毎週更新できていたみづら祭ですが
今週は、ひとやすみ。
で、
またしても「こうだったらいいのになー」っていう…。
『旦(あした)には朝雲と爲り、
暮には行雲と爲りて、
朝々暮々、
陽臺の下(もと)にあらん。』 (抜粋;宋玉/高唐賦)
後白河さん「共に巫山の夢に戯れようぞ」
とかゆー…。
楚の懐王が午睡の内に
巫山の神女と出逢ってアハハウフフ
日がな一日いちゃこらいちゃこら
な夢を見た。というお話で、神女が云った台詞が上の部分です。
この話を引いて、
「雲雨」「巫山の戯」などは男女の情交、またその濃まやかなことを指す。
「ふざける」に「巫山戯る」の宛字を考えたひとはガッツポーズをしたと思う。だいすきだ!!
この話好きそうだよね…後白河さん。
後白河さんは衣冠(上皇の料は赤袍、文は自由)です。
滋子さんは宋風、じゃなくって、唐風。
この前『宋風だったらこうじゃねーか』を描いたのですが
どうせなら地味な宋風より唐風の方が……と思って。
『唐風』っていえばそれで大陸風、っていうことなんだから
きちんと宋風装束を持ってくるわけでもなし、わざわざ宋風って言明しなくてもいいのに…。
衣冠は束帯に準ずるものですが、
そもそも上皇様は束帯着用が必要になるような厳儀にはお出ましにならないので、
ほとんど束帯はお召しになりませぬ。
お手つき女御の婚礼っていうの自体なんかちょっともうアレなんですけど
滋子は折角がんばったのに、後白河さん烏帽子ってないわーと思って…。
先に見てたねすたくんにあらすじ聞いたとき「それ何ていうハーレクイン?ww」て思いましたが
テレビ欄にラブロマンスVv(笑)とか書くんだったらせめてこのくらい気張って欲しかった…。
っていうかまだ滋子の婚礼衣装に粘着してる人がいるよ!!w
今週は、ひとやすみ。
で、
またしても「こうだったらいいのになー」っていう…。
『旦(あした)には朝雲と爲り、
暮には行雲と爲りて、
朝々暮々、
陽臺の下(もと)にあらん。』 (抜粋;宋玉/高唐賦)
後白河さん「共に巫山の夢に戯れようぞ」
とかゆー…。
楚の懐王が午睡の内に
巫山の神女と出逢ってアハハウフフ
日がな一日いちゃこらいちゃこら
な夢を見た。というお話で、神女が云った台詞が上の部分です。
この話を引いて、
「雲雨」「巫山の戯」などは男女の情交、またその濃まやかなことを指す。
「ふざける」に「巫山戯る」の宛字を考えたひとはガッツポーズをしたと思う。だいすきだ!!
この話好きそうだよね…後白河さん。
後白河さんは衣冠(上皇の料は赤袍、文は自由)です。
滋子さんは宋風、じゃなくって、唐風。
この前『宋風だったらこうじゃねーか』を描いたのですが
どうせなら地味な宋風より唐風の方が……と思って。
『唐風』っていえばそれで大陸風、っていうことなんだから
きちんと宋風装束を持ってくるわけでもなし、わざわざ宋風って言明しなくてもいいのに…。
衣冠は束帯に準ずるものですが、
そもそも上皇様は束帯着用が必要になるような厳儀にはお出ましにならないので、
ほとんど束帯はお召しになりませぬ。
お手つき女御の婚礼っていうの自体なんかちょっともうアレなんですけど
滋子は折角がんばったのに、後白河さん烏帽子ってないわーと思って…。
先に見てたねすたくんにあらすじ聞いたとき「それ何ていうハーレクイン?ww」て思いましたが
テレビ欄にラブロマンスVv(笑)とか書くんだったらせめてこのくらい気張って欲しかった…。
