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深度三,三三糎の心の海から湧き出ずる、逆名(サカナ)のぼやき。
 
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大河、相変わらずだな。

と思ったのが、公開された清盛の相国入道verポスター

失笑した。

袈裟はどうせかけないんだろうと思ったけど
あのぎっちぎちの着込み方、木目込み人形かww
もはや何を着てるのかさっぱ不明。
適当にたっかい織物買って適当に仕立てて着込めてるだけなんじゃないんですかねー。
もうなんか投げ遣りさすら感じるわ。

あれってポスター撮影用なのか、実際のシーンで出てくるのかはしらないけど
…まともに動けるの??

kimekomi.jpg

能装束に似てる気もしたので並べてみた。

烏帽子を被っているのが『修羅物』のいでたちで、
『平家物語』を題材にしたお能によく出てきます。(大概は長絹は片肩袒にするようだ)
隣は若い女人のいでたちで、唐織の着流し。襟を広げて着ます。

似てたとしても時代、違うけどね…。
それでも何がもとになってああなったのか、知りたい。
けなすというか、もう、なんでどうしてあんなふうになっちゃうのかをただ知りたい。

song_dress.jpg
あと滋子の「婚礼」 って……この、婚礼とか結婚式っていう感覚自体おかしいんだが

さらに「婚礼衣装」とかいってまた貧相なもの着せてましたが、
あれはなんかもう中国の宮廷だったら女婢レベルでは…。
しかも「宋風」「和風」「天女風」「巫女風」「現代の花嫁風」ミックスだったらしい。
………ど、ど、どれにもまともにあてはまんないよ??????
宋人風っていうと↑こういう感じかなー。ハイウエスト裳スカート

宋風の衣装を着せるなんてありえなーい
という話ではなく

宋風でもなんでもない貧素な装束を

姫君の一番大事な時に着せるのがありえない。


どういうセンスなんや。

うーん、どうしてもそんな意味もなく白無垢にしたかったんなら、
せめて領巾?衫?は薄物にして、ふわっとさせりゃいいのに。
袖も長くしてあったみたいだけど、絹が重くてもっさりしてて台無し。
袿なのかなんなのかよくわかんないけど、重ね着してるのももう少し濃淡つけるとか…
白すぎてデティールつぶれてて、もう何が何だか。袴だったのか裳だったのかもわからない。
髷もまた貧相でイラッときたけど、
形ばかりに作った髷に玉の釵6個と櫛一個とか、何もしない方がまだましだよ…。
もっと高く美しく結い上げたりとか、しないならもう垂髪のほうがまし。
なんかちぢれ毛を見せたかったから長さの調節に腐心したみたいなことをゆーてたが
……かもじとかは?(ボソッ)

栄華を誇る平家が鳴り物入りで御所に上げるおひいさんのいでたちがあれとか、やる気なさすぎ…。
しかもあれで「貰った画像を見てものすごく頑張った結果」だと主張できるデザイナーの神経がまたすごい。
あれを放送できるNHKもやる気ないんだろうけどな…。

清盛の汚らしい黒っぽい長衣とか、後白河の真っ赤なちゃんちゃんこwとか、
義経も白一色で白丁かなんかにしか見えないけど、
ああいうのって、テーマカラーとか建前で、色目とかわからなくて
面倒くさいから、一色にしてごまかそうってことなのか?って思ってしまう。
女性装束も妙に色くすんでるし。
院政期の華美な風とかまったく見えないんですが。
それ言ったら、だれも強装束じゃないし、裳も引いてないか…。

もう別になんかもう、どうでもよくなったなあ
って思うたびにまだ最低レベルを更新してくれるというね…。すごいよね。


[袈裟・法衣の目次]

おまけ。
もうすでに滋子さん関係ない。
chijire.jpg
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全日本及び三千世界のみづら愛好家のみなさま、こんばんは。

こちらは筆者逆名がみづらへの愛を叫ぶ「みづら祭」フロントページです。
長くなりそうなので(作者が楽しみを引き延ばしたいので)、
小出しで出来るだけ頻繁に更新できればと思っております。
 
