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深度三,三三糎の心の海から湧き出ずる、逆名(サカナ)のぼやき。
 
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以前、大河「平清盛」 出家姿の清盛のポスター映像が公開されたときに
失笑した
と書いていた金色の法衣ですが、(過去記事)

こんなギチギチの衣装、あくまでポスター撮影用で、まさか普通に劇中で使わないよな?と思ったら
本編で着用するようになりました。

下の重ねを多くしているようですが、面白いことに、公式サイトの人物デザインコメントには
「重ね着を多くして動きにくくして緩慢な動きで清盛の加齢を表現」
みたいなことが…
……いや普通……ご老体にわざわざ動きにくいもの着せないでしょ…
緩慢な動きは俳優が演技で表現すべきでしょうが。
そこまでしてやらなきゃならないほど大根なのか?大リーグ養成ギブスか?
逆転の発想すぎる…。

というか、今までの法衣は下具の構成をサボりすぎているから帯腰があそこまでえぐれてるんでしょう。
表着だけそれらしいもの羽織らせても、装束全体の構成とかどうでもいいのが透けて見える。
タケノコ状の撫で肩についてはやっぱり能装束ぽくしたかったらしいですね。
…はー。
まあ、それがわかったのはよかったけど…。

色味が下品なのはまあ清盛自体がそうっていう仕様らしいのでおいときますが…。

しかし、いざ動いてる所を見てみると、気になるのはギチギチさだけじゃなかった。

これー、なんか公式では「裘代を基本にアレンジ」っていうんですけど
最早どこが「基本」なのか…
d67ac7ae.jpeg

形はむしろ、これまでの清盛の袍裳もどき法衣と同じで、
そこに裾を引く。
これが謎。

裘代の裾は、装束そのものが長く仕立てられているもの。
袍裳の裳は、共布の巻きスカート状になる。

この装束の裾は…
これ何なんだろう、見たことあるような気もするけど…って
ちょっと考えましたが、多分これって、下襲の別裾…。

下襲は、束帯の下具で、あの長い裾はこれについています。
院政期の服飾は色々と華美になっていましたが、下襲も長大になっていて、
ついに、長い裾だけをセパレートにするようになりました。
帯を付けて、女性の裳に似たような形です。これが別裾…。
裏地赤のおめり(表に返して縁取りにする)があるのも、やっぱり下襲の仕立てだし…

あう…
なんかさあ。衣装見てて、このパーツ使えるんじゃね?と思ったんだろうけど
下襲とゆーとろうが。
表着の下から出すモノなのよそれ。

というかいちばん悔しいのが

なんでそんなわざわざ非実在装束にすんの、

ほとんどつくりがかわらないんだから

袍裳の裳にしてくれよおおお!!!!!!

それか袈裟にしろよおおおおおおお!!


その金襴で素敵な袈裟を作ろうよおおお!!!



袖に別布切り替えや随所に赤の縁取りがあります。
すみません。
本当は色とか柄とか入れないと、下品さは伝わらないんでしょうけれど
汚らわしくてこれ以上正視に耐えない…。
構造を見るだけでいっぱいいっぱいでした…。

しかもこれを公式サイトで「裘代」と紹介しちゃってるのが度し難い。

どうでもいいんだよね。本当に。





ちょっと前なのですが、大河のパブリックビューイングが催されて
そこで人物デザイン担当の方の質疑応答コーナーもあったらしいです。
twitterで実況されたもののまとめがあります
【20121028 【大河ドラマ】平清盛パブリックビューイング生中継】(togetter)

これ読むと、もう、ツッコミというかね…。
最初から、「あの、本来はこう…ですよね?」

みたいな感想を言うのは、お門違いだった、ということが解ります。


この人達、最初から「その時代本来の姿」とか、目指していなかった。
何を目指していたのかは解らないけど、
とにかく、そんなことよりも優先されるものがあったらしい。
カッコイイとか新しいとかキャラに合ってるとか。
だから、今回の大河が提示しているものと、
史実、風俗考証、また、『平家物語』や『保元物語』『源平盛衰記』など
下敷きになったものを引き合いに出しての
「本来はさ」という批判は、まったく噛み合わないのです。

要するに私が大河の装束に対してガーガー喚いてたさまが、どれだけ暖簾に腕押しの滑稽劇だったかというね…。

敬語が使えない脚本家に平安時代のえらいひとが出てくるシナリオなんか書かせるのは無理。
源氏政権が専門の中世史学者に考証お願いすれば、平家側から語ろうとするときに話がブレるのはあたりまえ。
特撮ヘアスタイリストに有職故実いじらせるのは意味不明。
日舞の舞踊家に舞楽や神楽の振り付けさせるのは筋違い。
最初から無理がありすぎる。ほとんど絶望的。
それでも、普通は「専門外だから勉強も頑張ってます」ていうのが、
当然、あるだろうと思ってしまうんですが…。
若い人達なんだから意欲も盛んだろうし、とか。
もう、そんな考え自体甘かったんだということです。


