昔から、気になっていたことがありまして。
「貴族」
っていう言葉、古典テキストではあまり見覚えがない。
実は古語辞典を引いても出ていない。(手元のは三省堂全訳読解古語辞典)
いつから使われていた言葉なんだろう?
ということで辞書などで調べてみました。
◆「現代語から古語を引く辞典」(三省堂/2007)
で「貴人」を見ると、
…などが載っているけれど「貴族」はない。
後は清華、貴戚、貴顕、貴種、とかが思い浮かぶし、
さらに、帝を指し、朝廷を指し、また朝臣を指すような言葉も含めるともうすこし出てくると思う。
◆広辞苑(第五版)には
ううーん。日本の話は出てこないの?
◆新版日本史辞典(角川書店)1996初版 には
この「貴」「通貴」は大宝令に拠るもののようなのですが、大宝令は散逸しているため、原文がなかなか出てこない。
というわけで伝家の宝刀(市立図書館蔵ですが)、
◆國史大辭典(吉川弘文館)を引いてみますと。
……後半のギリシャ・ローマの記述って必要だったのでしょうか…。まあそれはおいといて。
この記述によると、『貴族』とは、
明治時代の『華族』が
『貴族院議員』となったため、
貴族との俗称が生まれ、
それが他の国の世襲的支配階級にも
適用された。
ということで、
…明治からか…。
ああそんなことじゃないかと思ってた(若干被害妄想気味に)
もっとも「貴族院」の名がどこから来たのかは「貴族院」の項には書いていなかった。
恐らく明治期に一般化した名称を、史学のほうで使い出した、ということなんだろう。
(本当はその辺の経緯をもう少し知りたいけど…)
おまけ。
同じく国史大辞典から
ふむふむ、「公家・おほやけ」がなどが天皇を指すことは知っていたけど、「院」に対応する指称だったのかあ。
さすが国史大辞典。ありがとう。
なお他に見た日本史用語大辞典(柏書房)、日本歴史大辞典(河出書房新社)には「貴族」の項はなし。
◆ちなみに「大言海」には太平記から引いた「貴族」の使用例がひとつ載っていたので、太平記から。
◆『華族』は(清華の別名として)「官職要解」に載ってましたので引用。
「貴族」
っていう言葉、古典テキストではあまり見覚えがない。
実は古語辞典を引いても出ていない。(手元のは三省堂全訳読解古語辞典)
いつから使われていた言葉なんだろう?
ということで辞書などで調べてみました。
◆「現代語から古語を引く辞典」(三省堂/2007)
で「貴人」を見ると、
貴人(きじん・きにん・あてびと・うまひと)
上(かみ)
上方(かみざま)
上つ方(うへつがた)
上人(うへひと・うへびと)
雲客(うんかく)
雲上人(うんじゃうびと・くものうへびと)
殿上人(てんじゃうびと)
上臈(じゃうらう)
上達部(かんだちめ・かんだちべ)
公達・君達(きんだち)
公卿(まうちぎみ・まえつきみ・くぎゃう)
公家(くげ)
卿(けい)
上卿(しゃうけい)
卿相(けいしゃう)
堂上(だうじゃう)
上(かみ)
上方(かみざま)
上つ方(うへつがた)
上人(うへひと・うへびと)
雲客(うんかく)
雲上人(うんじゃうびと・くものうへびと)
殿上人(てんじゃうびと)
上臈(じゃうらう)
上達部(かんだちめ・かんだちべ)
公達・君達(きんだち)
公卿(まうちぎみ・まえつきみ・くぎゃう)
公家(くげ)
卿(けい)
上卿(しゃうけい)
卿相(けいしゃう)
堂上(だうじゃう)
…などが載っているけれど「貴族」はない。
後は清華、貴戚、貴顕、貴種、とかが思い浮かぶし、
さらに、帝を指し、朝廷を指し、また朝臣を指すような言葉も含めるともうすこし出てくると思う。
◆広辞苑(第五版)には
【貴族】
(1)家柄や身分の貴い人、出生によって社会的特権を与えられた身分。
(2)(nobility)中世ヨーロッパの封建社会では、戦史身分として僧侶と共に領主層を構成し、土地と農民を支配した階級。
(3)比喩的に、特権を持ち高い地位にある人。
(1)家柄や身分の貴い人、出生によって社会的特権を与えられた身分。
(2)(nobility)中世ヨーロッパの封建社会では、戦史身分として僧侶と共に領主層を構成し、土地と農民を支配した階級。
(3)比喩的に、特権を持ち高い地位にある人。
ううーん。日本の話は出てこないの?