っていうかまだ滋子の婚礼衣装に粘着してる人がいるよ!!w
PR
全日本及び三千世界のみづら愛好家の皆様こんにちは。
只今みづら祭を開催中です。
今回は、埴輪みづらを描いてみよう!その3。
『種々(くさぐさ)の埴輪美豆良』をお送り致します。
【序】にて、古代みづらに以下のような種別を付けましたが、
(1)■上げ美豆良(附、下げ美豆良丙)
耳の横で髻(もとどり)を結い、
輪にしたり折り込むなどして元結で留め結び、髷の上下を突出させる形。
埴輪で見てみると、必ずしも多数派というわけではないようです。
・小さくて簡素なもの(農夫や馬飼等とされる)
・大きく長く装飾的なもの(権力者や武人とされる)
とに分けることが出来ます。
…これ、兜?部分をすごく適当に描いてしまった(上に何かが混じった)のですが、
実際は本当にどうなっていたんでしょうね…。
よく見ると、下の部分は毛先が露出しているようにも見えます。
また、造形の上で、顔の両脇に二つ山(分銅形)になったパーツを付けるものと、ただ四角をくっつけただけのものとがあり、ここでは、四角をひとつ髷…言うなれば上だけ美豆良?に見立ててみました。
もうひとつ、《下げ美豆良・丙》にあたるもの、上げ美豆良下部から毛先を垂下する形も、
他に例を見付けられなかったので、これに当てはめてみました。
うーーん…。これはちょっと無理矢理な気もしますが。
うーーん…。これはちょっと無理矢理な気もしますが。
(もし下げ美豆良丙を結っていると思しき埴輪を御存知の方がいらっしゃいましたら、筆者までお知らせ頂ければ幸いです)
(2)■下げ美豆良・甲
髻をつくり、一度垂らした髪を上げて、毛先を巻き込んで結う、あるいは、何回か輪を作って結うもの。
長さ、大きさ、結い方も様々。
大概が盛装あるいは武装なので、階級は上の方であろうと思われます。
形としては、結い上げる方法によって、
・髻周辺だけを結い、涙型に垂れているもの
・元結の紐を長く巻き付け、棒状にしてあるもの(椎髻/ついきつ)
などがあります。
埴輪によっては、ありがたいことに、結ぶ紐まで丁寧に形作られているので
これによって結い方のひとつをうかがい知ることが出来ます。
さらに、
・後頭部に束髪(或はもうひとつ髷をつくる)する形
・頭頂部で振り分けた前髪を表現した形
も、出土例があります。
ただ、後頭部束髪については、手元に集めた資料の中に埴輪の後ろ姿を見られる図版が少なく、
どれくらいの埴輪がこういった形をとっているのかは、確認できませんでした。
どれくらいの埴輪がこういった形をとっているのかは、確認できませんでした。
…振分髪、でこですねw
下の方はかなり好き放題になってます…
ところで、王冠を付けてあぐらをかいているような形の埴輪。
衣の模様が、水玉に見えますが…。
…これを描いてみる勇気はありませんでしたw
(3)■下げ美豆良・乙
顔の両脇に髻をつくり、髪を長く垂下させる形。いわゆる、おさげ髪。
・ほぼ無造作に束ねて垂らしているもの
・結紐を巻き付けており、甲型に似るが、毛先を露出しているように見えるもの
を持ってきてみました。
上の図では顔に丹(赤土)を塗りつけていますが、刺青とは違うようです。
刺青をした埴輪も見つかっていますが、それらは丹を塗るのではなく、顔面に直接彫りを入れて模様を刻み込んでいるので、区別がつきます。
『以朱丹塗其體、如中国用粉也。』[魏志/東夷傳/倭人]
ところで、
分銅形でも輪状でもないのに、みづらと呼べるのでしょうか?