公式ガイドブックの、舞楽のとこ。「胡飲酒風」とか、「○○をアレンジ」って、書いてあった。
「役者さんが二、三度で覚えられるように振付家が考える」と。

…どんだけやっつけ仕事なん。
日舞が悪い訳じゃないですよ。白拍子の曲舞とかは日舞の源流ですから。
でも、舞楽はぜんぜん系統が違う。ヒップホップとタンゴくらいに違う。
胡飲酒も、青海波も、現行で舞われてるもの。
雅楽会の方にお願いしてちょっと見て貰うだけでもだめだったのか。
あれだったら動画とかありますけど!?
二三度の練習で覚えて数カットしか使わないものにわざわざ出鱈目な振り付け考えるとか。
滋子の胡飲酒なんか、わざわざニセモノ装束まで作らせて、謎の道路標識みたいなアイテムまで持ってきて。
そっちのが手間じゃないのか?

って思うんですけど、「それっぽいものでなんとかしてくれる」のが、あの現場ではすべてだったみたい。
そういうところを内輪で褒めちぎり合ってる。
サークル活動だよねえ…。


もうなんかね、
熱帯魚専門業者を引っ張ってきて寿司屋やらせてるようなもん

そもそも食べられるものを作れない人達を呼んできている時点で終わってるし
誰も「まっとうな寿司」なんか作ろうとしていない。


本人達は寿司なんか食べたことないし、
「えーナマ魚とか無理。カルパッチョならw」みたいな感じで
でも暖簾は普通に「寿司」ってかけてある。
店自体は昔からあって、「代替わりしたらしいけど、またおいしいの食べたいなー」
と思って、客は入ってくる。
で、まずポップすぎる内装にビクッとして
「でも最近はこういう店もあるし…」と自分に言い聞かせて、とりあえず握ってくださいと言うと

バルサミコ和えのクスクスに乗せられたエンゼルフィッシュの死体

が出てくる。

「え…これ、お寿司…じゃないですよね?」

「え。うち寿司屋とかじゃないんで。創作和風ですしww


それよりどうですそれ斬新でしょ。見たことないでしょ。

自分ゆうべ考えつきました。自信作ですよ」




普通のものが食べたいのに、

上からなんかわからないものを皿に投げつられて自慢される。


寿司を食べたいと思うこと自体、笑われてるみたい。

そういう気分になる


そりゃ、保健所に通報される程のことではないんだろうし、
口に入れてみれば食べられないこともないかも知れませんよ。
意外に乙な味で、やみつきになる人もいるかも知れないし。

けど私は普通に寿司が食べられるものだと思ってた。
暖簾の隅にちーーーーさく「※創作和風(フィクション)です」
って書いてあったのを
「あー読めませんでしたぁ~?w」って笑われても、騙される方が悪いんだね。ごめんね。
「創作」とか和「風」とか以前に、これ、食べられるの?っていうレベルですけど…。

今回の大河が視聴率悪いのって、モノ自体の拙さに加えて

そういう制作サイドの態度が透けるからっていうのもあると思う。





これが自費制作フィルムだったら褒めてあげられると思う。
個々が自分の出来る範囲で頑張りはしてたんだと思う。
いくら頑張っても出来ないものは出来ないよねっていうだけの事だし。
ただ
我の強い人が暴走しがちでモノとしてのまとまりがない。
興味のない所、力の足りない所が、明らかにスカスカになる。
それなのに、なぜか他の専門家の助けを借りようとしない。
意地でも非力な自分たちのフィールドに持ち込んで処理しようとする。
モノの出来映えを顧みず、自分らが知恵絞りましたと激しくアピール。
なんというか…上の世代の技術や知識をそんなに借りたくないのか?っていう、
何に対するレジスタンスなんだ?って首を傾げたくなるような謎の視野狭窄。
まるで日本人が彼らの世代しかいない、文化がすべて断絶した世界で作ってるみたい。

でもまあ、
こういう、自分たちがやりたいものをやる、っていう、二次創作同人ノリ…というと語弊があるが
いわゆるヤマナシオチナシイミナシ(言葉通りの本来的な意味のほうで)で
破綻がない方が奇跡っていう自費制作コスプレ時代劇なら、
制作側が、自腹を切って作って、それでも表現したかったものなら。
そういうものだったら、別にいいんじゃないかなと思えただろう。

でも、違うからさ…。

国営放送が徴収した受信料でお給料貰ってプロとしてやってる仕事として、良心が痛まないのかなあ…。

公共放送を自説開陳とかファッションショーに使うなよ…。



あとtwitterといえば、大河の公式アカウントさん宛てに
何回か「なぜ主要キャラクターは袈裟をつけないのでしょうか?」という質問をさせて頂いていて、私自身にはお返事を頂いたことはないのですが、僧職の方からの「清盛や後白河法皇が袈裟を懸けないのは意図的な演出ですか?」というような御質問へ、