そこで、こちらのご案内と序章の記事に
目次(リンク)を設けていくことにしました。
 
なお、もくじの下のほうに、
(できるだけ)わかりやすくみづらについてまとめてみました。
そもそもみづらって…?という方はご一読くだされば幸いです。


◆みづら祭のもくじ◆

予告編
■ 序 (この記事です)
■古代みづら
   ・古墳から出土したみづら~「武者塚みづらを結ってみよう!」
 ・埴輪のみづら
   ・鷹匠埴輪
   ・靫負武人埴輪
   ・種々の埴輪美豆良 
   続・種々の埴輪美豆良
・記紀のみづら
 ・万葉集のみづら
 ・古代の整髪具
 ・謎の「ひさごはな」~端境期の髪風
 
■童子みづら
 ・中古小児の髪風
 ・あげみづら、さげみづら
 ・幼年期の髪型として
 ・漢字とみづら~『総角』『角髪』ということ
 ・文学の中のみづら~『あげまき』と『みづら』
 ・日記史料のみづら
 ・殿上童と舞童 附、幼君
 ・装束書のみづら~おしえて!まさすけさん
 ・みづらの似合う装束様々
        ◇御引直衣(童形)
        ◇梅の花手折り挿頭して(半尻-童形狩衣

【番外編】
        ◇唐輪-牛若丸の髪型
        らくがき詰め合わせ(おじさん多め)
        らくがき詰め合わせ【みづらも詰め詰め】
        わたしの好きなみづらランキング とらくがきまとめ
という感じのことを書けたらいいなと思っております。


また、twitterではフライングでポンポン自説をつぶやいております。
まとまった論考ではありませんが、とりあえずの下書きメモとして。

【装束小ネタ】みづら篇~『角髪』表記について、美豆良と総角について 
【装束小ネタ】みづら篇~古代美豆良表現の変遷、続・美豆良と総角、謎の『ひさごはな』



 
少しずつ進めていくつもりですので、
進行中にも御意見御感想、リクエスト等、頂けましたら幸いです。


******************************
【凡例】
 ふだん筆者はなるべく「みずら」と新仮名を使うようにしていますが、
 今回は万葉仮名を多用したり、表現の揺れについても見ていくことになりそうですので、
記事内本文では歴史的仮名遣い「みづら」の表記で統一させて頂きます。
少し考えましたが、タイトルも「みづら祭」に改めさせて頂きます。
…どちらも好きなんですが、決めておかないと混用必至ですので(汗
 
******************************
 
 
■序~ここだけ読んでもわかるかもしれない、みづらのうわつら
 

とりあえず、まず「みづら」って何?というところをざっとお話ししておきます。

【みづら(みずら)】は、古代日本における結髪のひとつです。
美豆良とみづら(みずら) 総角、角髪、角子、鬢頬 あげみづら、さげみづら


大別して、

甲)埴輪などから再現された、古代男性の結髪

乙)古代以降、皇族や貴族の子弟の元服前の結髪


の二種です。
古墳時代と平安時代の間に、両種の中間となる髪型が存在した可能性は小さくないと思っていますが。

なお、みづら祭中は、便宜上、

甲型みづらを「古代みづら」

乙型みづらを「童子みづら」


と呼ばせて頂きます。一般的な名称ではありませんが御容赦下さい。


なお筆者が愛して已まないのは童子みづらの方ですが
いとしの童子みづらの父祖たる古代みづらにも、それなりの孝養を尽くさせて頂く所存です。



さてさて

古墳や埴輪の存在は、長く忘れられていました。
江戸後期以降各地で発掘(というか発見というか盗掘というか)の例が記録されるようになり、
出土品と『古事記』『日本紀』などの研究結果をすりあわせて
「推定」されたものが、いまの古代みづらのイメージ
です。
スタイルとしてこういうものがあった、という事実があっても、
それが本当に「みづら」と呼ばれていたかものなのかどうか、特定するのは難しい。という…。

(なお、埴輪があまり知られていなかった時代の浮世絵、神楽などの図像を見てみると、
被髪、もしくは平安以降の公家・武家装束か、その時代の服装で描かれていたりします。
神功皇后などはまるで巴御前のようです。)
埴輪の様子から、『髷が大きい方が、権力に近かったのでは』という推測もなされていますし
『上位階級は下げ美豆良』という説もありますが、
明らかに上位階層に属する、上げ美豆良の盛装男子埴輪もありますので、絶対ではないように思えます。

童子みづらも、いつ頃から行われていたのか、厳密にはわかりません。
(実は、平安時代以前に元服の習慣が確立されるまで、成人年齢がいつだったかは曖昧です)
平安初期にはすでにスタイルが確立していた童形の聖徳太子像はみづら髪なので、
これを描かれた当時の幼児の髪型だということもできる、かもしれません。

