますが
半素絹が広く用いられるようになり、白以外のさまざまな色も使われるようになって
黒は裳付、それ以外の色は素絹、ということに、大体、なっているようです。
また!忘れてならないのは、鈍色以下の特殊な法衣に合わせて、袈裟もまた改造されたということです。
本来は腰に巻くような形であったらしい五条袈裟に、威儀という細帯を付けて、左肩から吊る形に。
当初「横五条」と呼ばれた、いまの五条袈裟です。
そうです、実は五条袈裟は、日本独特のものなのです。
しかも、神と仏がうまくやってく為に生み出されたとは。
なんていじましいんでしょうかッ!
噫、愛す可き哉、やまと五条袈裟!(ナデナデ)
このあたりの法衣の構成、また、袈裟については
過去記事【法衣・袈裟 構成比較 附、袈裟図解】もご覧下さい。
…素絹ともうひとつ「裘代」についても、過去記事で何回も取り上げているので御一瞥下さると私が喜びます。
いや、描きたかったのです、裘代は。でも白服じゃないから今回は自粛しました……
さて、続きは(後編)にて。
◆[袈裟・法衣の目次]はこちら。
※参考資料については、(後編)の最後にまとめました。
唐で色々と改造された袈裟ですが
日本ではまた独特の変遷を辿ります。
善哉極東ガラパゴス。華麗な変化を御覧あれ!
その4。
日本への仏教伝来当初は、唐代の褊衫裙と袈裟をそのまま用いていたと考えられます。
褊衫裙に木蘭色(もくらんじき)の七条袈裟「如法衣」を懸けた姿は、「律衣(りつえ」として
今でも鑑真和上が伝えた律宗によって用いられています。
現存唯一の左前の法衣だそうです。
さて、仏教が国家の統制下に入り、僧侶も「僧官」に叙せられて朝廷に奉仕することになります。
朝官の官服に準じて、「僧官服」とでもいうべきものがつくられました。
「袍裳(法衣)」は式正の場で用いる法衣で、褊衫と裙を、官服の袍(ただし、盤領から垂領に変わり《※》僧綱襟という高い襟が加えられている)と、
裳(当時の物は、襞付きの巻きスカートのようなもので、
動きやすさと装飾の為に上衣から裾を出して着る)に代えたものです。
袈裟は、七条以上の「大衣(だいえ)」が用いられ、のちに横被も加えられるようになりました。
袈裟を結び吊るのに使った紐の先に「修多羅(しゅたら)」という長大な飾り結びがついていて、
これを左肩から背へ垂らします。
(当初は総角(あげまき)結びをいくつか連続して結ぶなど、もっと簡易な物であったと思われる)
下具(したのぐ)は、朝官と同じく表袴、大口袴、襪(しとうず、指無しの足袋)、
沓は鼻高沓(びこうぐつ)といって、甲がすこし尖っているものを履きました。
(※盤領…あげくび、首紙を入れた細い立て襟を紐で留める領(えり)。束帯袍や直衣、狩衣など。
垂領…たりくび、前身頃の左右を垂らし、引き違えて着ること。単、小袖、直垂など。
水干は造りは盤領だが、垂領に着ることも普通に行われた)
袍裳よりもっと軽い装束の「裳付衣」も作られました。
上衣と喪が一体になり、入襴(喪のように襞を寄せる)の様子が、こちらも、平安初期の文官の袍によく似ています。
余談ですが、文官袍の蟻先ってほんと謎形状ですね。描きづらいし(笑)
その5。
僧官も国家行事へ列席することになります。
灌仏会だとか、仏教的なものだけでなく、神道に基づいた行事へも。
袍裳は位階に応じた「当色」(律令制では官一位は深紫、二位三位は浅紫、等々)で仕立てられていましたが、
神道的な色の濃い行事に際してはどうにも差し障りがあります。
平安中期頃と思われますが、
官人の「浄衣(じょうえ)」のように、清浄色である白を基調とした法衣がつくられました。
(ちなみに、本来の袈裟・法衣は、青・黄・赤・白・黒の五色の「正色」を避けた
「壊色(えじき…くすんだ色などで『染壊』する)」であるべき、とされていました)
し、白い!!!!
まばゆい!!!!
清楚!!!!!
袍裳と同型で、裏地のない単、白地無文の
生絹(すずし)、精好(せいごう)、穀織(こめおり)で仕立てたものが「鈍色(どんじき)」です。
もとは白を意味して「純色」と書いたそうで、「にびいろ」とはまた違うようです。
また、「椎鈍(しいにぶ、ついどん)」は、鈍色と同じものか、或は薄墨色のものをいうと思われます。
この法衣自体を「浄衣」と呼ぶこともあります。
五条袈裟を掛け、下には指貫袴を着けますが、
式正の場では袍裳と同じく七条袈裟に表袴、という料も用いたようです。
裳付衣の裾を長く引き、白生絹で仕立てた「素絹」は、鈍色よりは一段軽い参内用の装束で、
袈裟は五条袈裟、袴は指貫と決まっています。
なお、折角長く仕立てた裾を、簡便の用のためにまた切りつめてしまったのが「半素絹(切素絹)」
これは結局は型が裳付衣に戻ったことになるので、ほぼ同一視されますが
半素絹が広く用いられるようになり、白以外のさまざまな色も使われるようになって
黒は裳付、それ以外の色は素絹、ということに、大体、なっているようです。
また!忘れてならないのは、鈍色以下の特殊な法衣に合わせて、袈裟もまた改造されたということです。
本来は腰に巻くような形であったらしい五条袈裟に、威儀という細帯を付けて、左肩から吊る形に。
当初「横五条」と呼ばれた、いまの五条袈裟です。
そうです、実は五条袈裟は、日本独特のものなのです。
しかも、神と仏がうまくやってく為に生み出されたとは。
なんていじましいんでしょうかッ!
噫、愛す可き哉、やまと五条袈裟!(ナデナデ)
このあたりの法衣の構成、また、袈裟については
過去記事【法衣・袈裟 構成比較 附、袈裟図解】もご覧下さい。
…素絹ともうひとつ「裘代」についても、過去記事で何回も取り上げているので御一瞥下さると私が喜びます。
いや、描きたかったのです、裘代は。でも白服じゃないから今回は自粛しました……
さて、続きは(後編)にて。
◆[袈裟・法衣の目次]はこちら。
※参考資料については、(後編)の最後にまとめました。
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