『@nhk_kiyomori: 【いそPです】こちらは「裘代」(きゅうたい)という、当時の高僧が着用していた衣装を使っています。』 

という珍回答。
パブリックビューイングでも質問募集してたので袈裟は?って聞いてみましたがまあ、お答えはないですよね。
あと痛いクレーマーなの承知で、上に挙げた構造推測図つけて
「以前にも「なぜ入道は法衣に袈裟を懸けないのか」というような質問をさせて頂きました。大河公式サイトにて清盛着用装束が「裘代」とされていますが、画面上で拝見してもこれだけの差異が見受けられます。
 裘代は名称が出ること自体少ない装束ですし、誤ったかたちと名前を御記憶になってしまう方もいらっしゃるかと思います。サイト上のキャプションだけでも「金の裘代」から「金の法衣」なり、訂正を御検討頂けないでしょうか。」
というのは送ってみました。
まあ、反応頂けないのは解ってたんですが、ぶつぶつ呟いているだけでも不毛だし、裘代への義理は果たせたかなあと思ったりして…。


なんかね…。もう、ぐったりですよ。
また録画たまっちゃってるんですが、年内に見る気力あるかなあ。
でも来年に持ち越すのもやだし…ふう。


[袈裟・法衣の目次]


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twitterの方でUPしててブログに載せていなかった小ネタなど。
(←のガジェットから御覧になれますが)

『古事記(上)』黄泉津比良坂の段のイザナギさん。
そろそろみづら祭の準備再開せねば~という気合い入れで描きました
ので、美形め…(当社比)
イザナギさん
この場面はねえ…
イザナギさん…。
『吾(あ)が愛妻(はしづま)よ、汝(いまし)ともあろう者が、何の故ありて斯程に惨きことを宣うのか!?』
とか。辛かったんじゃないかなと。妻が大量殺人予告とか。蛆がたかるよりきつかったかもしれないよ。
理を曲げようとした上に途中で逃げた己に対する自責があったかどうかまでは解りませんが。
ちなみに櫛取ったりして片方美豆良解けた設定。

みづら祭ですが、次回は『古事記』の美豆良を予定しています。
…美豆良そのものというより、櫛やかづらなどのことになるかな?かな?
『古事記傳』読み始めたら面白くて、余計筆が遅くなっています(汗

あとのらくがきは「つづき」に回しますね~。

********************

サイト様ご紹介~。
『座乱読後乱駄夢人名辞典』さま
先日ブログ記事へコメントを頂いたのでリンク先へ御礼に伺ったところ、
のけぞりました。
世界の歴史や文学から抜け出てきた、あの人この人あの神々が、
うるわしいイラストと深くてユーモア溢れる紹介文で綴られています。
質量共に濃い!!濃すぎます!!
聖職者率が結構高いのも個人的にツボで~♪♪
なんと拙宅のリンクを載せて頂いてしまいまして。うう~ん!ありがたや。
こういった卓越した先達がいらっしゃるから、頑張ろうと思えるのですよね…。
かなりカバー範囲も広いですから、歴史・古典がお好きな方は是非どうぞ!

********************

拍手のお返事です。反転してご覧下さいませ。

> 11/10 11:22 袈裟・法衣の専門店京一心. さま
  本職の方のお目に留まってしまうとは、恐縮です。コメントまで!ありがとうございます!
  気になる点など御座いましたら、御指摘下さいませ。
 
> 11/12 16:58 古墳時代の服装を検索...さま 
いらっしゃいませ~!服装…の方はちょっとなおざりになってしまってますが(汗 
お子さんもおじさんも描くの好きなので、お気に召しましたら幸いです♪

********************

■[正倉院展]菩提僊那の直筆署名 文書初出展(読売新聞)

というニュースを朝、目にしまして。
え……。こんなすごいニュースを会期末目前にして知るなんて…。
まあ、芸術的な工芸品でもないこういう『文書』の扱いがささやかなものになってしまうのは仕方ないと思いますが、これがネットでも初出らしいので、やっぱりちょっと、ああ、まあ、内容も別に面白い訳じゃないし、でも、うおおお…。
こりゃすごい すごいです。
出家したい人の推薦状にあった署名らしいのですが。
筆蹟から、実直な人柄が窺えるって…Vv
こんなものが見つかるなんて、嬉しいですね~。

血が騒いだので、以前書いたものを引っ張り出してきてみました。
仏哲や林邑楽をメインに据えて書いたものからの抜粋なので、色々ばっさりやっちゃってますが。
菩提僊那の人物像がちょっとでも見えたらいいな~と思います。



■婆羅門僧正(菩提僊那)について
 
○その出生と呼称
 婆羅門僧正菩提僊那(ぼだいせんな、ボーディセーナ/仙那とも)は南天竺の人と伝えられる。生年についての記述はないが、『南天竺婆羅門僧正碑』には、
 