◆新版日本史辞典(角川書店)1996初版 には
【貴族】
本来的には一般人民から隔絶されて身分的・政治的・経済的・文化的特権及びそれに付随する栄誉や標識を与えられている世襲的の支配階級を指す語。
日本古代においては三位以上の官人を「貴」四位・五位以上の官人を「通貴」と称し、その一族をおおむね貴族と称した。
政治・経済・刑法において特権を有したのは、国家や王権との関係によって得たものである。なお近代では“華族”がこれにあたる。
本来的には一般人民から隔絶されて身分的・政治的・経済的・文化的特権及びそれに付随する栄誉や標識を与えられている世襲的の支配階級を指す語。
日本古代においては三位以上の官人を「貴」四位・五位以上の官人を「通貴」と称し、その一族をおおむね貴族と称した。
政治・経済・刑法において特権を有したのは、国家や王権との関係によって得たものである。なお近代では“華族”がこれにあたる。
この「貴」「通貴」は大宝令に拠るもののようなのですが、大宝令は散逸しているため、原文がなかなか出てこない。
◆取りあえず「古事類苑」で
『[律疏 名例]…五位以上者、是爲通貴』(官位部八十)
は確認できましたが、律令の中で『貴族』が規定されていたような感じではなさそう…。(※「古事類苑」には『貴族』の項はなし)
というわけで伝家の宝刀(市立図書館蔵ですが)、
◆國史大辭典(吉川弘文館)を引いてみますと。
【貴族】
日本では明治十七年(1884)と同四〇年の二つの華族令によって、公・侯・伯・子男の爵位を有する者、及びその家族が華族とされ、華族の一部分が大日本帝国憲法と貴族院法令によって貴族院議員となる権利を持ったところから、これらの支配階級を貴族と呼んだ。
同時にこの貴族という呼称を、他の諸国民の歴史にも適用し、血統、その他しばしば必ずしも明確でない理由から他の国民大衆より隔絶され、身分的・政治的特権並びにそれに相応しい栄誉や権威を与えられている世襲的支配階級を指して貴族(貴族階級と一般的に呼んだ。
従って、日本語で「貴族」と称されている階級の実体は、歴史的に様々である。例えば日本史の上では古代国家の支配階級の情操の者を貴族と呼ぶことが多いが、古代ギリシャの場合、ホメーロスに反映する社会では、王と同様に神々から生まれたとされる者が貴族の地位を占め、土地や家畜の所有において他より優れた都市に住むものとされ、彼らは又騎兵であった。
前六世紀初めのソロンの改革に至る以前には、アルコン職経験者を終身会員とする貴族の会議「アレイオスパゴス会議」が作られた。これらの支配階級は、みずからのことをペリストイ(最良者)エウゲネス(よき先祖をもつ者)クレーストイ(有徳者)などと呼び、一般的市民をポネーロイ(悪人)ペネーテス(貧民)デーモティコイ(大衆)と呼んで、自己の地位を正当化した。
一方、古代ローマでは、共和制時代にプレブス(平民)と対立したパトリキウス(貴族)があった。パトリキウスの起源については、比較的早期にローマに移り住んできた有力貴族であるとする説が有力で、共和制期前半には身分的・政治的に特権的な地位を独占し、しばしばプレブスの抵抗を受けた。
パトリキウスと並んで共和制中期からノビレスと呼ばれる支配階級が現れた。ノビレスはパトリキウスがプレブスの上層を抱き込み両者が手を組んで政権を掌握したもので、過去にコンスル(執政官)を出したことのある家柄から成ったから、結党的な官職貴族ということが出来る。
ローマ帝政期になると、ノビレスは皇帝の高官としての勤務による貴族へと変質してゆき、パトリキウスの血統も一世紀末には殆ど絶えた。これらローマにおける貴族も大土地所有者であった。 [弓削達]
……後半のギリシャ・ローマの記述って必要だったのでしょうか…。まあそれはおいといて。
この記述によると、『貴族』とは、
明治時代の『華族』が
『貴族院議員』となったため、
貴族との俗称が生まれ、
それが他の国の世襲的支配階級にも
適用された。
ということで、
…明治からか…。
ああそんなことじゃないかと思ってた(若干被害妄想気味に)
もっとも「貴族院」の名がどこから来たのかは「貴族院」の項には書いていなかった。
恐らく明治期に一般化した名称を、史学のほうで使い出した、ということなんだろう。
(本当はその辺の経緯をもう少し知りたいけど…)
おまけ。
同じく国史大辞典から
【公家】
朝廷の官人の総称。武士が政権を握って武家と呼ばれたのに対し、天皇を取り巻く朝廷の官人、特に上層の廷臣の総称となり、公卿とほぼ同じ意味に用いられた。公家は、律令官人社会の上層部に系譜を引き、平安時代以降漸次藤原摂関家を中心として形成され公家文化あるいは公家風と呼ばれる風俗習慣を生んだ。
江戸時代廷臣の家格が固定してからは、昇殿を許された家柄、即ち堂上家の廷臣を指し、少数の源氏・平氏・菅原氏などの諸家を除き、殆ど藤原氏諸家によって占められ、明治十七年(1884)の華族令では、原則として子爵以上の爵位を授けられた。
なお公家は「こうけ」あるいは「おほやけ」と読み、天皇の指称としても長く用いられた。本来君主の家、又は朝廷を意味したが、転じて天皇を指す語となり、特に上皇の存在が常態化してからは、「院」に対する称ともなった。内裏・うち・みかど・天朝なども、天皇に対する同類の用語である。 [橋本義彦]
ふむふむ、「公家・おほやけ」がなどが天皇を指すことは知っていたけど、「院」に対応する指称だったのかあ。
さすが国史大辞典。ありがとう。
なお他に見た日本史用語大辞典(柏書房)、日本歴史大辞典(河出書房新社)には「貴族」の項はなし。
◆ちなみに「大言海」には太平記から引いた「貴族」の使用例がひとつ載っていたので、太平記から。
「承久より以来、儲王摂家の間に、理世安民の器に相当り給へる貴族を一人、鎌倉へ申下奉て、征夷将軍と仰で、武臣皆拝趨の礼を事とす。」
(太平記/巻第一/後醍醐天皇御治世事 付 武家繁昌事)
(太平記/巻第一/後醍醐天皇御治世事 付 武家繁昌事)
さらにおまけ。
◆『華族』は(清華の別名として)「官職要解」に載ってましたので引用。
「清華 また華族(かしょく)ともいった。大臣大将を兼ねて、太政大臣に進む家柄をいう。『源平盛衰記』に「徳大寺左大将実定は(略)華族の家に伝わり給へり。」と見える。久我・三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門などの家である。
清華の文字は、『北史』李彪伝に「才、等を抜くを以て清華を望む」と見える。華族は『文選』巻四十六任彦昇の王文慧集序に「公、華宗より生る」とある李善の注に「魏志に、曹植、上疏して曰く、華宗貴族、必ずこの挙に応ず」とかいてあるのによったのである。」
「新訂 官職要解」(和田英松著・所功校訂/講談社学術文庫)
※なお「摂家」(摂政関白になる家柄)の方が「清華」より上。
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前回記事はこちら:
【唐代の幞頭とそのバリエーション】
幞頭の基本はこちらでご覧下さい。
-今回は、伝・聖徳太子像の幞頭を見てみます。
この絵は天武朝ごろのものとされ、
描かれているのが太子かどうかも判然としません。
装束も、推古朝のものではないでしょう。
日本のものではないのでは、という説もあるようです。
けれどもここでは、
「おそらく日本でもっとも認知度の高い幞頭」
としてこの絵を取り上げました。
少なくとも、「これが太子でもおかしくない」と後世の人が認識したということは、
高貴な姿であるということだし。
太子の幞頭は…
また、復元想像図によっては額部分の書き込みから羅を有文としているものがありますが、ここでは皺として扱いました。
他に気になることといえば、なぜ結脚にしているのか。
前回記事では「武官がこの形を好んだ」書きました。ただ好みによるもので、制度ではなかったようですが、のちに幞頭が冠に変わった頃には、文官は垂纓、武官は巻纓と分けられました。この絵が描かれた時代はどうだったのでしょう…。
養老律令の衣服令には、皀羅(くりのうすはた)の頭巾(ときん)、皀縵(くりのかとり)の頭巾、とあり、生地によって別があったことがわかります。
なお「幞頭」と「頭巾」とは区別が曖昧です。両方とも訓は「かうふり」だったりします。漆で固めて成型したものとそうでないもの、など、いろいろと使い分けの想像はできるのですが、どうもはっきりしません。単なる勉強不足かも知れませんが…。
『…一品以下。五位以上。並皀羅頭巾。(中略)初位。浅縹衣。並皀縵頭巾。…』
皀羅も皀縵も、ともに絹織物で、皀色に染めたものです。
◆皀色
皀(くり)は『水底の泥土のような』黒で、涅とも書き、鉄分を含んだ土や、お歯黒に使う鉄漿で染めたようです。
(余談ですが、衣服令の条項には「烏皮履」「烏油腰帯」なども出てきます。
この「烏」も黒(カラス色)を指す言葉ですが、こちらは表面を黒漆で塗ったもののようです)
◆縵と羅
縵(縑)は固織り(かたおり→かとりの訛)で、通常の平織りで目を細かく詰めて織り、生地が固めになったもので、透けません。
羅とは、通常、平織りなどでは糸の組織が、経糸と緯糸で
++++++
++++++
と、並行垂直に組まれるものが、
─$─$─$─
─$─$─$─
のように、糸の一部を捩るもの(捩り織)で、生地は薄く、軽く、透け感があります。
捩り織には羅(ら)紗(しゃ)絽(りょ・ろ)などがありますが、羅はより複雑で、糸の疎密によって文様を織り出すことが出来ます。
ただすべて「うすもの」といったり、特に区別せずに使ったりする場合もあるようです。
羅の方が高度な技術を必要としますから、縵より上等の扱いを受けていたようですね。
【参照:養老令から 衣服令(表)】
武官も描いてみました。
こちらの幞頭は、古い図像ではなく、NHK古代史ドラマの衣装や、復興された行事の写真や動画を参考にしています。
もういっちょ。御像の全身、腰に下げた物体に注目。
ただし横向きや「物が入る」とかはあくまで想像ですので悪しからず。
衣服令の『袋』というのが気になっていて、『腰佩』でいろいろ見ていたら、
こちらのブログに辿り着きました。→ 【Avant d’oublier】http://bit.ly/16fobyY
腰佩じゃらじゃらの革帯…
石帯の銙(『か』。帯表面に並べて付ける小さな板。四角い『巡方(ずんぽう)』と円い(かまぼこ型)の『丸鞆(まるとも)』がある。 『石』の名はこれに由来する)
って、あんな風に下寄りに穴が開いてるのがなんとなく不思議だなあと思ってたんです。
もともとは革帯貫いて穴あけて、そこに色々引っ掛けていたんですねい。石が帯にあける穴の補強を兼ねていたのかな。
袋については、葛城市三ツ塚古墳から漆塗りの革袋が出土しているようです。
袋って、魚袋のことかとも思っていたんだけど、こっちのほうがわかる気がしますね。
魚袋は魚袋で、身分証明書みたいな札として提げていたようです。
【参考動画】
ドラマはNHKの古代史ものや、今年放送した「アテルイ伝」など。
動画はこちらの平城京跡での宮廷行事イベントなど。
◆【射礼 vol.2】
『2010年10月24日、平城宮跡で行なわれた、古代行事の再現「射礼」』
射礼披露は小笠原流の方がなさってます。
◆【北京鄉射禮】
【唐代の幞頭とそのバリエーション】
幞頭の基本はこちらでご覧下さい。
-今回は、伝・聖徳太子像の幞頭を見てみます。
この絵は天武朝ごろのものとされ、
描かれているのが太子かどうかも判然としません。
装束も、推古朝のものではないでしょう。
日本のものではないのでは、という説もあるようです。
けれどもここでは、
「おそらく日本でもっとも認知度の高い幞頭」
としてこの絵を取り上げました。
少なくとも、「これが太子でもおかしくない」と後世の人が認識したということは、
高貴な姿であるということだし。
太子の幞頭は…
- 四つ脚の幞頭である。後頭部の脚は別布で、結脚している。先は剣先型か(のちの纓は円い)
- 巾子を包む頭頂部分は先が垂れる。巾子は前傾屈曲していない=先まで身が詰まってない。
- 平面的な布を折りたたんだと言うよりはやはり袋状になっているように見受けられる。
- 前頭部はぴったりと頭に沿い、羅地から生え際が透けて見える。 (皀羅頭巾か)
また、復元想像図によっては額部分の書き込みから羅を有文としているものがありますが、ここでは皺として扱いました。
他に気になることといえば、なぜ結脚にしているのか。
前回記事では「武官がこの形を好んだ」書きました。ただ好みによるもので、制度ではなかったようですが、のちに幞頭が冠に変わった頃には、文官は垂纓、武官は巻纓と分けられました。この絵が描かれた時代はどうだったのでしょう…。
養老律令の衣服令には、皀羅(くりのうすはた)の頭巾(ときん)、皀縵(くりのかとり)の頭巾、とあり、生地によって別があったことがわかります。
なお「幞頭」と「頭巾」とは区別が曖昧です。両方とも訓は「かうふり」だったりします。漆で固めて成型したものとそうでないもの、など、いろいろと使い分けの想像はできるのですが、どうもはっきりしません。単なる勉強不足かも知れませんが…。
『…一品以下。五位以上。並皀羅頭巾。(中略)初位。浅縹衣。並皀縵頭巾。…』
皀羅も皀縵も、ともに絹織物で、皀色に染めたものです。
◆皀色
皀(くり)は『水底の泥土のような』黒で、涅とも書き、鉄分を含んだ土や、お歯黒に使う鉄漿で染めたようです。
(余談ですが、衣服令の条項には「烏皮履」「烏油腰帯」なども出てきます。
この「烏」も黒(カラス色)を指す言葉ですが、こちらは表面を黒漆で塗ったもののようです)
◆縵と羅
縵(縑)は固織り(かたおり→かとりの訛)で、通常の平織りで目を細かく詰めて織り、生地が固めになったもので、透けません。
羅とは、通常、平織りなどでは糸の組織が、経糸と緯糸で