平安時代には、『童殿上(わらわてんじょう)』といって、貴顕の童子が、
顔見せをかねて元服前から帝の御許へお仕えすることが行われていました。
帝の御座所である清涼『殿』へ、特別に『上』がる許可が与えられたから『殿上童(てんじょうわらわ)』、ということは、
おとなの『殿上人(てんじょうびと)』とかわりません。

童子みづらは、このような殿上童の髪型でもあります。
※なお、儀式、宴などの際のアシスタント役や賑やかしのために、臨時で殿上を聴(ゆる)されたり、
舞童に選ばれると舞装束にみづらを結ったりもしました。

上流貴族の子弟、またはこうした臨時の晴装束に合わせる髪型なので、
童装束も、ちょっと位が低めの水干や長絹などに合わせることはありません。

結った残りの髪を下に垂らした「さげみづら」が通常用で、
晴の儀式には「あげみづら」といって、下げ髪は隠してしまいます。
あげみづらは、元服前の幼い帝の髪型でもありました。


【童子の下げみづらの結い方】 雅亮装束抄を元にしています。

なお、みづらの「あげ・さげ」ということは、
童子みづらに対して、上のような約束ごとのもとで用いる区別で(装束書などに記載)、
古代みづらに対して云う場合は、おそらく各所でめいめい便宜上使われるもので、
きちんと規定する史料はありません。

あげみづら、さげみづら

ざっと見て、このくらいの説明がなされているようです。
ただ、規定がないのですから、どれも間違っているというわけでもなくて、
下がっている部分があれば「さげみづら」ということに特に差し支えはないと思います。


●表記について

万葉仮名では『美豆良、美豆羅、美都良』などと書かれ、
漢字では『鬟、髻』と表記します。
(鬟は輪の形に結った髪、髻は、元取(もとどり)で、髪を結った部分や、結髪の総称的な表現です)

漢語の『総角(そうかく)』は、中国の子供の髪型、いわゆるお団子頭。
転じて、幼児期、少年時代の意味をもつことばです。

これが日本に輸入され、『日本書紀』に始めて見ることが出来ます。
総角を訓読して『あげまき(阿介萬岐)』といいます。
記紀に『結(レ)髪』ということばを『かみあげ』と訓む例があることから、
もし『あげまき』に感じを宛てるなら、『結巻』または『結纏』と書くのが適当ではないでしょうか。

『揚巻』という書き方は、上げて巻いて、という理髪の様子を具体的に表したものですが、
相当後(おそらく、江戸時代)のものじゃないかと思います。具体的な根拠はいまのところないのですが(汗)
なお、あげまき髪には飾り結びをする事がありました。
その結び方のひとつを特に『総角結び』と呼ぶようになります。
源氏物語の巻名『総角(あげまき)』は、髪型ではなく結び目のこと(お香の包みの飾り結び)です。

総角は『あげまき』であって、『みづら』とは訓みません。
『総角』と童子みづらとは同じ髪型ですが、『総角』は、髪型のスタイルとしてよりも、
童子そのものの、あるいは少年期の比喩的な名称として使用される例の方が多く見受けられます。
また、当然、成人男性の古代みづらは、総角とは呼びません。

『角子』『角髪』という表記については、筆者は『総角』からの派生だと考えています。
よって、これらを「みづら」と訓むことには否定的な立場です。

また、平安後期ごろからは、『みづら』の音便変化による『びづら、びんづら鬢頬の字を宛てる)』が、
実用的な言葉として日記史料などに見られるようになります。


…と、ここまでで、大体のことはお解り頂けたんじゃないかと思います。
記事ではこれらのことに詳しく触れていこうと思いますが、もうこれでいいよっていう方も
一応、イラストはつけるつもりでおりますので、それだけでもちゃちゃっとみてやっておくんなさいw


【みづら祭 これまでの参考資料】(2013/11/15現在)