『以天平寳字四年歳次庚子二月二十五日夜半。合掌向西。辞色不亂。如入禮樂。奄爾遷化。即以同年三月二日。闍維於登美山右僕射林。春秋五十七。』
 
 と、没年と享年が記されているので、天平宝字四(760)年から逆算してみると、生年は703年(唐では中宗の嗣聖二〇年、又は則天武后の長安三年、日本では文武天皇の大宝三年)となる。
 その名が示す如くバラモン階級の出身であり、天平勝宝二(750)年に僧正位に叙されているので、婆羅門僧正と呼ぶ。これは勿論日本での尊称である。菩提僊那は僧号であるが、梵音に漢字を振ったものと思われる。俗姓は婆羅遲(バーラドヴァージャ)といった。
 『扶桑略記』と『大安時菩提伝来記』には迦毘羅衛城(カピラヴァストゥ)の出身とも云い、迦毘羅衛は北天竺であるから南天竺出身という記述とは矛盾が生じる。(『扶桑略記』には注をしてこの事を疑っている。)天竺の地理に明るい筈もない日本人が誤って南天竺と記したものなのか、釈迦の生誕地である迦毘羅衛を菩提僊那のそれに当てたものか、判然としない。
 
○主な現存資料
 菩提僊那に関する史料は、おおよその成立年代順に、
 
  1. 『南天竺婆羅門僧正碑并序』(770年頃)
  2. 『続日本紀』各記事、(~797年頃)
  3. 『日本往生極楽記』(~1002年頃)
  4. 『扶桑略記』(平安時代後期)
  5. 『東大寺要録』(1106年)所収の『開眼師伝来事』に引かれる
  6. 『大安寺菩提伝来記』と
  7. 『元興寺小塔院相承記』、
  8. また『日本高僧伝要文抄』(1249~51年)
  9. 『元亨釈書』(1322年)
…が挙げられる。 一部テキストを、「続き(史料)」に載せる。
 中でも最も詳細な記述があるのは『南天竺婆羅門僧正碑』である。
これによれば、菩提僊那は若くして天竺諸地方にその高徳を知られていたが、唐は五台山(現在の山西省北東部)に現れた文殊菩薩の徳を慕って入唐を決意したという。
 仏哲を伴った菩提僊那の入唐後の様子については、詳しい記述は見られないが、『東大寺要録』第四巻《大和尚伝》*一に、鑑真が来朝し、一時東大寺へ留まった時の記事として次のように見える。
 
「後有婆羅門僧正菩提亦来参問云。某甲在唐崇福寺住経三日。闍梨在彼講律。闍梨識否。和上云憶得也。」
 
 晩年の菩提僊那が東大寺の鑑真の元を訪れて、「某甲(わたくし)が唐の崇福寺に滞在して三日目に、阿闍梨(ここでは高僧の敬称)があちらで律を講じて下さいました。御記憶でしょうか」と聞き、鑑真は「憶えていますよ」と答えた、という。
 どうやら菩提僊那は、長安の崇福寺に止宿していた事があるようである。ただしその期間などはやはり詳らかでない。
 入唐の時期についての記述もないが、ただ、『僧正碑』には、
 
「于時聖朝通好發使唐國。使人丹治比眞人廣成。學問僧理鏡。仰其芳譽。要請東歸。僧正感其懇志。無所辞請。以大唐開元十八年十二月十三日。與同伴林邑僧佛徹唐國僧道璿隨船泛海。及于中路。忽遭暴風。波濤注日。陰曀迷天。計命忽若贅旒、去死尚其一分。擧船惶遽不知所為。乃端仰一身入禪観佛。少選之間風定波息。衆咸嘆其奇異。以天平八年五月十八日。得到筑紫太宰府。(中略)同年八月八日到於攝津國治下。」
 
 という記述があって、これを見ると、《大唐開元十八年(730)年十二月十三日》に遣唐使等の招きに応じて遣唐廻船に乗った、かのようであるが、丹治比真人広成を正使とする第九次遣唐使団が日本の難波津を出発したのは天平五年(733)年、唐歴でいうと開元二十一年で、明らかに齟齬がある。これでは、菩提等が遣唐使との遭遇を待たず、自力で海へ漕ぎ出したという事になってしまうのだ。
 しかし、それならばこの《十二月十三日》という具体的な日付は何処から来たのであろう。
 思うに、《大唐開元十八年十二月十三日》とは、菩提達が入唐したか、五台山あるいは長安に着いた日付と見るのが妥当なのではあるまいか。そう考えると、菩提達は六年ほど唐に滞在し、その間に遣唐使丹治比広成や理鏡と邂逅したことになる。天竺から遠路はるばる唐へやって来て、すぐに日本へ渡るというのも慌ただしい話である。当時菩提僊那は未だ二十後半~三十代前半であった。学ぶべき事も意欲も、尽きることはなかっただろう。日本行きが決まってから、遣唐使達から日本語を学ぶ機会などもあったかも知れない。
 
 さて、上記のような理由から、私は菩提僊那の入唐・来朝年について次のように比定するのが妥当と考える。
  • 菩提僊那等入唐、或いは五台山または長安への到着…大唐開元十八年(天平二(730)年)十二月十三日、菩提僊那二十七歳。
  • 第十次遣唐使(正使丹治比真人広成、副使中臣名代)発遣。…天平五(733)年。菩提僊那三十歳、唐にて広成、遣唐留学僧理鏡から日本へ招かれる。
  • 遣唐廻船に乗船し、太宰府を経て難波津へ到着…天平八(736)年、菩提僊那三十三歳。
 