++++++
++++++
と、並行垂直に組まれるものが、
─$─$─$─
─$─$─$─
のように、糸の一部を捩るもの(捩り織)で、生地は薄く、軽く、透け感があります。
捩り織には羅(ら)紗(しゃ)絽(りょ・ろ)などがありますが、羅はより複雑で、糸の疎密によって文様を織り出すことが出来ます。
ただすべて「うすもの」といったり、特に区別せずに使ったりする場合もあるようです。
羅の方が高度な技術を必要としますから、縵より上等の扱いを受けていたようですね。
【参照:養老令から 衣服令(表)】
武官も描いてみました。
こちらの幞頭は、古い図像ではなく、NHK古代史ドラマの衣装や、復興された行事の写真や動画を参考にしています。
もういっちょ。御像の全身、腰に下げた物体に注目。
ただし横向きや「物が入る」とかはあくまで想像ですので悪しからず。
衣服令の『袋』というのが気になっていて、『腰佩』でいろいろ見ていたら、
こちらのブログに辿り着きました。→ 【Avant d’oublier】http://bit.ly/16fobyY
腰佩じゃらじゃらの革帯…
石帯の銙(『か』。帯表面に並べて付ける小さな板。四角い『巡方(ずんぽう)』と円い(かまぼこ型)の『丸鞆(まるとも)』がある。 『石』の名はこれに由来する)
って、あんな風に下寄りに穴が開いてるのがなんとなく不思議だなあと思ってたんです。
もともとは革帯貫いて穴あけて、そこに色々引っ掛けていたんですねい。石が帯にあける穴の補強を兼ねていたのかな。
袋については、葛城市三ツ塚古墳から漆塗りの革袋が出土しているようです。
袋って、魚袋のことかとも思っていたんだけど、こっちのほうがわかる気がしますね。
魚袋は魚袋で、身分証明書みたいな札として提げていたようです。
【参考動画】
ドラマはNHKの古代史ものや、今年放送した「アテルイ伝」など。
動画はこちらの平城京跡での宮廷行事イベントなど。
◆【射礼 vol.2】
『2010年10月24日、平城宮跡で行なわれた、古代行事の再現「射礼」』
射礼披露は小笠原流の方がなさってます。
◆【北京鄉射禮】
中国での射礼の再現。明代の儀礼書に基づく。
30分過ぎあたりからの第三射は八音(磬・鼓・笙・琴・瑟・簫など八種(八要素)の楽器)による伴奏に合わせて発射。
楽曲は『騶虞(詩経/召南編)』だそうです。
歌はこちらの動画には入ってなかったんですが。
こちらは『鹿鳴(詩経/小雅)』
古琴の弾き語りで。
30分過ぎあたりからの第三射は八音(磬・鼓・笙・琴・瑟・簫など八種(八要素)の楽器)による伴奏に合わせて発射。
楽曲は『騶虞(詩経/召南編)』だそうです。
歌はこちらの動画には入ってなかったんですが。
こちらは『鹿鳴(詩経/小雅)』
古琴の弾き語りで。
あと、射手は「袒!」の号令で左肩袒にしてました。てことは交領が決まりなのかなあ。(司射は盤領で袖まくり)
◆【華夏禮射】
こちらはもうちょい簡略版で、マレーシアにて華僑団体によって再現されたもの。装束の時代設定は上の動画より古そう。
◆ 【2013年01月22日 - 華夏禮射 - 星洲网 圖話故事】
ニュース記事。
『弓は儒学生必須教養であった、六芸(りくげい/礼・楽・射・御・書・数 「御」は馬車を御すこと)のひとつ』
なお、これらの動画に関連して、「儒教思想の元での詩と政治の関係」「礼楽思想と雅楽」
などについて、twitterでふわーっとつぶやいたのの まとめ。
◆【『詩経 鹿鳴』から 平安貴族はなぜ歌を詠むか】
◆.【知猫楽 「詩経と律令と礼楽」】 (作成:賀茂史女さま)
【参考文献】(前回記事とあわせて)
▲「四天王寺開創一四〇〇年記念出版 聖徳太子信仰の美術」
(大阪市美術館監修/東方出版)1996
▲「日本の美術23 結髪と髪飾」(橋本澄子編/至文堂)1968
▲「原色日本服飾史」(井筒雅風/光琳社出版)1998増補改訂
▲「有職故実大事典」(鈴木敬三監修/吉川弘文館)
▲「日本の色辞典」(吉岡幸雄/紫紅社)2000
▲「染と織の鑑賞基礎知識」(小笠原小枝/至文堂)1998
▲「花情曲-はなのこえ-」「恋泉-花情曲余話-」(皇なつき/角川書店あすかC-DX)1991
唐代服飾資料としての価値も高い名作です。幞頭もいっぱい出てきます。
現在は合本で漫画文庫(潮出版 潮漫画文庫)、特装版(エンターブレイン B’s LOG C)が出ています。
◆【華夏禮射】
こちらはもうちょい簡略版で、マレーシアにて華僑団体によって再現されたもの。装束の時代設定は上の動画より古そう。
◆ 【2013年01月22日 - 華夏禮射 - 星洲网 圖話故事】
ニュース記事。
『弓は儒学生必須教養であった、六芸(りくげい/礼・楽・射・御・書・数 「御」は馬車を御すこと)のひとつ』
なお、これらの動画に関連して、「儒教思想の元での詩と政治の関係」「礼楽思想と雅楽」
などについて、twitterでふわーっとつぶやいたのの まとめ。
◆【『詩経 鹿鳴』から 平安貴族はなぜ歌を詠むか】
◆.【知猫楽 「詩経と律令と礼楽」】 (作成:賀茂史女さま)
【参考文献】(前回記事とあわせて)
▲「四天王寺開創一四〇〇年記念出版 聖徳太子信仰の美術」
(大阪市美術館監修/東方出版)1996
▲「日本の美術23 結髪と髪飾」(橋本澄子編/至文堂)1968
▲「原色日本服飾史」(井筒雅風/光琳社出版)1998増補改訂
▲「有職故実大事典」(鈴木敬三監修/吉川弘文館)
▲「日本の色辞典」(吉岡幸雄/紫紅社)2000
▲「染と織の鑑賞基礎知識」(小笠原小枝/至文堂)1998
▲「花情曲-はなのこえ-」「恋泉-花情曲余話-」(皇なつき/角川書店あすかC-DX)1991
唐代服飾資料としての価値も高い名作です。幞頭もいっぱい出てきます。
現在は合本で漫画文庫(潮出版 潮漫画文庫)、特装版(エンターブレイン B’s LOG C)が出ています。
三国無双はプラットフォームがPS3に変わってからやってなかったのですが
ひさびさにやってみようかなあと思って この前新作出たっていうタイミングで7やってみました。
ので、6までのキャラとかシステムとか解ってませんが。
目当てが 晋ルートだったんです…
もともと無双の司馬懿が好きでして
要するに諸葛亮さんに負けるために出てくる悪役っていうとこから始まってるから
高飛車なのに高笑いキャラなのに、へたれ。
かわいいじゃないですか…。
そんな司馬懿が!ファミリー展開してるという…。
息子二人に嫁まで出ているという…。
あのめんどくさい司馬懿のファミリーヒストリー すごい気になる…
……っていうんでw
いやー 楽しかったです司馬家。
諸葛亮さん亡くなったら隠居しちゃう(嫁に説き伏せられたらしいが)とかいじましいし…
でも隠居後もそんなに割り切れてる風でもないのがやっぱなーっていう感じだし
春華さんのゴージャスなヒップにしかれてるのか それはそれで羨ましいような…
しかしこの冠帽描きにくい。そこがまた!!