実は、これら埴輪の髪型を『美豆良』とする根拠もである、古事記や日本書紀には、
『故刺左之御美豆良湯津津間櫛之男柱一箇取闕而。(中略)…亦刺其右御美豆良之湯津津間櫛引闕而。』
[古事記/黄泉津比良坂の場面]
[古事記/黄泉津比良坂の場面]
『巳而素戔鳴尊含其左髻所纒五百箇御統之瓊。』[日本書紀/神代紀]
などとあって、左右に分けていることが知られるだけで、結い上げた形にまで言及はありません。
つまり、左右二つ分けにさえしていれば、『美豆良』の要件は満たしていることになります。
というわけで、おさげもみづらです。
おまけ■女性の埴輪
美豆良に絞って見てきたので女性の話題には触れていませんが
女性の髪型は、いわゆる「古墳島田」です。
後世の島田髷に似ているので、こう呼ばれます。
埴輪の造形としては、厚みのある板を頭の上に載せているような形が多いようです。
女性の埴輪は殆どが巫女のようで、基本的な要素も大概共通しています。
ところでこちらは特定の埴輪をモデルに描いたわけではなかったのですが
描いたあとに、なんとなく雰囲気の似た巫女埴輪の写真と遭遇したので入れてみました。
険しい表情……。
なお、額に巻いているのは「日陰鬘(ひかげのかずら)」というシダ科の植物です。
髪に植物を纏いたり挿したりすることについては、また回を設けたいと思います。
■まとめ
埴輪の美豆良とモデルの階級について、今回扱った資料の範囲内ですが、おおむね2説あるようです。
▲『美豆良の大きいものは上層階級』
▲『上げ美豆良は下層、下げ美豆良は上層階級』
というものです。
▲『美豆良の大きいものは上層階級』
▲『上げ美豆良は下層、下げ美豆良は上層階級』
というものです。
前者は、盛装埴輪の多くが肩に届くほど、或はそれ以上に長く、美豆良を垂れていることから、容易に肯定できます。
ただ、製作上デフォルメが加えていること等も考慮に入れなければならず、
例えば、美豆良の大小比較によって厳密に地位の高低を計ることなどは困難だと思われます。
ただ、製作上デフォルメが加えていること等も考慮に入れなければならず、
例えば、美豆良の大小比較によって厳密に地位の高低を計ることなどは困難だと思われます。
後者について、確かに、馬曳、牛飼など職能民?とされる埴輪は、小さく簡素な上げ美豆良に結っていることが多いようです。
活動的に生活していただろう彼等の美豆良が、簡便の用から何度も折り返して小さくまとめられ、上げ美豆良の形になるのは必然のことでしょう。
位置から考えても、長くふっさりと美豆良を垂れていると、顔を勢いよく振るだけで痛いことになりそうです。
しかし、支配階級と思しき様相の個体にも、上げ美豆良を結ったものが存在するため、必ずしもこうであるとは言い切れません。
上げ美豆良か否か(上方への突起が有るか無いか)というよりも、
むしろ、下垂部分の大小長短、結い方の装飾性を見るべきではないでしょうか。
(つまり結局は前者と同じということになる)
活動的に生活していただろう彼等の美豆良が、簡便の用から何度も折り返して小さくまとめられ、上げ美豆良の形になるのは必然のことでしょう。
位置から考えても、長くふっさりと美豆良を垂れていると、顔を勢いよく振るだけで痛いことになりそうです。
しかし、支配階級と思しき様相の個体にも、上げ美豆良を結ったものが存在するため、必ずしもこうであるとは言い切れません。
上げ美豆良か否か(上方への突起が有るか無いか)というよりも、
むしろ、下垂部分の大小長短、結い方の装飾性を見るべきではないでしょうか。
(つまり結局は前者と同じということになる)
埴輪を見てみづらの様子を想像するのはとても楽しい作業でしたが、ともすれば妄想があっちこっち暴走してしまうので控えめにしておくのが大変でした(漏れてるけど)
ただ、帽子や兜、頭巾の類は、『どうしろと!?』というものが多く、そもそも材質が何であるか、帽子なのか兜なのか、いやもしかしてこれは固めて盛ったアップヘア…とさえ思えるものもあり、結局、筆者の力不足から多くを割愛してしまいました。悔やまれるところです。
凡てのタイプの埴輪みづらを網羅しているとは言い難いですが、
とりあえずはざっと概観できたのでは いや、埴輪好きの方にはお叱りを受けそうですが。
とりあえずはざっと概観できたのでは いや、埴輪好きの方にはお叱りを受けそうですが。