 『僧正碑』では、この航海の様子を
 
「船泛海。及于中路。忽遭暴風。波濤注日。陰曀迷天。計命忽若贅旒、去死尚其一分。擧船惶遽不知所為。乃端仰一身入禪観佛。少選之間風定波息。衆咸嘆其奇異。」
 
 ──と述べており、彼等が嵐に遭った事は確かだったようである。
 ちなみに、この時の遣唐廻船は第四船まであったが、海難に遭って第三・四船は流され、判官平群真成らを乗せた第三船は漂流の末、崑崙国に流れ着いたと『続日本紀』は記す。
 崑崙とは、唐宋時代に於いてマレー半島・インドシナ半島などの地域の総称として使用されていた地名である。一行は在地民の襲撃に遭い、また病に冒されるなどして次々に斃れ、捕らえられて王の前に引き出された時、生存していた者は平群真成と水夫数名に過ぎなかったという。数年収監されたあと、商人の手引きによって脱出、唐との国境まで逃げて唐に救援を求めた。当時、中央には阿倍仲麻呂(朝衡)がおり、彼等の帰国の為に様々な差配をしたため、平群真成らは帰国を許されて、渤海使に同船して日本への帰国を果たした。この時平群真成が捕らわれた国は林邑であったとする説が有力だが、林邑の人である仏哲が日本へ辿り着き、平群真成が林邑へ漂着したとは、奇縁なことである。
 さて、第一・二船に乗っていたと思われる菩提僊那と仏哲は、九死に一生を得て太宰府へと辿り着き、難波津では太宰府からの報せを受けた行基から歓迎を受けた。
 
○行基との交誼と日本での処遇

 太宰府を経て摂津国難波津へ到着した菩提僊那を、天平随一の高僧行基が迎える場面が、殆どの資料に描かれており、特に『扶桑略記』以降『元興寺小塔院相承記』『菩提伝来記』『日本往生記』の資料においては、初対面の行基と菩提僊那は、最初は梵語で会話をし、次には和歌を詠み合っている。
 書き記されている歌は、次の二首である。(※[]内は筆者注)
 
「(前略)唱二倭歌一曰。
靈山能。尺迦乃彌摩部二。知岐利天子。眞如久知世須。阿比美都留賀奈。
[靈山の。釈迦のみ前に。ちぎりてし。眞如くちせず。逢ひ見つるかな。]
異國聖者即答和曰。
迦毘羅恵邇。等毛邇知岐里之。加比阿利天。文殊美賀保。阿比美都留賀奈。
[※迦毘羅恵に。ともにちぎりし。甲斐ありて。文殊みかほ。逢ひ見つるかな。]」
 
 資料によって表記の異同はあるが、大体この様である(引用は『日本往生極楽記』から)。
 実はこの贈答歌のエピソードは『太平記』『今昔物語』『源平盛衰記』『沙石集』などにも引かれ、謡曲『巻絹』にも出てくる。歌意は、前生に於いて釈迦の元に共に修行をし、来世での邂逅を言い交わした、その契りが今果たされた、というほどのものであろう。
 もし仮に、これを史実として見た場合の話ではあるが、外国語の学習においては、日常会話よりも詩作の方が遙かに難易度は高い筈である。和歌の贈答となるとなかなか、日本語初心者には難しいだろう。となると、唐で既に相当の語学力を培ったということだろうか…。
 もっとも、これがありきたりの漢詩の贈答でないところが、宿世の縁というもののあらわれとしては相応しいわけである。
 また、本当にこの時和歌を詠み交わしたかどうかはともかく、東大寺開眼会に際して菩提が詠んだ歌は確かに残っている。(『乃利乃裳度。波那佐岐邇多利。計布與利波。保度介乃美乃利。佐加江多萬波舞。/法のもと。華開きにたり。けふよりは。仏の御法。栄たまはむ。』東大寺要録所収)
 
 行基(666~749年)という人は、八世紀頃から畿内を中心に遊行し、仏法を説くと共に、多くの寺院開基に携わり、池溝や橋梁の建設、布施屋(租税の運搬者や旅行者の為の無料宿泊所)設置などの社会事業に力を尽くして、民から大変敬われた高僧である。その影響力の強さから養老元年、僧尼令によって弾圧されたが、のち東大寺及び大仏の建設においては、その人望を活かして勧進を推し進めることとなった。
 菩提達の来朝時、行基は六八歳という高齢であったが、自ら菩提僊那を迎えに出て、初対面でまるで旧知の間柄のように打ち解けあったという。
 
「…主客相謁。如舊相知。白首如新。傾蓋如舊。於是見矣。…」(『僧正碑』)
 
 日本への道すがら、菩提等が同道の理鏡等から行基の業績を聞き知っていた事は容易に想像できる。その高徳の僧に温かく迎え入れられて、菩提もはるばるやって来た甲斐があったと感じたのではなかろうか。
 また、老境にあって大事業を担う行基にも、波濤を越え来たった若き天竺僧の志が、さぞや尊く有難く思われたことだろう。
 