いやー春華さんいいわぁ…。
髪型好きだわー(そこか)(だって大事だもん)
晋のキャラは洋風というかゴス入ってるんですかね。
もうあんまり三国志とか関係ないビジュアルになってる気がするねW
司馬師(長男)は父を褒めるときの「心にもない事言ってます」感とか
ただのクールビューティーかと思うと時々発言が過激だったり笑い方が父親譲りの高笑いだったり
なんか微妙にびっくり箱というか ほのかに残念美形な感じがいいですね~。
司馬昭(次男)は単品ではただのガタイのいい若干チャラいいけめんのお兄さんなので
普通だったら私はひっかからないんだけど
あの父あの母この兄っていう環境で育ったらこういう風にいい加減にならないとやってけないのかなあ
と思うとなんか、きみも苦労してんだねってへたれボンボンっぷりにほだされたというか
親しい人達に小言云われて楽しそうにへらへらしてて
兄上の天下支えますよ~~っていう考えしかないとこもいいかな。
兄より父より無駄にデカいし首太いし、あんま似てない(母似らしい)とことかね。
狡猾邪悪な親友としっかりした嫁候補がいるのもポイントですね。
やっぱりキャラ単品でどうこうっていうより関係性があったほうが楽しいよね。
晋将のみなさん。
いつも死にそうな郭淮の死ぬ死ぬネタが好きですw
司馬昭の邪悪な親友が賈充です。
鐘会はクーデター起こして隠居の司馬懿夫婦にしばかれる小物役ですが
こういう小物も嫌いではないです。そしてくるくるはねはねな髪型が気になります。
文鴦って兜とるとこんな美形なんだよね。無駄にね…。
晋とかもう三国じゃないよね。って思うけど
魏のその後が見られるっていうのは面白いなーと思いました。
6もやってないので、ストーリーモードがどういう風に変わってきたのとかよく解らないのですが
史実ルートとIFルートがあり
一回史実ENDするとIFルートに入ることが出来て、要人暗殺を防ぐなどフラグ回収しつつIFエンドを目指す…
ってこれ、一回ノーマル(BAD)ENDして時空跳躍してフラグ回収して大団円目指すって
なんか、前にどっか、KOEIの別のとこで何回もやったなあって、すごく懐かしさを感じましたw
さらに将星モードだと護衛武将に付けて戦闘に出るなどして好感度を上げると
お呼び出しでセリフイベントが!!(使用キャラに応じて対男、対女に2パターンあり)
庭園デートか!!
すごいな~。ネオロマ部門はなんか乙女ゲー化しちゃって
もうあそこに戻ることはないのかなあって思ってましたが
逆にネオロマがこっちに浸食してきてたのかw
なんか立ち絵のグラフィックとか微妙にルビーさんな感じもするときもありました。(とくに若い男女キャラで)
や、それはおいといて、史実ルートの辛さっていうのがちゃんとあった上での
もしかしたらな天下の形、ありえないキャラの長生き、全員生存ハーレム(語弊)ENDなのがいいかなと。
あとやっぱりおっさんキャラ度も高いのでまんぞく。BSRはおっさん成分足らないからどうもなあ…。
また他勢力のらくがきもしたいなあと思ってはいる。
ひさびさにやってみようかなあと思って この前新作出たっていうタイミングで7やってみました。
ので、6までのキャラとかシステムとか解ってませんが。
目当てが 晋ルートだったんです…
もともと無双の司馬懿が好きでして
要するに諸葛亮さんに負けるために出てくる悪役っていうとこから始まってるから
高飛車なのに高笑いキャラなのに、へたれ。
かわいいじゃないですか…。
そんな司馬懿が!ファミリー展開してるという…。
息子二人に嫁まで出ているという…。
あのめんどくさい司馬懿のファミリーヒストリー すごい気になる…
……っていうんでw
いやー 楽しかったです司馬家。
諸葛亮さん亡くなったら隠居しちゃう(嫁に説き伏せられたらしいが)とかいじましいし…
でも隠居後もそんなに割り切れてる風でもないのがやっぱなーっていう感じだし
春華さんのゴージャスなヒップにしかれてるのか それはそれで羨ましいような…
しかしこの冠帽描きにくい。そこがまた!!
いやー春華さんいいわぁ…。
髪型好きだわー(そこか)(だって大事だもん)
晋のキャラは洋風というかゴス入ってるんですかね。
もうあんまり三国志とか関係ないビジュアルになってる気がするねW
司馬師(長男)は父を褒めるときの「心にもない事言ってます」感とか
ただのクールビューティーかと思うと時々発言が過激だったり笑い方が父親譲りの高笑いだったり
なんか微妙にびっくり箱というか ほのかに残念美形な感じがいいですね~。
司馬昭(次男)は単品ではただのガタイのいい若干チャラいいけめんのお兄さんなので
普通だったら私はひっかからないんだけど
あの父あの母この兄っていう環境で育ったらこういう風にいい加減にならないとやってけないのかなあ
と思うとなんか、きみも苦労してんだねってへたれボンボンっぷりにほだされたというか
親しい人達に小言云われて楽しそうにへらへらしてて
兄上の天下支えますよ~~っていう考えしかないとこもいいかな。
兄より父より無駄にデカいし首太いし、あんま似てない(母似らしい)とことかね。
狡猾邪悪な親友としっかりした嫁候補がいるのもポイントですね。
やっぱりキャラ単品でどうこうっていうより関係性があったほうが楽しいよね。
晋将のみなさん。
いつも死にそうな郭淮の死ぬ死ぬネタが好きですw
司馬昭の邪悪な親友が賈充です。
鐘会はクーデター起こして隠居の司馬懿夫婦にしばかれる小物役ですが
こういう小物も嫌いではないです。そしてくるくるはねはねな髪型が気になります。
文鴦って兜とるとこんな美形なんだよね。無駄にね…。
晋とかもう三国じゃないよね。って思うけど
魏のその後が見られるっていうのは面白いなーと思いました。
6もやってないので、ストーリーモードがどういう風に変わってきたのとかよく解らないのですが
史実ルートとIFルートがあり
一回史実ENDするとIFルートに入ることが出来て、要人暗殺を防ぐなどフラグ回収しつつIFエンドを目指す…
ってこれ、一回ノーマル(BAD)ENDして時空跳躍してフラグ回収して大団円目指すって
なんか、前にどっか、KOEIの別のとこで何回もやったなあって、すごく懐かしさを感じましたw
さらに将星モードだと護衛武将に付けて戦闘に出るなどして好感度を上げると
お呼び出しでセリフイベントが!!(使用キャラに応じて対男、対女に2パターンあり)
庭園デートか!!