次回からは古墳時代から時を下っていきますが、
もしおもしろいみづらの埴輪があれば、また絵を描いてみたいな、なんて思っています。
もしおもしろいみづらの埴輪があれば、また絵を描いてみたいな、なんて思っています。
おまけのボツ絵。
みづら祭に古代みずらのことも書いてみよう、と決めたあたりに描いたもので
そのあと、埴輪とにらめっこすることを思いついたので、こちらはボツになりました。
正直、それ耳だろうって思う埴輪もありますよね。
参考資料:
「日本結髪全史」(江馬務/東京創元社)
「日本結髪全史」(江馬務/東京創元社)
「日本の美術23 結髪と装飾」(至文堂)
「ものが語る考古学シリーズ(6) 人物はにわの世界」(稲村繁、森昭/同成社)
「人物埴輪の文化史的研究」(塚田良道/雄山閣)
「もっと知りたい はにわの世界~古代社会からのメッセージ」(若狭徹/東京美術)
全日本及び三千世界のみづら愛好家の皆様こんばんは。
ただいまみづら祭を開催中です。
今回も引き続き「埴輪のみづらを描いてみよう!」の回です。
ぎせいし…ゲフゲフン
モデルはこちら~
大和高田市池田遺跡9号墳の靫(ゆぎ)を負う武人の埴輪。
かなり凝ったつくりの埴輪です。
面長で首も長くてめずらしい造形ですよね。
上半身しか残っていませんが、背中には弓箭を入れる靫を背負っています。
靫は単体の埴輪でも出ているみたいですが、絵に描いたものなんかはすごく装飾的ですね。
実際の物は鮮やかに彩色されてたんじゃないかな…。
というか
ドリル…そして角…
妄想でこねくり回した結果、
ドリル美豆良は細い紐で縛り上げ、
兜の角状突起は飾り羽に
頭頂部のなだらかな割れ目は髪の分け目に
額にかぶさった部分を前髪に
…してみました。あながち間違いでもないような気もしますが
ど…うでしょうか…。
あと
夕べ五輪の馬術障害を見ながらスケッチしてたので
活用してみました。
よい子は上のと顔違うーとか云わないの。
弓は実用重視で小さめにしました。。
馬形埴輪はおなじみですが
改めて見てみると馬具が結構豪華ですよね。
神馬に載せる唐鞍の雲珠の、簡易版がついてたり。雲珠好きだー。
儀式用装備だから余計きらきらしくしてあるんでしょうけども。
今回は実用シーンということでちょっと控えめ…。
そういえば、馬型埴輪はあるけれど
騎馬のかたちでは例がないみたいで
それも意外といえば意外だけど…さすがに難しかったんだろうか。
小さいものならできないこともなさそうだけど。
描きながら「ワンダと巨像」が懐かしくなりました…。
もう一回くらい埴輪みづらかな?
次回は埴輪のみづらをあれこれ並べてみようと思います。
◆◇みづら祭の目次はこちら◇◆
ただいまみづら祭を開催中です。
今回も引き続き「埴輪のみづらを描いてみよう!」の回です。
ぎせいし…ゲフゲフン
モデルはこちら~
大和高田市池田遺跡9号墳の靫(ゆぎ)を負う武人の埴輪。
かなり凝ったつくりの埴輪です。
面長で首も長くてめずらしい造形ですよね。
上半身しか残っていませんが、背中には弓箭を入れる靫を背負っています。
靫は単体の埴輪でも出ているみたいですが、絵に描いたものなんかはすごく装飾的ですね。
実際の物は鮮やかに彩色されてたんじゃないかな…。
というか
ドリル…そして角…
妄想でこねくり回した結果、
ドリル美豆良は細い紐で縛り上げ、
兜の角状突起は飾り羽に
頭頂部のなだらかな割れ目は髪の分け目に
額にかぶさった部分を前髪に
…してみました。あながち間違いでもないような気もしますが
ど…うでしょうか…。
あと
夕べ五輪の馬術障害を見ながらスケッチしてたので
活用してみました。
よい子は上のと顔違うーとか云わないの。
弓は実用重視で小さめにしました。。
馬形埴輪はおなじみですが
改めて見てみると馬具が結構豪華ですよね。
神馬に載せる唐鞍の雲珠の、簡易版がついてたり。雲珠好きだー。
儀式用装備だから余計きらきらしくしてあるんでしょうけども。
今回は実用シーンということでちょっと控えめ…。
そういえば、馬型埴輪はあるけれど
騎馬のかたちでは例がないみたいで
それも意外といえば意外だけど…さすがに難しかったんだろうか。
小さいものならできないこともなさそうだけど。
描きながら「ワンダと巨像」が懐かしくなりました…。
もう一回くらい埴輪みづらかな?