 都に入る頃には、この目出度い話を聞き付けた大衆が婆羅門見物に訪れ、道を埋め尽くしたという。
 聖武天皇も感激し、勅して菩提僊那等を奈良大安寺に住まわしめた。
 
 現在は盛時の面影はないけれども、大安寺は奈良の昔には南都七大寺の一つに数えられ、東大寺に並んで南大寺とまで称された名刹であった。寺伝では、聖徳太子が建立した熊凝精舎を、舒明天皇十一年(六三九年)に、太子の遺言によって百済大寺として移築したのがこの寺の始まりであるとしている。のち、高市大寺、大官大寺、大安寺と移築の度に名を変えた。
 菩提僊那の大安寺への居住については、『扶桑略記』には「大安寺東僧坊南端小子坊留住」とあり、『元亨釈書』には「教舘大安寺東坊」とある。
 当時の伽藍配置は、『南都七大寺の歴史と年表』に詳しい。大安寺伽藍には他の南都寺院とも違う特色があった。それは、通常は講堂を囲んで三方に配置される僧坊(僧侶達の生活空間)が、更に金堂を囲む回廊の外側にまで伸びており、しかも一列でなく、複数列に重なっていることである。
 つまりこれは、大安寺に居住した僧侶の数が大変多かったことを示している。菩提僊那や仏哲が居住した当時は880人を越える学僧が居たという。
菩提もこの大所帯の内に一室を構えたのである。恐らく同行の仏哲も彼の弟子として、東坊の南端に住まいしたものと思われる。

 来朝してからさして間もなく、天平八(736)年から大安寺に居住した。以来菩提僊那入滅の天平宝字四(760)年まで、二十四年ほどを我が国で過ごしたことになる。

 当時の大安寺は、単なる寺院に留まらず、渡来の賓客の受け入れ先として、外務省や迎賓館的な機能を持ち、さらに、渡来僧が教鞭を執る外語大学という一面を具えていた。
 菩提僊那も、この学びの苑の師のひとりであった。彼は華厳経を肝要として常に諷誦し、密呪も善く伝えたという。
 
 「僧正諷踊華嚴經以為心要。尤善呪術。弟子承習。至今傳之。」(『僧正碑』)

 また、菩提と仏哲は悉曇(サンスクリット)も伝えた。これ以前の日本では、悉曇は経典や断片的な文章、仏教美術の一部として伝わってはいたが、本場の高度な悉曇学をネイティブである天竺人に教わることが出来たというのは、当時の学僧にしてみれば法悦ものの歓びであったに違いない。云うまでもなく、漢字で書かれた経典は中国で翻訳されたものであり、日本人にもとても有り難いものではあるが、原典で釈尊のことばを直に読むことが出来たとしたら──。
 いやはや、これもまさに、盛時の奈良が絢爛たる国際都市であったことの象徴ではなかろうか。
 
 ──今回発見され、正倉院展に出品されている文書は、このような大安寺における菩提僊那の活動を偲ばせる、貴重な物である。

 「本朝高僧傳」には仏哲がもたらした密部経典の中に『悉曇章一巻』を挙げている。これは安然の『悉曇藏』、玄昭『悉曇略記』(共に平安前期~中期)に引かれて、江戸時代までは写本が残っていたようである。
 また、日本人が悉曇を学習するときに、梵字の字音配列に倣って対応する音の配置表をつくり、それが「あいうえお」の五十音配列になった、ということがよく言われる。
 高楠順次郎は「この配列法は梵語を実際に学習した人の案であるという点は確かである。そこでこの五十音図はインドの知識を表白せる奈良朝の産物の第一に置くべきものである」と云っている。(高楠順次郎全集9・教育新潮社S53)
 この説が正しければ、インドに於いて高度に発展していた悉曇学が、正しく日本に将来されたことで、現在の私達にも馴染み深いものが生まれたということである。
 勿論直接的に菩提僊那や仏哲が造ったという訳ではないかも知れないが、彼らの存在が、確かに日本人の血肉になっているのだと思うと、深い感慨が胸を満たすのである。


さて、菩提僊那といえば、やはり大仏開眼導師の役を担ったことで知られる。
最後に、そのあたりの事情と、開眼会の様子を少し見ておこう。
 
○開眼導師の大任
 聖武天皇の大仏建立の悲願は、行基等の尽力の甲斐もあっていよいよ実を結ぼうとしていた。大仏開眼会において盧遮那仏に点睛を施す開眼導師は、本来は天皇が自ら勤める筈であったのだが、病を得てそれも叶わなくなり、大仏鋳造の功労者である行基も己の死期を悟っていた。
 そこで行基は、自らの最も信頼する僧にその任を委ねた。
 それが菩提僊那である。
 実際、行基は開眼会を見ることなく天平勝宝元(749)年に薨じ、同年、聖武天皇も孝謙天皇に譲位して太上皇となっている。太上皇の病状を慮って開眼会の日取りも早められた。
 天平勝宝三(751)年四月二十二日、詔が下って菩提僊那は僧正となった。
 次に挙げるのは、上皇から菩提僊那へ宛てた、開眼導師を依頼する文章である。
 