すごいな~。ネオロマ部門はなんか乙女ゲー化しちゃって
もうあそこに戻ることはないのかなあって思ってましたが
逆にネオロマがこっちに浸食してきてたのかw
なんか立ち絵のグラフィックとか微妙にルビーさんな感じもするときもありました。(とくに若い男女キャラで)
や、それはおいといて、史実ルートの辛さっていうのがちゃんとあった上での
もしかしたらな天下の形、ありえないキャラの長生き、全員生存ハーレム(語弊)ENDなのがいいかなと。
あとやっぱりおっさんキャラ度も高いのでまんぞく。BSRはおっさん成分足らないからどうもなあ…。
また他勢力のらくがきもしたいなあと思ってはいる。
更新ちょっと間が空いてしまってすみません~。
三月半ばに引っ越すので荷物と格闘してるところです。
やっと終わりが見えてきて
事務手続きも片が付いた感じでほっとひといき…。
「牛若丸の髪型」について検索されて
こちらへお運び下さった方がいらっしゃるようなので
[中古小児の髪風]のとき脇に描いて、そのうち色塗ろうと思って放置してたやつですが
とりあえず載せておきます~。(「結い方」ではないのであれですが…)
■唐輪(からわ)と兒髷(ちごわげ)
もとは若党(元服後~若年の武士)の髪型で、平安末期ごろから。平治絵巻などに見られます。
髻(もとどり)の末を片輪あるいは諸輪(もろわ)にまとめた髷。
のちに、寺院の兒(稚児=ちご)の髪型にもなり、
公家の若君の元服前の髪型(みづらよりは格が劣る)となり、
元結を高くして諸輪を美しく見せるようになっていきます。
さらに、女児の髪型のひとつに取り入れられ、
娘髷(この形は関西で好まれた)にも。
「兒髷(稚児髷)」などと呼ばれるようになりました。
ただ、平安末期に兒がすでにこの髪型にしていたのかどうかはちょっとあやしい。
『稚児観音縁起絵巻』(鎌倉後期)ではひとつ結びの垂髪、
『道成寺縁起絵巻』(室町初期)ではまだぺったりした唐輪です。
江戸時代ごろに描かれる牛若は確実に高元結の兒髷なんですが、
浮世絵などの、幼少の菅公とか愛護若とか、
『上・中古の貴種の若君』というざっくりしたカテゴリがだいたいこの髪型、っていう感じも。
・若党と兒が同じ髪型にしていたのはなぜか。
児には、寺の外から入ってくるものと、坊官(房官)の子息からなるものとがいます。
そもそも侍童を擁するっていうのはそれなりに位も上の僧侶じゃないと出来ない(扶持的に)ので
寺院の別当や、三綱、大寺院を構成する子院の主など、ということになります。
で、特に別当坊などについて、家政を担当する人達を坊官といいます。
摂関家などの政所みたいなもの。
妻帯、帯刀、在家の僧で、次第に寺院に定着して、世襲になっていきます。
侍僧とか、時代が下ると寺侍(てらざむらい)などとも呼ばれます。
でこの子息は幼少時は侍童になって、父兄と共に院主に仕え、元服すれば坊官になると。
義経の同母兄円済(乙若、源義円)も、園城寺の円惠法親王(八条宮)に仕える坊官になっています。
おそらく元服前は侍童をしていたのでしょう。
『常葉が腹の子供三人、年月をへしかば、長大にして、兄今若は醍醐寺にて学文し、出家して禅師公(ぜんじこう)全済となのりけり。悪禅師とて、希代のあら者なりけり。中、乙若は、八条宮に召仕われて、卿公(きやうのきみ)円済とて坊官にてぞ有ける。弟の牛若は、鞍馬の東光坊阿闍梨蓮忍が弟子、禅林坊阿闍梨覚日が同宿して、沙那王とぞよばれける。』(平治物語/牛若奥州下りの事)
彼らの場合は、源氏の棟梁の子息…ではあるけれど零落している、ということも考慮しなければなりませんが
武士-坊官-兒 の繋がりはこの例からも充分見いだせるのではないでしょうか。
武家の若党と兒は同じ階層に属するものたちで、年齢も近く、
髪型に共通点があっても不思議はないんじゃないかなーと思います。
ついでに、堂衆(諸堂に仕える平の坊さん達。大衆だいしゅ)だけでなく、
坊官も裹頭(覆面)武装すれば僧兵になります。
このあたりはもう少し掘り下げたいなーと思ってます。
関連記事リンク:
[みづら祭の序 (附目次)]
[中古小児の髪風]
参考文献:
▲「日本結髪全史」(江馬務/東京創元社)1960再版改訂
▲「中世寺院の社会と芸能」(土谷恵/吉川弘文館)2001
▲「続日本の絵巻20 当麻曼荼羅縁起・稚児観音縁起」
▲平治物語絵巻 三条殿夜討巻「ボストン美術館 日本美術の至宝」特別展図録(2012)
**********************
先日書いた幞頭の記事に結構反応を頂きまして、おお~っという…。
ぼくとうったら地味に需要があったのね…!
引き続き、日本の冠などとの繋がりを調べています~。
大大論さんの幞頭。サイド想像図。
**********************
他らくがき投下しておきます。
迦陵瀕伽と鳳首箜篌(ほうしゅくご)。
廃絶した古楽器なので詳しいことは解りません。正倉院御物の復元は存在。
これは敦煌の壁画とかを見て妄想で描いてます…。
迦陵ちゃんと鳳首が鳥語でおはなし妄想だ!!