次回は埴輪のみづらをあれこれ並べてみようと思います。
◆◇みづら祭の目次はこちら◇◆
全日本及び三千世界のみづら愛好家の皆様、こんにちは。
ひきつづきみづら祭を開催中です。
今回から数回に分けて、埴輪のみづらをお絵かきしてみよう、という…
まあ…写真を見て妄想するだけというと…身も蓋もないのですが…w
と、とりあえず一回は古墳時代の装束全身を描いてみようかな、ということで
比較的プレーンなところから。
鷹匠埴輪(群馬県伊勢崎市出土/大和文華館所蔵)。
この埴輪 鷹がそっぽ向いちゃってるんですよねw
着ているのは衣褌(きぬはかま)。
筒袖、左前の上衣に帯を締めて、褌(ズボン)を履き、
帯には短めの倭刀を佩いて、弓を射るときに腕を守る防具、鞆(とも、革張りのドーナツ状のもの。
弓弦が当たるといい音がした)を下げています。
…なのかなー。弦巻かもしれないけど…。
そういえば、鞆をまともに装着した図って見たことがないのです。
のちに儀礼化して、武官が形ばかり帯から下げていたりはするのですが、
腕につけているところって、どんな感じなんでしょう。
「高鞆(たかとも)」とか「鞆音(ともと)」とか、ことばが好きなので、いつか見てみたいなあと思うんですが。
褌は膝下に結ぶ足結(あゆい)で長さを調節します。
兜はちょっとわからなかったので、鉢金風にしてしまいました…。
お供の子は、鷂(はいたか)です。
大物狙いの大鷹狩ではなく、小さな禽獣を狙う小鷹狩では、
鷂や雀鷂(つみ)の雄・悦哉(えっさい)、長元坊などの「小鷹」を使います。
埴輪の鷹が小さめなので、小鷹から選んでみました。
鷹の埴輪は単品でも見つかっていますが、どれもかわいいですね。
みづらは……
ちまき……w
ではなくてw
結ぶものの手がかりが何もないので、無難にまとめました。
長く垂れるものだと、元はある程度しっかり結わないと…。
今回はみずらについては、あまり書くことがないので(しっかりしろ)
「狩りと王権」(斎宮歴史博物館発行)から、
日本における鷹狩りのおおまかな流れをまとめてみます。
◆中央アジアが起源とされ、いまのアムール地方やウラジオストクなどから中国・朝鮮に伝わった。
沿海州産の鷹は「海東青」と呼ばれて、中国で珍重された。
◆騎馬民族の狩猟法なので、馬がいなくちゃ始まらない。鷹狩りも馬と一緒に輸入されたもよう。(4~5世紀ごろ?)
鷹は短い距離を全速で飛ぶので、瞬発力のある足で追いかける必要がある。
◆日本書紀では、鷹狩りを伝えたのは百済王族の酒君ということになっている。
◆日本では馬そのものが珍しく、従って鷹狩りを行うのも支配者の特権であった。
食料や皮の調達、害獣駆除のためではなく、示威、軍事演習を兼ねたレジャー。
◆律令制下では、兵部省の管轄に「主鷹司」があり、河内・摂津・大和に「鷹養戸」が置かれていた。
◆奈良時代に入ると、貴族が自分の邸内で鷹を飼うこともなされた。
大伴家持は、飛んでいった鷹を惜しんで夢を見たことを、長歌に作っている。(万葉17-4011)
◆平安初期、桓武・平城・嵯峨朝あたりが帝による鷹狩のピークで、桓武さんは自ら鷹の世話をしたり、
嵯峨さんは鷹の飼い方本(新修鷹経)を書いたり、鷹狩り用の別荘(河陽院)を造らせたりした。
◆禁野での狩り、無届けの鷹狩りが禁止され、鷹狩りが帝の専有になる。
◆一時絶えて、光孝天皇によって再び行われるようになった頃には、天皇の出御自体がおおごとという時代。
日帰りの狩りでも「野行幸」という一大行事になっていた。野行幸は宇多・醍醐でピークを迎え、
この頃の事を取材して源氏物語「行幸」にも描かれるが、次第に衰退する。
◆白河さんによっていっときだけ復興される。
◆武家が政権を執るようになると、ふたたび為政者の狩が行われるようになり、鷹狩りも江戸幕府で盛んに行われた。
日本での鷹狩りって、最初から権力と結びついていたんですねい。
そういえば、弟切草の名前の由来になったのも、平安時代の鷹匠兄弟の話でしたね。
次回も埴輪のみづらになると思います。
◆◇みづら祭の目次はこちら◇◆
参考文献:
「日本の美術No.23 結髪と髪飾」(至文堂)
「狩りと王権」(斎宮歴史博物館 平成7年特別展図録)
「もっと知りたい はにわの世界~古代社会からのメッセージ」(若狭徹/東京美術)
「原色日本服飾史」(井筒雅風/光琳社出版)
ひきつづきみづら祭を開催中です。
今回から数回に分けて、埴輪のみづらをお絵かきしてみよう、という…