【みづら・結髪・装束関連】
▲「日本結髪全史」(江馬務/東京創元社)1960再版改訂
▲『美豆良考』「江馬務著作集第四巻」所収(江馬務/中央公論社)1976
▲「日本の美術23 結髪と髪飾」(橋本澄子編/至文堂)1968
▲「古代人の化粧と装身具」(原田淑人/刀水書房)1987
▲「原色日本服飾史」(井筒雅風/光琳社出版)1998増補改訂
▲「黒髪の文化史」(大原梨恵子/築地書館)1988
▲「有職故実図典-服装と故実-」(鈴木敬三/吉川弘文館)1995
▲「有職故実大事典」(鈴木敬三監修/吉川弘文館)
▲「倭人の絹 弥生時代の織物文化」(布目順朗/小学館)1995
▲「衣服で読み直す日本史 男装と王権」(武田佐知子/朝日選書601)1998
▲「宮廷の装束」展図録(高倉文化研究所/京都国立博物館)1999
▲「よそおいの民俗誌 化粧・着物・死装束」
  (国立歴史民俗博物館編/慶友社)2000
▲「日本の色辞典」(吉岡幸雄/紫紅社)2000
▲「素晴らしい装束の世界-いまに生きる千年のファッション-」(八条忠基/誠文堂新光社)1995
▲「平安文様素材CD-ROM」(八條忠基/マール社)2009
▲『雅亮装束抄』
 「新校羣書類従 第五巻 公事部(二)・装束部(一)」(内外書籍株式會社)1932 所収。
▲『法中装束抄』『法体装束抄』
 新校群書類従 第六巻装束部(二)」(内外株式會社)1932 所収。
▲「倭名類聚鈔 元和三年古活字版二十巻本」(中田祝夫解説/勉成社)1978
▲「伊勢の神宮 御装束神宝」(南里空海/世界文化社)2014
【埴輪・考古学関連】
▲「古代史復元(7) 古墳時代の工芸」(白石太一郎編/講談社)1990
▲「歴史発掘(4) 古代の装い」(春成英爾/講談社)1997
▲「埴輪と絵画の古代学」(辰巳和弘/白水社)1992
▲「埴輪の楽器 楽器史からみた考古資料」(宮崎まゆみ/三交社)1993
▲「人物埴輪の研究」(稲村繁/同成社)1999
▲「はにわ人は語る」(国立歴史民俗博物館編/山川出版社)1999
▲「王の墓と奉仕する人びと」(国立歴史民俗博物館編/山川出版社)2004
▲「ものが語る考古学シリーズ(6) 人物はにわの世界」(稲村繁、森昭/同成社)2002
▲「日本の美術445 黄金細工と金銅装 三国時代の朝鮮半島と倭国(日本)」
  (可田貞編/至文堂)2003
▲「人物埴輪の文化史的研究」(塚田良道/雄山閣)2007
▲「もっと知りたい はにわの世界~古代社会からのメッセージ」(若狭徹/東京美術)2009
▲「狩りと王権」(斎宮歴史博物館 平成7年特別展図録)1995
【武者塚古墳・同2号墳・武具八幡古墳の調査】(筑波大学遺跡リポジトリ)報告書の日付は1986年。
『埴輪集成図鑑』(帝室博物館編)1944 国立国会図書館デジタルコレクション

【生育儀礼関連】
▲「王朝の風俗と文化 塙選書22」(中村義男/塙書房)1962
▲「平安王朝の子どもたちー王権と家・童」(服部早苗/吉川弘文館)2004
▲「女と子供の王朝史-後宮・儀礼・縁 叢書・文化学の越境(13)」(服部早苗編/森話社)2007
▲「平安時代の儀礼と歳事」
▲「平安時代の信仰と生活」
▲「平安時代の環境」
    ー平安時代の文学と生活(山中裕・鈴木一雄編/至文堂)1994
▲「源氏物語図典」(秋山虔・小野町照彦編/小学館)1997
▲「異形の王権 平凡社ライブラリー10」(網野善彦/平凡社)1993

【唐輪(稚児)関連】
▲「中世寺院の社会と芸能」(土谷恵/吉川弘文館)2001
▲「続日本の絵巻20 当麻曼荼羅縁起・稚児観音縁起」
▲「続日本の絵巻24 桑実寺縁起・道成寺縁起」
 (共に、編集・解説:小松茂美/出版:中央公論社)
▲「新日本古典文学大系43 保元物語・平治物語・承久記」(岩波書店)
▲平治物語絵巻 三条殿夜討巻「ボストン美術館 日本美術の至宝」特別展図録(2012)

 【古楽・芸能関連】 
▲「日本音楽大事典」(平凡社)1989
▲「邦楽百科辞典」(音楽之友社)1984
前回の続き。
中世に入り、宗派もぐっと多様になります。
全部は追い切れないので、ここは、変形袈裟のバラエティーに絞って見ていくことにします。