気分がくさくさしたときは好きなモノを描くにかぎる~~。
宝髻(ほうけい)。菩薩像などの髪型。(正確には頭頂部の髻部分の名前)
前髪よく見ると波打ってたりとかこうやって複雑な留めかたしてたり
鬢の毛を後ろへ渡したり、後れ毛を垂らしたり
ただアップにしてるだけじゃないんですよね~~~!!
もちろんみんな同じ髪型なんてことはないけど。
ああ すきだ すきだ だいすきだ!!!!
仏はパンチパーマだけじゃないんだぜ!!
袈裟狸。
月岡芳年の作品で文福茶釜なたぬきさんが文机に伏せて上目遣いしてるのがあるのですが
それが大好きで…
たぬーはなぜこんなにも袈裟が似合いますか!?
他にこんなに袈裟が似合うどうぶつっているでしょうか!?
三月半ばに引っ越すので荷物と格闘してるところです。
やっと終わりが見えてきて
事務手続きも片が付いた感じでほっとひといき…。
「牛若丸の髪型」について検索されて
こちらへお運び下さった方がいらっしゃるようなので
[中古小児の髪風]のとき脇に描いて、そのうち色塗ろうと思って放置してたやつですが
とりあえず載せておきます~。(「結い方」ではないのであれですが…)
■唐輪(からわ)と兒髷(ちごわげ)
もとは若党(元服後~若年の武士)の髪型で、平安末期ごろから。平治絵巻などに見られます。
髻(もとどり)の末を片輪あるいは諸輪(もろわ)にまとめた髷。
のちに、寺院の兒(稚児=ちご)の髪型にもなり、
公家の若君の元服前の髪型(みづらよりは格が劣る)となり、
元結を高くして諸輪を美しく見せるようになっていきます。
さらに、女児の髪型のひとつに取り入れられ、
娘髷(この形は関西で好まれた)にも。
「兒髷(稚児髷)」などと呼ばれるようになりました。
ただ、平安末期に兒がすでにこの髪型にしていたのかどうかはちょっとあやしい。
『稚児観音縁起絵巻』(鎌倉後期)ではひとつ結びの垂髪、
『道成寺縁起絵巻』(室町初期)ではまだぺったりした唐輪です。
江戸時代ごろに描かれる牛若は確実に高元結の兒髷なんですが、
浮世絵などの、幼少の菅公とか愛護若とか、
『上・中古の貴種の若君』というざっくりしたカテゴリがだいたいこの髪型、っていう感じも。
・若党と兒が同じ髪型にしていたのはなぜか。
児には、寺の外から入ってくるものと、坊官(房官)の子息からなるものとがいます。
そもそも侍童を擁するっていうのはそれなりに位も上の僧侶じゃないと出来ない(扶持的に)ので
寺院の別当や、三綱、大寺院を構成する子院の主など、ということになります。
で、特に別当坊などについて、家政を担当する人達を坊官といいます。
摂関家などの政所みたいなもの。
妻帯、帯刀、在家の僧で、次第に寺院に定着して、世襲になっていきます。
侍僧とか、時代が下ると寺侍(てらざむらい)などとも呼ばれます。
でこの子息は幼少時は侍童になって、父兄と共に院主に仕え、元服すれば坊官になると。
義経の同母兄円済(乙若、源義円)も、園城寺の円惠法親王(八条宮)に仕える坊官になっています。
おそらく元服前は侍童をしていたのでしょう。
『常葉が腹の子供三人、年月をへしかば、長大にして、兄今若は醍醐寺にて学文し、出家して禅師公(ぜんじこう)全済となのりけり。悪禅師とて、希代のあら者なりけり。中、乙若は、八条宮に召仕われて、卿公(きやうのきみ)円済とて坊官にてぞ有ける。弟の牛若は、鞍馬の東光坊阿闍梨蓮忍が弟子、禅林坊阿闍梨覚日が同宿して、沙那王とぞよばれける。』(平治物語/牛若奥州下りの事)
彼らの場合は、源氏の棟梁の子息…ではあるけれど零落している、ということも考慮しなければなりませんが
武士-坊官-兒 の繋がりはこの例からも充分見いだせるのではないでしょうか。
武家の若党と兒は同じ階層に属するものたちで、年齢も近く、
髪型に共通点があっても不思議はないんじゃないかなーと思います。
ついでに、堂衆(諸堂に仕える平の坊さん達。大衆だいしゅ)だけでなく、
坊官も裹頭(覆面)武装すれば僧兵になります。
このあたりはもう少し掘り下げたいなーと思ってます。
関連記事リンク:
[みづら祭の序 (附目次)]
[中古小児の髪風]
参考文献:
▲「日本結髪全史」(江馬務/東京創元社)1960再版改訂
▲「中世寺院の社会と芸能」(土谷恵/吉川弘文館)2001
▲「続日本の絵巻20 当麻曼荼羅縁起・稚児観音縁起」
▲「続日本の絵巻24 桑実寺縁起・道成寺縁起」
(共に、編集・解説:小松茂美/出版:中央公論社)
▲「新日本古典文学大系43 保元物語・平治物語・承久記」(岩波書店)(共に、編集・解説:小松茂美/出版:中央公論社)
▲平治物語絵巻 三条殿夜討巻「ボストン美術館 日本美術の至宝」特別展図録(2012)
**********************
先日書いた幞頭の記事に結構反応を頂きまして、おお~っという…。
ぼくとうったら地味に需要があったのね…!
引き続き、日本の冠などとの繋がりを調べています~。
大大論さんの幞頭。サイド想像図。
**********************
他らくがき投下しておきます。
迦陵瀕伽と鳳首箜篌(ほうしゅくご)。
廃絶した古楽器なので詳しいことは解りません。正倉院御物の復元は存在。
これは敦煌の壁画とかを見て妄想で描いてます…。
迦陵ちゃんと鳳首が鳥語でおはなし妄想だ!!
気分がくさくさしたときは好きなモノを描くにかぎる~~。
宝髻(ほうけい)。菩薩像などの髪型。(正確には頭頂部の髻部分の名前)
前髪よく見ると波打ってたりとかこうやって複雑な留めかたしてたり
鬢の毛を後ろへ渡したり、後れ毛を垂らしたり
ただアップにしてるだけじゃないんですよね~~~!!