まあ…写真を見て妄想するだけというと…身も蓋もないのですが…w
と、とりあえず一回は古墳時代の装束全身を描いてみようかな、ということで
比較的プレーンなところから。
鷹匠埴輪(群馬県伊勢崎市出土/大和文華館所蔵)。
この埴輪 鷹がそっぽ向いちゃってるんですよねw
着ているのは衣褌(きぬはかま)。
筒袖、左前の上衣に帯を締めて、褌(ズボン)を履き、
帯には短めの倭刀を佩いて、弓を射るときに腕を守る防具、鞆(とも、革張りのドーナツ状のもの。
弓弦が当たるといい音がした)を下げています。
…なのかなー。弦巻かもしれないけど…。
そういえば、鞆をまともに装着した図って見たことがないのです。
のちに儀礼化して、武官が形ばかり帯から下げていたりはするのですが、
腕につけているところって、どんな感じなんでしょう。
「高鞆(たかとも)」とか「鞆音(ともと)」とか、ことばが好きなので、いつか見てみたいなあと思うんですが。
褌は膝下に結ぶ足結(あゆい)で長さを調節します。
兜はちょっとわからなかったので、鉢金風にしてしまいました…。
お供の子は、鷂(はいたか)です。
大物狙いの大鷹狩ではなく、小さな禽獣を狙う小鷹狩では、
鷂や雀鷂(つみ)の雄・悦哉(えっさい)、長元坊などの「小鷹」を使います。
埴輪の鷹が小さめなので、小鷹から選んでみました。
鷹の埴輪は単品でも見つかっていますが、どれもかわいいですね。
みづらは……
ちまき……w
ではなくてw
結ぶものの手がかりが何もないので、無難にまとめました。
長く垂れるものだと、元はある程度しっかり結わないと…。
今回はみずらについては、あまり書くことがないので(しっかりしろ)
「狩りと王権」(斎宮歴史博物館発行)から、
日本における鷹狩りのおおまかな流れをまとめてみます。
◆中央アジアが起源とされ、いまのアムール地方やウラジオストクなどから中国・朝鮮に伝わった。
沿海州産の鷹は「海東青」と呼ばれて、中国で珍重された。
◆騎馬民族の狩猟法なので、馬がいなくちゃ始まらない。鷹狩りも馬と一緒に輸入されたもよう。(4~5世紀ごろ?)
鷹は短い距離を全速で飛ぶので、瞬発力のある足で追いかける必要がある。
◆日本書紀では、鷹狩りを伝えたのは百済王族の酒君ということになっている。
◆日本では馬そのものが珍しく、従って鷹狩りを行うのも支配者の特権であった。
食料や皮の調達、害獣駆除のためではなく、示威、軍事演習を兼ねたレジャー。
◆律令制下では、兵部省の管轄に「主鷹司」があり、河内・摂津・大和に「鷹養戸」が置かれていた。
◆奈良時代に入ると、貴族が自分の邸内で鷹を飼うこともなされた。
大伴家持は、飛んでいった鷹を惜しんで夢を見たことを、長歌に作っている。(万葉17-4011)
◆平安初期、桓武・平城・嵯峨朝あたりが帝による鷹狩のピークで、桓武さんは自ら鷹の世話をしたり、
嵯峨さんは鷹の飼い方本(新修鷹経)を書いたり、鷹狩り用の別荘(河陽院)を造らせたりした。
◆禁野での狩り、無届けの鷹狩りが禁止され、鷹狩りが帝の専有になる。
◆一時絶えて、光孝天皇によって再び行われるようになった頃には、天皇の出御自体がおおごとという時代。
日帰りの狩りでも「野行幸」という一大行事になっていた。野行幸は宇多・醍醐でピークを迎え、
この頃の事を取材して源氏物語「行幸」にも描かれるが、次第に衰退する。
◆白河さんによっていっときだけ復興される。
◆武家が政権を執るようになると、ふたたび為政者の狩が行われるようになり、鷹狩りも江戸幕府で盛んに行われた。
日本での鷹狩りって、最初から権力と結びついていたんですねい。
そういえば、弟切草の名前の由来になったのも、平安時代の鷹匠兄弟の話でしたね。
次回も埴輪のみづらになると思います。
◆◇みづら祭の目次はこちら◇◆
参考文献:
「日本の美術No.23 結髪と髪飾」(至文堂)
「狩りと王権」(斎宮歴史博物館 平成7年特別展図録)
「もっと知りたい はにわの世界~古代社会からのメッセージ」(若狭徹/東京美術)
「原色日本服飾史」(井筒雅風/光琳社出版)
全日本及び三千世界のみづら愛好家のみなさま、こんにちは。
ただいまみづら祭を開催中です。
今回は…
恥を忍んで申し上げなければなりません。
先回、みづら概説にて「古代みづらの様子は埴輪から推測しただけのもの」というようなことを
書いてしまったのですが、その後で
1983年に茨城県土浦市武者塚古墳にて、
みづらの遺物が発見されていた
…ことを知りました。
うぎゃー恥ずかしい!!!無知って怖い!!