袈裟の変遷その6。

祇園精舎の鐘の声ェ~~♪

というわけで盛者必衰、武士の世となりまして、法衣・袈裟にも新しい刺激がもたらされます。
禅宗がやってくる!ヤアヤアヤア!
この時、教えと共にもたらされたのが
(前褊)で触れた、直綴です。

袈裟の変遷(6) 絡子、直綴 禅僧、虚無僧、茶人、茶坊主、琵琶法師


直綴は僧侶に広く用いられるようになっただけでなく、
色ものの生地で仕立てた直綴「道服」が、半俗の茶人や連歌師などなどにも広く着られ
さらに公家・武家内々の上衣としても用いられるようになり
(時代は下りますが、腰から下に襞のない「小道服」もつくられました)
「羽織」のもとになったとも云われます。

ちなみに禅宗の直綴は、黒くて袖が深くて、
禅僧がその袖に風をはらんで早足で歩み去る大烏の如き様子は、
煩悩の汚泥にまみれた衆生の横っ面を、颯爽たる笑みでしたたかひっぱたいて正道に立ち戻らせる、
そんな恐るべき済度力をそなえているように思えます。フー。
いや、その位の含みはあると思うんだ、普通に考えて日常動作にあの袖はご不便だろうなあと思うもの。

また、五条袈裟がさらに小型化されて、二本の紐(サオ)で首から懸ける
「掛絡(から)」または「絡子(らくす)」と呼ばれる小さな五条袈裟がつくられました。
サオの一本には、絡子環(らくすかん)という留め具がつきます。
(宗派によってはつかない)
サオは、首の後ろで「マネキ」という長方形の布でまとめられています。

旅姿の禅僧も、風呂敷などでまとめた荷物の下にちゃんと絡子を懸けています。
しかし、これ…「まとめた」「包んだ」って、一言で言えるようなものじゃないですよね…。

また、「大掛絡(おおがら)」と呼ばれる、大振りの絡子があり、、
御存知虚無僧(普化宗の行脚僧)が横懸けにしています。
首から提げた偈箱(明暗と書いてある木箱)は、尺八の楽譜を入れる物。
お布施入れにもなったそう。

小野塚五条は、真義真言宗豊山派のみで用いられる小型の五条袈裟で、
つくられたのは大正時代だそうですが、威儀細とも呼ばれ、確かに紐が細くて瀟洒な印象です。
(絵はちょっと威儀が長すぎた…)

※茶坊主はたまたまスケブから発掘してきたおまけです
さらにおまけ。
omake_mousu.jpg
琵琶といえば蝉丸さんですが
百人一首の蝉丸は ときどき帽子(もうす)をかぶってる。
時代的に云えばこういう形のモノはなかったはずなので
お能の「蝉丸」からのイメージなのかも知れません。
他に立帽子、観音帽子などいろいろ並べてみましたが
なんだか、上杉謙信の図像ってまちまちで、こういう、法体が被る帽子(頭巾)みんな被っている気がします。
中に変なの混じってるけど気にしないで下さいw



その7。
袈裟を細く畳んで巻いたり懸けたりの巻。
袈裟の変遷(7) 修験者の結袈裟 梵天袈裟 磨紫金袈裟

本来なら、こちらを(6)にしたほうが、時代的にみたらよかったのかも知れませんが。

遊行僧が五条袈裟を細く折って畳み、襷掛けにしていました。
おそらくこのような着用法から生まれたのが、畳んで首に懸ける方式の「折五条」、「輪袈裟」であり、
それらをさらに複雑化したのが「結袈裟」だと思われます。
(結袈裟は九条袈裟を畳んだ物だそうですが)
結袈裟は修験者が懸けるもので、胸へ垂らす部分と、背へ垂らす部分と分かれています。
前後に、特徴的な球状の総が付きます。これは「梵天」とよび、この袈裟を「梵天袈裟」といいます。
この梵天は、水干などに付く菊綴の変形だといいます。
それにしても見事なポンポン!梵天とはナイスネーミング!
さらにこの梵天を金飾に代えたのが「磨紫金(ましこん)袈裟」
(※紫磨金しまごんは、紫色を帯びた最良の黄金のこと)
胸に垂れる部分の組紐を縮小版の修多羅に代えた「修多羅袈裟」もあります。