「皇帝敬請
菩提僧正
以四月八日。設斎東大寺。供養盧舎那仏。敬欲開无辺眼。朕身疲弱。不便起居。其可代朕執筆者。和上一人 而巳。 仍請開眼師。乞勿辞摂受敬白。」
(『東大寺要録』巻二 供養章三)
 
 或いは鑑真の渡海がすんなりと成功していたならば、菩提僊那が開眼の筆を執ることはなかった、とも考えられる。(勿論法会の講師あたりには名を連ねていたに違いはないが。)鑑真が苦難の末に来朝を果たしたのは、開眼会の翌年、天平勝宝五(753)年のことだったのである。しかし、行基の指名、天竺婆羅門種という出自、大安寺での教授実績などから鑑みて、この時開眼の師に相応しい人物は、やはり菩提僊那以外にあり得なかったのだろう。
 また、菩提僊那が重んじた華厳経の教主こそ、かの盧遮那仏であった。
 
 いずれにせよ、菩提僊那が開眼会に相当の意気込みで臨んだことは想像に難くない。
 当日の開眼供養会の模様は、『東大寺要録』に詳しい。長くなるので適宜略して訳す。
 
「天平勝宝四年九日、太上天皇、太后、天皇は、東大堂の布板殿に座した。
 大堂宇の内側は種々の造花や美しい刺繍の幡で飾られ、堂の上からは種々の花びらが振り散らされた。
東西には刺繍の布、八方には五色の布が懸け渡されていた。
僧侶達が南門から参入してきた。
(略)
次に開眼師僧正菩提法師が、輿に乗り白蓋を捧げられて東門から入場し、迎えられた。
(略)
開眼師が進み出て前を払い、筆を取って開眼した。亦、筆には繩が着けられ、参集した人等にも開眼せしめた。すぐに講師と読師が共に高座へ登り、華厳経が講じられた。衆僧や沙祢達を、南門から左右に頒かれて参入させた。
(略)
大安寺薬師寺元興寺興福寺の四寺が、種々の珍しい宝を献じた。
亦、種々の楽が賑やかに参入してきた。
(略)
左大臣など十六人が鼓を打った。
妓女六十人が鼓を打った。
度羅楽を行う四つの寺の者達が道を二往復した。
堂の前に左右に頒かれて立ち、左大臣以下鼓を打っていた者達は着席した。
次の者達に順々に奏楽をさせた。
大歌女、大御舞三十人。久米舞、大伴氏二十人・佐伯氏二十人。跳子百人。唐古楽一舞、唐散楽一舞、林邑楽三舞、高麗楽一舞、唐中楽一舞、唐女舞一舞。施袴二十人、高麗楽三舞、高麗女楽。
法会の行道(行列)に動員された人々は、次のようなものがいた。
梵音を唱える係の僧侶二百人、維那(首座)一人、
錫杖を打ち鳴らす係二百人。
唄の係十人、散華(花弁を撒く係)十人、
定者(香炉を持つ役の童子)二十人
衲(僧侶)三百三十人 甲(武官)三百四十人
開眼師、供養師、読師、咒願師、都講師、維那師の六人。
或る本には、衆僧沙弥九千人。巳上都合一万二十六人という。」
(『東大寺要録』巻二 供養章三)
 
 夥しい数の善男善女が、大仏の膝元に参集した訳である。
 この国家事業は、多くの民衆の苦痛を伴ってもいた。それだけに、是が非でも成功させなければならないものだった。一万人の注視の中で、大役を果たした菩提僊那の握った筆は、或いは、些か震えていたかも知れないなどと想像を逞しくする。
 菩提は無事この偉業を成し終え、「東大寺四開基」に名を連ねた。
 これより八年後の天平宝字四年に婆羅門僧正菩提僊那は入寂。
 菩提の墓が今も残る大和国霊山寺は、故郷天竺の霊鷲山に地形が似ていると菩提が言ったことから、彼の地に因んで名付けられたという。

かれは仏となって西方浄土へ還っていったのだろうか。


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参考文献
▲高楠順次郎『奈良朝の音楽殊に「林邑八楽」について』「高楠順次郎全集 第九巻」所収。(教育新潮社、1978年刊)
▲田中於菟彌『林邑僧仏哲について』「酔花集 インド学論文・訳詩集」(春秋社1991年刊)所収。
▲富田春生『雅楽の中の仏哲』「南方文化」第十一輯(天理南方文化研究会1984年11月刊)所収。
▲太田博太郎『南都七大寺の歴史と年表』(岩波書店1979年)

引用史料については「続き」に。
映画「ローマ法王の休日」に出てきた祭服。
(映画本編の感想は前回記事で)

「ローマ法王の休日」から
 
描いてみたので、名前も調べてみた。
殆ど英語版wikiから引いてきていますが、見出しが英仏伊羅混ざってて、
実用ではまた違う呼び方だったりしそう…。
間違いがありましたらお教え下さいませ;;
 