発見当時はかなり騒がれたようですが…。
立体再現した模型の写真を見ることが出来たのですが、なんだか微妙に複雑な形…。
さらに、筑波大学図書館の「遺跡リポジトリ」サービスにて、
当時の調査報告書をpdfで読むことが出来ましたので、
武者塚みづらを再現!
というようなことをやってみました。
武者塚古墳は、副葬品などから、7世紀後半頃(飛鳥時代)に作られた、終末期の古墳と考えられています。
『新治郡新治村上坂田、桜川左岸の標高28~30mほどの台地上に位置する。同地区内には17基の古墳の所在が確認されており、坂田古墳群と呼ばれている。武者塚古墳は、その中の1基である。』(茨城県教育委員会HP)
そこから見つかった人骨のうち一体の頭部横に、束ねた髪のかたまりが発見されました。これが、美豆良と考えられます。反対側の髷は失われてしまっていましたが、顎髭も残っていました。
さてさてそれではみづら再現レポートです。
遺物のみづらの実測は、全長(高さ)7.5cm。小さく思えますが、経年劣化で繊維が細ったのでしょう。
フレッシュな状態ならもっとボリュームがあったんでしょうね。
何しろ骨は粉々になってしまっていたり、どうして髪だけ残ったのか不思議なくらいです。
残念ながら筆者の髪は今はそれほど長くないので、ナマ美豆良というわけにはいきません。
用意したのはモヘア毛糸です。質感が遺髪っぽかったので(モヘアに謝れ)
水で溶いたヘアワックスをつけました。
(古代では、蔓植物から抽出した粘液や椿などの実から採った油、獣脂を整髪料にしていました。
整髪料や理容具についても回をとってお話ししようと思います)
なんとういうかこう、手作り感が……夏休みの自由研究みたいだねw
************************
1)とりあえず概算で45cmの毛糸束をつくり、結び目を元取と想定して結い始めます。
(ここで既に、元取りを結った紐の余りを垂らしてあるという想定です)
2)元取の位置が高さの中央になるように輪を作ります。
3)上部をひねります。 4)毛先が出てくるので、巻き付けます。
5) 6)ひねった部分を折り込みます。
7) 8)元結の紐を巻き付けて結びます。武者塚のみづらは樹皮で結ってあったらしく、
中央2.5cmほど結び目の跡らしきものがのこっていたそうです。
なお、復元図より上気味に結ばないと、編み込みで作ったこぶが紐から飛び出てしまいます。
9) 完成。ちなみに、めのこ結び。
************************
おわりに:
今回は固定していない状態で結いましたが、頭から生えている髪を結う場合は、
こんなに全体にひねりを入れなくても、上部をねじりながら折る、くらいでいいかも知れません。
途中で毛先を揃えたりして、最終的に解いた長さは40cm強といったところ。
耳から垂らすとみぞおちくらいですかね。
この、毛先を巻き込みながら捻り込む方法は、
長めの髪を結うときに毛先を始末する手段の一つと考えてもよいのではないでしょうか。
亡くなったときの髪型なのか、埋葬されるときに結い直されたのかは解りませんが、
結い直されたのだとすると、盛装に近い形だったのかも知れません。
被葬者の身分などが不明である為、これが「いわゆる下げ美豆良=上位階級」という図式の反証になる
…とまでは言い切れませんが。
埴輪に造形上の誇張あるいは省略が入っていることも改めて考えなければならないな、と、実物を見て思いました。
もちろん、耳の上につけて遊びましたが、さすがに写真は撮りませんでしたw
いかがでしたでしょうか。
ちなみに、リポジトリで読んだ発掘調査書は、克明な日誌や、石室内の見取り図、科学警察や医師による人骨の鑑定なども添えられていて、すごく生々しかったです…。考古学の先生のみづらに対する当時の考察が読めたのも、私は嬉しかった。
興味がお有りの方は是非ご一読をお勧めします~。
◆◇みづら祭の目次はこちら◇◆
ただいまみづら祭を開催中です。
今回は…
恥を忍んで申し上げなければなりません。
先回、みづら概説にて「古代みづらの様子は埴輪から推測しただけのもの」というようなことを
書いてしまったのですが、その後で
1983年に茨城県土浦市武者塚古墳にて、
みづらの遺物が発見されていた
…ことを知りました。
うぎゃー恥ずかしい!!!無知って怖い!!