結袈裟は背の緒を帯に固定するようです。
修験者の衣は、「篠懸衣(鈴懸衣、すずかけごろも)」、袴は共布。形は直垂によく似ていますね。
頭上には頭巾(ときん)、手甲に脚絆、後腰に獣皮の引敷(ひっしき)をつけ、護摩刀を佩き、
お山を走るときにザイルとして使う「貝の緒」を組み結びにしたものを両腰から垂らします。
なんとなく並べてみたくて僧兵もかきました。


******************

あー楽しかった。後半ダレましたが。

ここまでお付き合い頂いた方(もしいらっしゃれば)有り難う御座いました。

しかし、袈裟、法衣と一部を挙げただけでもこれだけ多様で、改めて驚かされます。
絵だけでも御覧頂いて、法衣・袈裟の多様性を感じて頂けたら嬉しいです。

あ、
勿論小型改良袈裟だけでなく
従来の袈裟も大事に扱われていました。
師から弟子へ相伝される「銘物」も遺されていますし!

全部ではないにせよ、各時代に生まれた袈裟が、実用品として使われているのも本当にすごい。
よく考えたら、指貫袴なんて、直衣や狩衣とセットで見るよりも、法衣セットで見てる方が多いのかも?
装束好きにもやっぱり法衣っておいしいですね~~ほくほく。

実はまだ入手できてない資料などありますので、いつか再チャレンジできたらなと思ってます。
記事をちょこちょこ修正加筆っていう方が現実的だけど。



おまけ。
梵天のもとになった、菊綴です。直垂と童水干で見てみましょう。
kikutoji.jpg
ほつれやすい部分の補強の為に結んだ紐の裾をほどいて、花のように開いたのが菊綴です。
「くくりとじ」の訛、という説も。
のちにはただの飾りになっても、少なくとも菊綴がついた衣は、当初は消耗の激しい日常着だったことを窺えます。

童水干は平安末期ごろから華美な童子服という向きが出てきて
生地や、菊綴、袖括も大分カラフルになりました。
紐結びのもの、皮紐で結ぶものもありますが、皮紐のものは直垂の亜種である「素襖」に使われました。


……と、袈裟関係ないおまけで締めてすみませんw

◆(前編)天竺~唐まで はこちら
◆(中編)奈良~平安時代まで はこちら。
[袈裟・法衣の目次]はこちら。
「つづきを読む」に、参考文献。


前回の続きです。

唐で色々と改造された袈裟ですが
日本ではまた独特の変遷を辿ります。
善哉極東ガラパゴス。華麗な変化を御覧あれ!


その4。

日本への仏教伝来当初は、唐代の褊衫裙と袈裟をそのまま用いていたと考えられます。
褊衫裙に木蘭色(もくらんじき)の七条袈裟「如法衣」を懸けた姿は、「律衣(りつえ」として
今でも鑑真和上が伝えた律宗によって用いられています。
現存唯一の左前の法衣だそうです。
袈裟の変遷(4) 袍裳、横被七条袈裟、裳付衣 附、文武官朝服

さて、仏教が国家の統制下に入り、僧侶も「僧官」に叙せられて朝廷に奉仕することになります。
朝官の官服に準じて、「僧官服」とでもいうべきものがつくられました。
「袍裳(法衣)」は式正の場で用いる法衣で、褊衫と裙を、官服の袍(ただし、盤領から垂領に変わり《※》僧綱襟という高い襟が加えられている)と、
裳(当時の物は、襞付きの巻きスカートのようなもので、
動きやすさと装飾の為に上衣から裾を出して着る)に代えたものです。
袈裟は、七条以上の「大衣(だいえ)」が用いられ、のちに横被も加えられるようになりました。
袈裟を結び吊るのに使った紐の先に「修多羅(しゅたら)」という長大な飾り結びがついていて、
これを左肩から背へ垂らします。
(当初は総角(あげまき)結びをいくつか連続して結ぶなど、もっと簡易な物であったと思われる)
下具(したのぐ)は、朝官と同じく表袴、大口袴、襪(しとうず、指無しの足袋)、
沓は鼻高沓(びこうぐつ)といって、甲がすこし尖っているものを履きました。

(※盤領…あげくび、首紙を入れた細い立て襟を紐で留める領(えり)。束帯袍や直衣、狩衣など。
 垂領…たりくび、前身頃の左右を垂らし、引き違えて着ること。単、小袖、直垂など。
 水干は造りは盤領だが、垂領に着ることも普通に行われた)