もちろんみんな同じ髪型なんてことはないけど。
ああ すきだ すきだ だいすきだ!!!!
仏はパンチパーマだけじゃないんだぜ!!
袈裟狸。
月岡芳年の作品で文福茶釜なたぬきさんが文机に伏せて上目遣いしてるのがあるのですが
それが大好きで…
たぬーはなぜこんなにも袈裟が似合いますか!?
他にこんなに袈裟が似合うどうぶつっているでしょうか!?
幞頭というと、日本の官人の冠のもとになったものですが
ちょっと構造というか、よくわからない気がしたので
唐代まで飛んで予習してきました~。
◆名称
…というような感じですかねー。
基本的な構造はこのようなもので、そんなに複雑ではありません(もとは庶民が手軽に頭を包む方法だったんだしね)
日本では一方では冠へ進化していきますが、もうひとつの流れが…
「烏紗帽」でピンと来ますよね!
そう、烏帽子です。まず萎烏帽子に変化しました~。
初唐の頃のものは、萎烏帽子によく似ていますよね。
それから立烏帽子になり、折烏帽子になり…。ふっふっふ。
よ~し、これで奈良の官人も怖くない(?)
ソースはこちら。(※中文サイト)
【幞头_百度百科 - http://baike.baidu.com/view/71457.htm】
【幞头- 汉服百科 汉服,汉服体系,汉族服饰 - http://www.hfqun.com/wiki/index.php?doc-view-110】
【隋唐五代冠帽 - 服饰百科 - http://fushi.baike.com/article-49155.html】
ちょっと構造というか、よくわからない気がしたので
唐代まで飛んで予習してきました~。
◆名称
幞[巾+菐]頭 (襆[ころもへん+菐]頭)ボクトウ
異称、『折上巾』『軟裹』、唐代には青黒色の羅紗を用いるようになったことから『烏紗帽』ともいう。(烏=黒。カラス色。)
秦漢時代から高貴な男性は冠帽の類を用いたが、身分の卑しい者は単なる布で頭を覆うのみであり、各地方で呼び名も違った。北周の武帝が初めて『帕頭』を服制に取り入れて被り方を定め、常服に合わせるものとした(『北周書/武帝紀』)。『幞頭』は唐代からの名称。
◆基本の被り方
(1)髻(キツ、もとどり)の上に巾子(キンシ、こじ)を置く。
(2)四角い布(羅紗)をかぶる。
(3)前方の角(脚)左右を後頭部へ回して結ぶ。
(4) (3)を挟むように後方の二角を上げ、巾子の根本あたりで結ぶ。
(3)の端は後頭部へ垂らしておく。
(5)完成。
はじめはこのように、四角い布で巾子を包んで結んだものだったが、
頭を包む部分に桐などで支柱をつける型も出てきた。
頭を包む部分に桐などで支柱をつける型も出てきた。
のちには、枠組みを作った上に紗を貼り、漆で塗り固めてるようになる。
これには、前頭部が丸い形のもの(円頂)と、四角くなった形のもの(方頂)がある。
宋代に入りこの種のものは「幞頭帽子」と呼ばれた。
これには、前頭部が丸い形のもの(円頂)と、四角くなった形のもの(方頂)がある。
宋代に入りこの種のものは「幞頭帽子」と呼ばれた。
◆脚の形
また、脚を別布にして、垂れる姿を見栄えよく整えるようにもなった(垂脚、軟脚)。
脚は次第に長いものが見られるようになり(展脚、長脚)、武官などは長い脚を根本で輪がねた(結脚)。
本体に別布をつけるもの、孔を開けて通すものもあった。
脚の形も、細く、先が剣のように尖ったもの、太めで末広がり丸になったものなどさまざま。
また、胴の針金を入れて形を整えることが行われ(直脚、硬脚)、唐代の皇帝は脚が上向きに曲がった幞頭を、臣民は下に垂れたものを用いた。
宋代になると、もはや竿かといいたくなるほど長いものになる場合も。
脚は次第に長いものが見られるようになり(展脚、長脚)、武官などは長い脚を根本で輪がねた(結脚)。
本体に別布をつけるもの、孔を開けて通すものもあった。
脚の形も、細く、先が剣のように尖ったもの、太めで末広がり丸になったものなどさまざま。
また、胴の針金を入れて形を整えることが行われ(直脚、硬脚)、唐代の皇帝は脚が上向きに曲がった幞頭を、臣民は下に垂れたものを用いた。
宋代になると、もはや竿かといいたくなるほど長いものになる場合も。
◆巾子の形
初唐の頃は、巾子の形は小さく平らな山形で、ただ髻を覆う用を果たすためだけのものだった。
旧唐書輿服志には、唐の高祖武德年間に『平頭小様巾』が流行したとある。
一般にも広く用いられ、諸官も日常着に用いた。この様式を基礎として、様々なスタイルが生まれた。
旧唐書輿服志には、唐の高祖武德年間に『平頭小様巾』が流行したとある。
一般にも広く用いられ、諸官も日常着に用いた。この様式を基礎として、様々なスタイルが生まれた。
武則天の頃の朝廷では巾子の頭を高くすることが流行し、『武家諸王様』と呼ばれた。
唐の中宗が百官に賜った、高くした巾子を前傾(踣)させる様式を『英王踣様』。
玄宗が開元十九年に供奉官及び諸司長官へ賜った『官様』、また『開元内様』は、巾子の先が細く、先が割れている。
晩唐に至ると、巾子の先は真っ直ぐ尖り、巾子を包む部分も角張ったものになった。
…というような感じですかねー。
基本的な構造はこのようなもので、そんなに複雑ではありません(もとは庶民が手軽に頭を包む方法だったんだしね)
日本では一方では冠へ進化していきますが、もうひとつの流れが…
「烏紗帽」でピンと来ますよね!
そう、烏帽子です。まず萎烏帽子に変化しました~。
初唐の頃のものは、萎烏帽子によく似ていますよね。
それから立烏帽子になり、折烏帽子になり…。ふっふっふ。
よ~し、これで奈良の官人も怖くない(?)
ソースはこちら。(※中文サイト)
【幞头_百度百科 - http://baike.baidu.com/view/71457.htm】
【幞头- 汉服百科 汉服,汉服体系,汉族服饰 - http://www.hfqun.com/wiki/index.php?doc-view-110】
【隋唐五代冠帽 - 服饰百科 - http://fushi.baike.com/article-49155.html】