発見当時はかなり騒がれたようですが…。
立体再現した模型の写真を見ることが出来たのですが、なんだか微妙に複雑な形…。
さらに、筑波大学図書館の「遺跡リポジトリ」サービスにて、
当時の調査報告書をpdfで読むことが出来ましたので、
武者塚みづらを再現!
というようなことをやってみました。
武者塚古墳は、副葬品などから、7世紀後半頃(飛鳥時代)に作られた、終末期の古墳と考えられています。
『新治郡新治村上坂田、桜川左岸の標高28~30mほどの台地上に位置する。同地区内には17基の古墳の所在が確認されており、坂田古墳群と呼ばれている。武者塚古墳は、その中の1基である。』(茨城県教育委員会HP)
そこから見つかった人骨のうち一体の頭部横に、束ねた髪のかたまりが発見されました。これが、美豆良と考えられます。反対側の髷は失われてしまっていましたが、顎髭も残っていました。
さてさてそれではみづら再現レポートです。
遺物のみづらの実測は、全長(高さ)7.5cm。小さく思えますが、経年劣化で繊維が細ったのでしょう。
フレッシュな状態ならもっとボリュームがあったんでしょうね。
何しろ骨は粉々になってしまっていたり、どうして髪だけ残ったのか不思議なくらいです。
残念ながら筆者の髪は今はそれほど長くないので、ナマ美豆良というわけにはいきません。
用意したのはモヘア毛糸です。質感が遺髪っぽかったので(モヘアに謝れ)
水で溶いたヘアワックスをつけました。
(古代では、蔓植物から抽出した粘液や椿などの実から採った油、獣脂を整髪料にしていました。
整髪料や理容具についても回をとってお話ししようと思います)
なんとういうかこう、手作り感が……夏休みの自由研究みたいだねw
************************
1)とりあえず概算で45cmの毛糸束をつくり、結び目を元取と想定して結い始めます。
(ここで既に、元取りを結った紐の余りを垂らしてあるという想定です)
2)元取の位置が高さの中央になるように輪を作ります。
3)上部をひねります。 4)毛先が出てくるので、巻き付けます。
5) 6)ひねった部分を折り込みます。
7) 8)元結の紐を巻き付けて結びます。武者塚のみづらは樹皮で結ってあったらしく、
中央2.5cmほど結び目の跡らしきものがのこっていたそうです。
なお、復元図より上気味に結ばないと、編み込みで作ったこぶが紐から飛び出てしまいます。
9) 完成。ちなみに、めのこ結び。
************************
おわりに:
今回は固定していない状態で結いましたが、頭から生えている髪を結う場合は、
こんなに全体にひねりを入れなくても、上部をねじりながら折る、くらいでいいかも知れません。
途中で毛先を揃えたりして、最終的に解いた長さは40cm強といったところ。
耳から垂らすとみぞおちくらいですかね。
この、毛先を巻き込みながら捻り込む方法は、
長めの髪を結うときに毛先を始末する手段の一つと考えてもよいのではないでしょうか。
亡くなったときの髪型なのか、埋葬されるときに結い直されたのかは解りませんが、
結い直されたのだとすると、盛装に近い形だったのかも知れません。
被葬者の身分などが不明である為、これが「いわゆる下げ美豆良=上位階級」という図式の反証になる
…とまでは言い切れませんが。
埴輪に造形上の誇張あるいは省略が入っていることも改めて考えなければならないな、と、実物を見て思いました。
もちろん、耳の上につけて遊びましたが、さすがに写真は撮りませんでしたw
いかがでしたでしょうか。
ちなみに、リポジトリで読んだ発掘調査書は、克明な日誌や、石室内の見取り図、科学警察や医師による人骨の鑑定なども添えられていて、すごく生々しかったです…。考古学の先生のみづらに対する当時の考察が読めたのも、私は嬉しかった。
興味がお有りの方は是非ご一読をお勧めします~。
◆◇みづら祭の目次はこちら◇◆