袍裳よりもっと軽い装束の「裳付衣」も作られました。
上衣と喪が一体になり、入襴(喪のように襞を寄せる)の様子が、こちらも、平安初期の文官の袍によく似ています。
余談ですが、文官袍の蟻先ってほんと謎形状ですね。描きづらいし(笑)


その5。

僧官も国家行事へ列席することになります。
灌仏会だとか、仏教的なものだけでなく、神道に基づいた行事へも。
袍裳は位階に応じた「当色」(律令制では官一位は深紫、二位三位は浅紫、等々)で仕立てられていましたが、
神道的な色の濃い行事に際してはどうにも差し障りがあります。
平安中期頃と思われますが、
官人の「浄衣(じょうえ)」のように、清浄色である白を基調とした法衣がつくられました。
(ちなみに、本来の袈裟・法衣は、青・黄・赤・白・黒の五色の「正色」を避けた
「壊色(えじき…くすんだ色などで『染壊』する)」であるべき、とされていました)
袈裟の変遷(5) 鈍色(椎鈍)、素絹、半素絹。附、御祭服、浄衣。


し、白い!!!!
まばゆい!!!!
清楚!!!!!


袍裳と同型で、裏地のない単、白地無文の
生絹(すずし)、精好(せいごう)、穀織(こめおり)で仕立てたものが「鈍色(どんじき)」です。
もとは白を意味して「純色」と書いたそうで、「にびいろ」とはまた違うようです。
また、「椎鈍(しいにぶ、ついどん)」は、鈍色と同じものか、或は薄墨色のものをいうと思われます。
この法衣自体を「浄衣」と呼ぶこともあります。
五条袈裟を掛け、下には指貫袴を着けますが、
式正の場では袍裳と同じく七条袈裟に表袴、という料も用いたようです。

裳付衣の裾を長く引き、白生絹で仕立てた「素絹」は、鈍色よりは一段軽い参内用の装束で、
袈裟は五条袈裟、袴は指貫と決まっています。
なお、折角長く仕立てた裾を、簡便の用のためにまた切りつめてしまったのが「半素絹(切素絹)」
これは結局は型が裳付衣に戻ったことになるので、ほぼ同一視されますが
半素絹が広く用いられるようになり、白以外のさまざまな色も使われるようになって
黒は裳付、それ以外の色は素絹、ということに、大体、なっているようです。

また!忘れてならないのは、鈍色以下の特殊な法衣に合わせて、袈裟もまた改造されたということです。
本来は腰に巻くような形であったらしい五条袈裟に、威儀という細帯を付けて、左肩から吊る形に。
当初「横五条」と呼ばれた、いまの五条袈裟です。
そうです、実は五条袈裟は、日本独特のものなのです。

しかも、神と仏がうまくやってく為に生み出されたとは。
なんていじましいんでしょうかッ!
噫、愛す可き哉、やまと五条袈裟!(ナデナデ)

このあたりの法衣の構成、また、袈裟については
過去記事【法衣・袈裟 構成比較 附、袈裟図解】もご覧下さい。

袈裟図解

…素絹ともうひとつ「裘代」についても、過去記事で何回も取り上げているので御一瞥下さると私が喜びます。
いや、描きたかったのです、裘代は。でも白服じゃないから今回は自粛しました……


さて、続きは(後編)にて。
[袈裟・法衣の目次]はこちら。

※参考資料については、(後編)の最後にまとめました。
先日、平安末の僧官の法衣・袈裟構成表を載せましたが、やっぱり表だけではピンときませんし
どうせなら、袈裟の変遷をたどってみたいと思います。

袈裟といえば当初は一枚で体を覆うものでしたが、
所を移り、時を経るに従って、その土地、その時代の服装に合わせて変わっていきました。
ここではインド→中国→日本という移り変わりを、大まかに見ていきます。
なお、筆者の贔屓が「平安密教」であることを先に申し上げておきます。

袈裟にはたくさんの尊い意味が込められています。 が
そういった大事なことをお話しするというのは、
単なる袈裟モエーな筆者にはなかなか腰の引けることですので、
ごっそり省かせて頂いています。どうぞ御寛恕下さいませ。

なお、前中後編通じて、絵の多くは「原色日本服飾史」(井筒雅風/光琳舎出版)の図版を参考にしています。
この本の著者であられる井筒雅風先生は、日本の装束研究、そして法衣研究の泰斗でいらっしゃいます。
装束の参考書として日頃から大変お世話になっているだけでなく、
筆者が法衣に転んだのはこの本との出会いが切っ掛けであり、
そうでなければ、このような記事を書くこともなかったでしょう。
ゆえに、多少大袈裟の感ありと覚えつつも、
この場を借りまして、井筒雅風先生と「原色日本服飾史」へ、
衷心よりの感謝を申し述べるものであります。