枢機卿が一番よく出てくるので、衣装のバリエーションも豊富でした。
 
ここで挙げたのは
キャソック(平服、フランス語ではスータン)に
ペレグリナ(前開きのケープ)、
ファシャ(サッシュベルト)、
ズケット(元は頭頂部の剃髪・トンスラを隠すための帽子)、
ペクトラルクロス(胸に懸ける十字架)と指輪。
(※「ロザリオ」は仏教徒の数珠のように珠を繰る為の祈祷具で、
本来首に懸けるものではなく、十字架やメダイは装飾で輪の部分が本体)
パイピングやボタン、ズケットの色は枢機卿の位を示す赤。
(カトリックでは、司祭・助祭は黒、司教はパープル、枢機卿は赤)
ボタンは33個らしいですが数えて描いてないです;;
 
あと、帽子に赤マントっていうのもありましたねえ…。
 
法王の祭服は、バルコニーでのお披露目の時の、
アルバ(白衣)、
ファシャ、
ロシェ(リネンとレースの白チュニック)、
モゼタ(ケープ)、
ストラ(肩から掛ける領巾)、
ズケット、ペクトラルクロス。
法王の指輪は「漁師(聖ペテロを指す)の指輪」という通称がある。
「サープリス」と「ロシェ」の区別がよく飲み込めてないです…。
 
残念ながら法王様の盛装は見られませんでしたし
半分くらいは私服でいらしたのですが、あれはあれで好きでした…。
 
あと、不思議な形の帽子ビレッタ。コンクラーヴェの前のシーンで着用。
それから、バレーボール大会の時にゼッケン代わりにされていたカズラ。
キャソックは平服で、礼拝の際にはアルバを基本にして、カズラ、ストラ等々重ねていくそうです。


今年は袈裟には泣かされてばかりだし、ちょっとくらい浮気しても許される気がする。
『ローマ法王の休日』
(監督脚本:ナンニ・モレッティ 主演:ミシェル・ピッコリ)
観てきました~。
パンフレット売り切れだったのでかなりうろ覚えですが感想。
 
とりあえず、鑑賞前に『思っているのとは違った』というレビューは見ていたのですが、
確かに、思っていたのとは…。
というか、日本版公式サイトのトレイラーから想像したのとは違いました。
 
トレイラーから受けた印象…近年の邦画でありがちな
『泣いて笑って元気が出る』という売り文句のつく『ハートフルコメディ』では、ありませんでしたねー…うん…。
お客はシニア層が多かったようですが、同年代の高齢者の奮闘を見て元気を貰おうという意気込みで御覧になった方は当てが外れたのではないかと、余計なお世話なことを思いましたです。
それに、高齢者といっても、カトリックの枢機卿なんてかなり特殊な部類だものなあ。
もっとも、そういう特殊すぎる立場の人を、人間としてどう描くかという作品ではあるのでしょうね。

原題『Habemus Papam』(ラテン)と英題『We have a Pope!』は、新法王発表時の決まり文句。
…なのに邦題はちょっと色気を出して名画っぽくしちゃったのもあんまりよくなかったかも。
いい題ではあると思うんだけど、雰囲気は違うから。
 
笑えることは笑えます。
劇中でチェホフの戯曲『かもめ』がよく出てきてる、なんてことからも推して知るべしな、シニカルな笑い。
そして、散々ニヤニヤさせたあとの展開がやっぱりイタリア映画…(今回はお色気はないけど)
 
ま、私はローマカトリック高位聖職者の祭服が堪能できて幸せでした。
とにかくカーディナルレッド見放題だもの。
しかも、当然皆様いいお歳。色んな国と地域からお集まり。
(日本人という設定の方もいらっしゃいました~)
いいなあ。
ソフト化したらまた見て、カラヴァッジョ三人衆とか、赤マントを描きたいな。

『ローマ法王の休日』から、祭服いくつか
 枢機卿や法王さまのお衣装についてちょびっと。
 
つづきから、あらすじと感想(ネタバレは回避)

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無駄と斑の腐渣。
らくがきと調べ物が趣味の
風俗文化史好き歴史オタク。
人物志より文化史寄り。
イチ推しはみづら
(美豆良/鬟/鬢頬/総角)。

中古日本史、東洋史、仏教史(仏教東漸期の東アジア、平安密教、仏教芸能、美術、門跡寺院制度等)、有職故実、官職制度、風俗諸相、男色史。古典文学、絵巻物、拾遺・説話物。

好きな渡来僧:婆羅門僧正菩提僊那、林邑僧仏哲
好きな法皇:宇多法皇
好きな法親王:紫金臺寺御室、北院御室
好きな平氏:重盛、経盛、敦盛
好きな法衣:裘代五条袈裟
好きな御衣:御引直衣
好きな:挿頭花と老懸を付けた巻纓冠
好きな結髪:貴種童子の下げみずら
好きな童装束:半尻、童水干
好きな幼名:真魚(空海さん)
好きな舞楽:陵王、迦陵頻、胡蝶
好きな琵琶:青山、玄象
好きな:青葉、葉二
好きな仏像:普賢・文殊(童形)はじめ菩薩以下明王、天部、飛天(瓔珞天衣持物好き)

やまとことばも漢語も好き。
活字・漫画・ゲーム等、偏食気味雑食。

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