それでは、まず原始仏教の袈裟から。
hensen01.jpg

一枚の大きな袈裟で、体の上下を覆っていました。
『糞掃衣』などの名に見る如く、もうお掃除にしか使い道のない様な襤褸布がもっとも尊いとされました。
しかし、質はともかく、これでは量が要ったろうなあと思うのは私だけでしょうか。
衣を縫うのも修行のうちだからいいってことでしょうか。

畳んでひだを付けながら腰へ巻いていき、石帯で結び、帯の上に余った布を折り返します。
その後、右腋から左肩へ一度巻き付け、
二回目をもう一度同じように巻いて右肩を露出させるのが「偏袒右肩(へんだんうけん)」
二回目は右肩から右肩へ、胸元を覆うように掛けるのが「通肩」です。
仏さまの中でも、もっとも位の高い如来は、世俗を遠く離れて、装束ももっとも質素ですから、
こういった原理に近い袈裟の巻き方をしておいでです。


その2。
教えが広まり、インドからアジア各地へ伝わるに従って、
さすがに布一枚では不便が出てきたのか、袈裟の下に着ける衣が加えられます。
hensen02.jpg

「僧祇支(ソウギシ)」は、もとは比丘尼が胸を覆うものだったようです。覆膊、掩腋衣とも呼びます。
「覆肩衣」には、仏弟子の阿難陀が美しすぎたので、皆の目の毒だから玉のお肌を隠しなさいと仏陀がおっしゃった(阿難端正なり、人見て皆悦ぶ、仏覆肩衣を著せしむ、此れ右の肩を覆うなり。)、というような小咄がくっついています。
のちの横被(オウヒ、横皮、横披、横尾とも)のもとになったとも云われます。

この二つを加えると、いまのチベットや東南アジアのお坊さんがぱっと思い浮かぶようになりますね。

ただ中国唐代のぼんさんは肩出しには抵抗があったらしく、
僧祇支と覆肩衣をくっつけて、両肩を覆う「褊衫(ヘンサン、ヘンザンとも、偏衫)」をつくりました。
襟(衽)と袖がありますが、左前に着ます。
更に、袈裟の、腰に巻いていた部分が切り離され、巻きスカートのような袴のような「裙子(クンズ、裙)」がつくられます。

その3。
hensen03.jpg

裙が分離してしまうと、袈裟自体のあり方も変わってきます。
巻きが足らなくなり、袈裟だけではほどけてしまうので、紐を付けて左肩から吊すような形になりました。
紐だけで結び留めたり、鐶(かん)という円い留め具を使ったり、
また、袈裟をたくしあげて結び目を覆い隠すような着方もあります。

そうして、褊衫と裙子が直に綴じ合わされた「直綴(ジキトツ)」も考え出されました。
衽が右前になり、腰紐で前を留めます。腰から下には襞が寄っています。
直綴は禅宗と共に日本へ輸入されることになるので、ここでは飛ばします。


次は袈裟が天平の日本へやって来ます。(中編)へつづく。
[袈裟・法衣の目次]はこちら。

※参考資料については、(後編)の最後にまとめました。

なお、カテゴリに「装束関連」を新設しました。いつか装束記事がたまったら、と思っていたので嬉しいです。
こちらのレンタルブログだと、一つの記事に複数カテゴリ設定が出来ないのがちょっと不便です…。

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無駄と斑の腐渣。
らくがきと調べ物が趣味の
風俗文化史好き歴史オタク。
人物志より文化史寄り。
イチ推しはみづら
(美豆良/鬟/鬢頬/総角)。

中古日本史、東洋史、仏教史(仏教東漸期の東アジア、平安密教、仏教芸能、美術、門跡寺院制度等)、有職故実、官職制度、風俗諸相、男色史。古典文学、絵巻物、拾遺・説話物。

好きな渡来僧:婆羅門僧正菩提僊那、林邑僧仏哲
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好きな法親王:紫金臺寺御室、北院御室
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好きな仏像:普賢・文殊(童形)はじめ菩薩以下明王、天部、飛天(瓔珞天衣持物好き)

やまとことばも漢語も好き。
活字・漫画・ゲーム等、偏食気味雑食。

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